それすらも日常は含む
2005年12月17日 読書
図書館で借りた「32歳ガン漂流 エヴォリューション」(奥山貴宏 牧野出版)、2度読んだところで、結局買うことにした。「VP」も2度読んだのだが、どちらか選ぶとしたら私は「ガンエヴォ」だ。
書店でこの本は哲学だの思想だの、あるいは精神世界といった棚に置かれることはないだろう。おそらく著者も生だの死だのを説こうなんて、意図してはいなかっただろうと思う。けれども、ガンエヴォ時点で、宣告された余命を使い切ろうとしていた著者が「一点賭け」するようになるプロセス、「もう迷う余地すらない」場所で残された力と時間を「書くこと」に向けるという姿勢は、上記の類の本に負けないくらい、あるいはそれらを超えて手応えのある大きなものをさりげなく伝えている。あまりになんでもなく渡してくれるので、私がその意味を味わいつくすにはまだまだ時間がかかるだろう。
奥山氏は書いている:
「いつ死ぬか分からないという極限状況すらオレにとってはもはや日常の一コマに過ぎない。もう慣れてしまった。いちいちそんなことを考えていたら生活もできない」
そ、そうなのか?! そこまで人は「慣れる」のか…。前作の「31歳ガン漂流」は「闘病のある日常」といった趣を興味深く面白く読んだが、「32歳」編はもちろん前にも増して闘病中なのだが、感じとしては「闘い」というより、むしろ究極の「慣れ」に行きついた果ての「落ちつき」を文章に感じる。実際に体験する身体の「痛み」はきつくなっているようなんだけど…。31歳から32歳、一年という短い期間でも著者にとってあまりに濃密な時間に読者として立ち合わせてもらえるとはなんて得がたいことだろう。
それでもしかし。だからといって私が「私は自分の生を懸命に生きよう」となるわけではない。
前作で著者は「だんだん世の中にリアリティが失われてきているように思う」といったことを書いていたと記憶している(本が手元にないのですみません)が、ガンエヴォでは彼にとっての紛れもないリアリティをつかんでいて、それがゆえの落ちつきでありエネルギーなのではないか。
リアリティなんて人から与えてもらえるものでなし、自分にとってのリアリティは自分で探すかつくるしかない。奥山氏が死と対峙すること、それによって限られた時間をフルに使うようになったからといって、自分にとっての「リアリティ」=「切実なること」のなかに、「しっかり生きること」があるかといえばそれは違う。いつかは含まれるようになるのかもしれないが少なくとも今はない(べつに自慢にゃならないですけど)。
私が私の行き着くところで落ちつきを得るには、ポジの方向にしろネガの方向にしろ、瞬間瞬間でリアルなものを選びギリギリのところでやっていくしかないでしょう。私はそういうやり方なんだろうと思う。
書店でこの本は哲学だの思想だの、あるいは精神世界といった棚に置かれることはないだろう。おそらく著者も生だの死だのを説こうなんて、意図してはいなかっただろうと思う。けれども、ガンエヴォ時点で、宣告された余命を使い切ろうとしていた著者が「一点賭け」するようになるプロセス、「もう迷う余地すらない」場所で残された力と時間を「書くこと」に向けるという姿勢は、上記の類の本に負けないくらい、あるいはそれらを超えて手応えのある大きなものをさりげなく伝えている。あまりになんでもなく渡してくれるので、私がその意味を味わいつくすにはまだまだ時間がかかるだろう。
奥山氏は書いている:
「いつ死ぬか分からないという極限状況すらオレにとってはもはや日常の一コマに過ぎない。もう慣れてしまった。いちいちそんなことを考えていたら生活もできない」
そ、そうなのか?! そこまで人は「慣れる」のか…。前作の「31歳ガン漂流」は「闘病のある日常」といった趣を興味深く面白く読んだが、「32歳」編はもちろん前にも増して闘病中なのだが、感じとしては「闘い」というより、むしろ究極の「慣れ」に行きついた果ての「落ちつき」を文章に感じる。実際に体験する身体の「痛み」はきつくなっているようなんだけど…。31歳から32歳、一年という短い期間でも著者にとってあまりに濃密な時間に読者として立ち合わせてもらえるとはなんて得がたいことだろう。
それでもしかし。だからといって私が「私は自分の生を懸命に生きよう」となるわけではない。
前作で著者は「だんだん世の中にリアリティが失われてきているように思う」といったことを書いていたと記憶している(本が手元にないのですみません)が、ガンエヴォでは彼にとっての紛れもないリアリティをつかんでいて、それがゆえの落ちつきでありエネルギーなのではないか。
リアリティなんて人から与えてもらえるものでなし、自分にとってのリアリティは自分で探すかつくるしかない。奥山氏が死と対峙すること、それによって限られた時間をフルに使うようになったからといって、自分にとっての「リアリティ」=「切実なること」のなかに、「しっかり生きること」があるかといえばそれは違う。いつかは含まれるようになるのかもしれないが少なくとも今はない(べつに自慢にゃならないですけど)。
私が私の行き着くところで落ちつきを得るには、ポジの方向にしろネガの方向にしろ、瞬間瞬間でリアルなものを選びギリギリのところでやっていくしかないでしょう。私はそういうやり方なんだろうと思う。
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