ずぶぬれ心理学
2005年9月5日担当する講座の準備に、「家族」関係の本を読んだ。自分に飛沫がかからないところで、人の分析するような心理学の使い方はゴミ、と思う。けれども、ひっかかりがあればそれはそれで難儀。以下、雑感。
●ある治療者が摂食障害の女性に「拒食症とは他者を受け入れることができない病気だ」と言ったそうだ。その女性は「食物がかなり手ごわい他者である」とその言葉を受けて言っている。
今の私は食物を摂り入れることができるようになった…というか以前ほどの関心がないのだ。カロリーを気にしないわけではないが、極端に言えば空腹を感じないですめばいい、というくらいでジャンクフードでもなんでも食べる。なんでも食べるけど、それが「おいしいもの」であるかどうか、こだわっていないのかもしれない。これは「他者を受け入れている」ことになっているのだろうか。食物は私にとって重要でない他者で、私の対応がおざなりなのだろうか。ひょっとしたら、それは食物に対してだけではないのではなかろうか。
●摂食障害者のなかには、性的に奔放であったり、「セックスワーカー」(風俗などで働く人;本人の言葉による)である人たちがいる。私にはやはりその人たちに対する羨望がどうしてもある。私は拒食のまま、過食は経験せずに「たべものの問題」はとりあえず収束してしまったが、「女性である自分」の問題はいまだに落ちつきが得られていない。生きているあいだ、これを背負っていかねばならないのかと思うと、日常生活を営むための力がしゅる〜と抜けていく思いだ。「これ」=「自分が女性に振り分けられてしまったことにまつわる悲しみ、寂しさ」はクスリでもどうにもならない。この辺から自分のうつや寂しさは製造されているのではないかと思う。
自分にとって「女性であること」の問題はあまりに厄介なので、いっそ渦中に身を投じてしまったほうが解決が早いのではないかと思いさえする。なので↑に書いたような、羨望が根強くある。「拒」は「過」に通じる、とか誰か言ってたけど、「過」のほうが感覚的に回復に近いのではないかと私は感じている。なんとなく、だけど。
「女性であること」の意識をネガからポジに変えるにはどうしたらいいのだろう。切実に知りたい。昔の(今も?)バカな医者は「結婚すれば治る、子どもを生めば治る」と言って済ませていたんだろうけど。許せない。
…こんなこといちいち、きりきりと思わなくても、いいのに。別に授業に使えるわけじゃないし、と思ってもスルーできるほど人間できていないのだ。
●ある治療者が摂食障害の女性に「拒食症とは他者を受け入れることができない病気だ」と言ったそうだ。その女性は「食物がかなり手ごわい他者である」とその言葉を受けて言っている。
今の私は食物を摂り入れることができるようになった…というか以前ほどの関心がないのだ。カロリーを気にしないわけではないが、極端に言えば空腹を感じないですめばいい、というくらいでジャンクフードでもなんでも食べる。なんでも食べるけど、それが「おいしいもの」であるかどうか、こだわっていないのかもしれない。これは「他者を受け入れている」ことになっているのだろうか。食物は私にとって重要でない他者で、私の対応がおざなりなのだろうか。ひょっとしたら、それは食物に対してだけではないのではなかろうか。
●摂食障害者のなかには、性的に奔放であったり、「セックスワーカー」(風俗などで働く人;本人の言葉による)である人たちがいる。私にはやはりその人たちに対する羨望がどうしてもある。私は拒食のまま、過食は経験せずに「たべものの問題」はとりあえず収束してしまったが、「女性である自分」の問題はいまだに落ちつきが得られていない。生きているあいだ、これを背負っていかねばならないのかと思うと、日常生活を営むための力がしゅる〜と抜けていく思いだ。「これ」=「自分が女性に振り分けられてしまったことにまつわる悲しみ、寂しさ」はクスリでもどうにもならない。この辺から自分のうつや寂しさは製造されているのではないかと思う。
自分にとって「女性であること」の問題はあまりに厄介なので、いっそ渦中に身を投じてしまったほうが解決が早いのではないかと思いさえする。なので↑に書いたような、羨望が根強くある。「拒」は「過」に通じる、とか誰か言ってたけど、「過」のほうが感覚的に回復に近いのではないかと私は感じている。なんとなく、だけど。
「女性であること」の意識をネガからポジに変えるにはどうしたらいいのだろう。切実に知りたい。昔の(今も?)バカな医者は「結婚すれば治る、子どもを生めば治る」と言って済ませていたんだろうけど。許せない。
…こんなこといちいち、きりきりと思わなくても、いいのに。別に授業に使えるわけじゃないし、と思ってもスルーできるほど人間できていないのだ。
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