歩ける圏内で映画を観て友人に会えるとは何たる幸せであろうか!今日は私の地元の映画館でお友達と「モンスター」を観た。(以下、ねたばれ有り枡)
全米初の女性死刑囚を描き、アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得したことでも話題になった作品。ボディソープのCMで艶然とほほえむ美人女優の面影はあとかたもなく、主人公の連続殺人犯になりきる自己改造をほどこしたシャーリーズ・セロンがともかくすごい。13キロ増やしたという体型は(日頃は気配りを怠らないであろう)女優のそれではなく、いくぶんはメークもあるのだろうが、肌から髪の質までも娼婦としてぎりぎりの生き方を強いられてきた女性そのものだった。
道路脇で客をとりながらわずかな金を得ていたアイリーン(“リー”)は、乱暴にレイプしてきた客を撃ち殺し、その後も客を拾っては殺めてゆく。彼女が罪を重ねたのはなぜだろうか。バーで出会った娘セルビー(クリスティーナ・リッチ)を愛するようになり、彼女との逃避行を続けるため一度はかたぎになろうとするのだがうまくいかず、リーは不本意ながら危険な商売を続けることになる。リーの立場からすれば、社会は彼女のために多くの選択肢を用意しておらず、売春も殺人も「こうするしかなかった」のだろう。生きるために選ぶことができる道が他になかったから。不幸な生い立ちを経て、夢破れたあげくの彼女の犯罪はすべて社会や環境のせいにはできないだろうが、彼女が殺人を犯すようになるまでに、視野を広げられるような出会いを得られなかったのはとりわけ不運なことだっただろうと思う。
それでも、粗暴なところのあるリーが、最後まで面倒を見るほど尽くしたセルビーと出会えたのは彼女の心にとって恵みだったのかもしれない。でも(言ってもしょうがないけど)セルビーがもっと精神的に大人であれば不幸な結末は避けられたのでは、とも思う。
この作品は女性監督(パティ・ジェンキンス)によるものだが、良くも悪くも「中立」の立場をとっているように感じた。「社会を震撼させた」重い題材のはずなのだが、胃にもたれることもなく割と「すとん」と観てしまった。「こういう女性がいました、まる」で終わりにしているというか。別に仰々しく語る必要はないんですけど。もうちょっとあしらい方があるような気もする。
劇中に使われた80年代のREOスピードワゴンやジャーニーの大味でAM(ラジオ)な感じが舞台となるアメリカの地方都市(どこだろう?)の雰囲気と微妙によく合っていた。セロン姐さんばかり話題になるけれど、クリスティーナ・リッチも頑張っていたと思う。童顔なのにお身体が大人のところが似ている気がして私はよくソーラ・バーチ(「ゴーストワールド」)とごっちゃになってしまう。
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その後、とっておき地元カフェでこれまたなかなか会えないラブリーなお友達と、珍しくお茶ではなくワインを前にお話する。来年のイベントの話とか、「なぜ男性作家は『女体』(にょたい)という言葉を使うのか?」とか、いろいろと(後で辞書をひいたら、「男体」という言葉もあるのがわかったが、これは使われているのを見たことがない)。
これからは「潔癖」がINであるような時代が来ないかしら、という話も。セカチュウと冬ソナが売れ、みんな「純愛」したいのならば、もっと潔癖に、ストイックになるべきではないだろうか!集めるだけ集めて、そのなかから唯一無二のものを拾おうなんてそうはいかなくてよ。潔癖すぎて手持ちが何もない私が言っても「負け犬の遠吠え」かもしれないですけど。でも犬は好きだからいいや。
全米初の女性死刑囚を描き、アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得したことでも話題になった作品。ボディソープのCMで艶然とほほえむ美人女優の面影はあとかたもなく、主人公の連続殺人犯になりきる自己改造をほどこしたシャーリーズ・セロンがともかくすごい。13キロ増やしたという体型は(日頃は気配りを怠らないであろう)女優のそれではなく、いくぶんはメークもあるのだろうが、肌から髪の質までも娼婦としてぎりぎりの生き方を強いられてきた女性そのものだった。
道路脇で客をとりながらわずかな金を得ていたアイリーン(“リー”)は、乱暴にレイプしてきた客を撃ち殺し、その後も客を拾っては殺めてゆく。彼女が罪を重ねたのはなぜだろうか。バーで出会った娘セルビー(クリスティーナ・リッチ)を愛するようになり、彼女との逃避行を続けるため一度はかたぎになろうとするのだがうまくいかず、リーは不本意ながら危険な商売を続けることになる。リーの立場からすれば、社会は彼女のために多くの選択肢を用意しておらず、売春も殺人も「こうするしかなかった」のだろう。生きるために選ぶことができる道が他になかったから。不幸な生い立ちを経て、夢破れたあげくの彼女の犯罪はすべて社会や環境のせいにはできないだろうが、彼女が殺人を犯すようになるまでに、視野を広げられるような出会いを得られなかったのはとりわけ不運なことだっただろうと思う。
それでも、粗暴なところのあるリーが、最後まで面倒を見るほど尽くしたセルビーと出会えたのは彼女の心にとって恵みだったのかもしれない。でも(言ってもしょうがないけど)セルビーがもっと精神的に大人であれば不幸な結末は避けられたのでは、とも思う。
この作品は女性監督(パティ・ジェンキンス)によるものだが、良くも悪くも「中立」の立場をとっているように感じた。「社会を震撼させた」重い題材のはずなのだが、胃にもたれることもなく割と「すとん」と観てしまった。「こういう女性がいました、まる」で終わりにしているというか。別に仰々しく語る必要はないんですけど。もうちょっとあしらい方があるような気もする。
劇中に使われた80年代のREOスピードワゴンやジャーニーの大味でAM(ラジオ)な感じが舞台となるアメリカの地方都市(どこだろう?)の雰囲気と微妙によく合っていた。セロン姐さんばかり話題になるけれど、クリスティーナ・リッチも頑張っていたと思う。童顔なのにお身体が大人のところが似ている気がして私はよくソーラ・バーチ(「ゴーストワールド」)とごっちゃになってしまう。
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その後、とっておき地元カフェでこれまたなかなか会えないラブリーなお友達と、珍しくお茶ではなくワインを前にお話する。来年のイベントの話とか、「なぜ男性作家は『女体』(にょたい)という言葉を使うのか?」とか、いろいろと(後で辞書をひいたら、「男体」という言葉もあるのがわかったが、これは使われているのを見たことがない)。
これからは「潔癖」がINであるような時代が来ないかしら、という話も。セカチュウと冬ソナが売れ、みんな「純愛」したいのならば、もっと潔癖に、ストイックになるべきではないだろうか!集めるだけ集めて、そのなかから唯一無二のものを拾おうなんてそうはいかなくてよ。潔癖すぎて手持ちが何もない私が言っても「負け犬の遠吠え」かもしれないですけど。でも犬は好きだからいいや。
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