今月のうつ会は遠出して新潟で行った。というのも3月に旅立ったうつ友のお参りをするためである。金曜の午後、新幹線で燕三条へ、それから車を借りて田の浦まで走る。といっても私は紙ドライバーなので、運転はもっぱら友人がしてくれた。田の浦で泊まったホテルは、部屋からも温泉からも日本海が見える。すいていたせいか二人なのに8人くらい泊まれそうな大きな部屋に通してくれた。夕食はカニをはじめ海の幸がたくさん、今年のシーフードはこれで終了!と思うくらい海のご馳走が並べられ、2時間かけても食べ終わらないほどだった。もちろん温泉にもゆっくりつかって、お肌つるつる〜になった。これがずっと続けばねえ。

翌日は友人のお母様と待ち合わせ、寺へと向かう。山間の寺、と聞いていたのでうっそうとした、暗い場所を想像していたのだがさにあらず、四季折々の彩りが楽しめそうな手入れの行き届いた庭に、建物も新しく、また海にも近く開けた感じのする明るいお寺だった。街なかではこのような場所は望めないだろう。親類縁者のいない人でも寂しい思いをせずにすむような「集合墓所」もあり、私もここに入ろうかな…という気持ちにもなった(縁者はいますが)。友人の休む場所がこのように自然と開放感に恵まれた環境であることを知って、そして後述のようにお母様や友人と話せたのは刺激もあるが恵みであった。

お参りをして、友人の写真を持ってきてくださったお母様が、近くにあるワイナリーなど案内してくださりその道すがらいろいろ話す。当然といえば当然だが、お母様の話す「娘」のストーリーと、私が持っている「友人」である彼女のストーリーは違う。あまり自分のことを話さない人だったが、自分はどのくらい彼女のことを知っていると言えるのか。私は知ったような気になっていたのではないか。傲慢だと思う、自分。彼女のことを知ったような気で、あれこれ言ってみていたが、届くものはなかったか、的外れなものばかり投げていた。

でも彼女の人生の問題である以上、ある一時だけ踏みこんで、あとは自分でやってね、というふうにはできなかった。私は彼女を「ベテラン」と思っていたから、踏みこめ(ま)なかったし、その流れで言うなら彼女の行為は、彼女らしい選択として受け入れるほかない、ということになる。旅行から帰ったあとも同行した友人といろいろ話し、そのようなところに落ちつくのだが、自分のなかではまだ完全に収拾がついたわけではなく、つかめていない感情や、いろいろなクエスチョンマークが残っている。親しい人をなくすという体験がどういうものなのか、よくわからない。

(正直に言えば、恵みというより、刺激なのかな。その後、この旅行で私はちくちく刺されるところがあったらしく、友人に聞いてもらい別に思うところ・感じるところもでてきて、そのあたりは二十日の日記に書いてある。なので今はちょっと違う思いもあるけどこれはこれで残しておく。風通しのよいお寺だったけど、自分はまだ風通しよくないのだろう)

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