アメリカの女性写真家、ローリー・トビー・エディソンのスライド上映&トークのイベント「からだへのまなざし」に行った。会場の1929ホールは昔、銀行だったそうで天井が高く雰囲気のある建物である(…でも今日はちと寒かった)。

エディソンには太った女性のヌード("Women En Large")や、一般の男性のヌード("Familiar Men")を撮った作品群があり、私が目当てとしたのもそれらの作品やその辺の話題であった。

イベント後に友人が買った写真集を見せてもらって改めて感じたけれど、ヌードになった豊かな女性たちは、全身がリラックスしていて、被写体の女性が親しい人に見せる顔ってこうなのかな、と思ったりする。

「太っている人も美しい」それはもちろんそうなのだが、ヌードになった女性をみな等しく美しく思うかというとそうではなく、自分が好き、と思えるのと、そうでもないのとがある…というのは体型とは別のところにある、自分のなかの「美の基準」なり「好ましさの基準」なんだろうか・なー。

友人が鋭く指摘し私も同感したことは、男性のヌード写真のほうに「びくびく」(怖れ)がやや感じられること。しゃがんでいたり、着衣ではおそらくしないであろう「女の子座り」の男性が何人かいる。男性のほうが女性よりも身体と自分がややこしい関係になっていたりするのだろうか・ねー。

エディソンは"Women of Japan"という日本の女性を撮るプロジェクトも進めていて、そのモデルになった女性たちもディスカッションに加わるという盛りだくさんのプログラムだった。ただ、"Women En Large"の身体の抜け感に比べて、会場に漂う言葉の多くが硬くて自分の耳に入ってこなかったというのも事実。名のある文芸評論家や文筆・翻訳家の方々なので、私が軟派なせいではないか?とも思ったが、入ってこないものは入ってこないのだ。

モデルになった女性のひとりがとても面白いことを言っていた。「人はそれぞれみな違うのに、どうして性別は男と女しかないの?」というようなことを子ども時代に思ったそうだ(正確な言い回しはうろ覚えですみません)。
なるほど! すごく無理があるよね。私が「女性としてどう振る舞ったらいいの、どう存在していたらいいの?」といちいち悩んでしょうがない、というのも当然か!…というように彼女の言葉は私にとって大ヒットでした。

たぶん会場にお集まりの濃ゆい感じ(私なんか薄いほうですよ)の方々は、なにかお互いシェアするものがあったんじゃないだろうか。フロアから出た質問や感想はとても面白かった。それだけに人と人とをつなぐ言葉が、パネリストたちから出なかったように思われるのが残念だった。

写真っていうのは撮る人と撮られる人との関係で変わる、ということがよくわかりました。ヌードでも、それを見て掻きたてられる感情は関係性によってずいぶん違ったものになるみたいだ。何もまとわない身体というのは、実はなかなか「裸のままでいられない」ものなのかな。

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日記、3日ぶりに読めた! うれしや、ばんざーい。

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