私の大好き監督、ラース・フォン・トリアーによる「アメリカ三部作」第2弾「マンダレイ」を観て参りました。どこが好きかというと、果てしなく暗かったり重かったりするのですが、そのしつこさのなかに主義主張があり、筋が通っているので、ひっくり返って爽快にすら感じられるところです(私だけ?)。
てなわけで期待十分で行ったのに、「寝ちゃだめ」と思っていたのに、途中寝てしまいました(全8章のうち3〜6章あたり寝たらしい)。しょしょしょっく。以下の感想はこのような状況において書かれるものです。ねたばれもします。
「マンダレイ」は「ドッグヴィル」(2003)の続編にあたる。主要キャストのヒロイン・グレースとその父役(ニコール・キッドマン/ジェームズ・カーン)は降板、ブライス・ダラス・ハワード(「ヴィレッジ」)とウィレム・デフォーに交替。個人的には、ここはやはり替えてほしくなかったなと思う。デフォーはベテランだけど、前作のJ・カーンとあまりに個性が違うし、カーンがグレースのパパ(実はギャングの首領)にぴったりだったので残念だ。
「ドッグヴィル」のグレース役、ニコール・キッドマンとブライスではそもそも格が違う。ニコールは必ずしも好きな女優ではないけれど、グレースという役柄の理想主義、無垢、といったところを体現していたし、それに加えてエンジェリック(angelic)というか人並みはずれた純粋さをかもし出していたので、ラストのカタルシスが効いたのだと思う。ブライスは…悪いけど「ものを知らない普通の娘」な感じがするだけ。余談ですが彼女の映画デビュー作 「ヴィレッジ」(M・ナイト・シャマラン監督)そのものも、「見かけ倒し」で「エイドリアン・ブロディやホアキン・フェニックスをこんなのに使うな」と個人的には憤りを感じたものです。
「マンダレイ」も「理想主義・正義の意識のもと、起こしたグレースの行動が、次第にまわりの人間とのあいだにきしみが生じ、思いがけない結末に至る」という構図自体は「ドッグヴィル」と同じ。なので、ヒロイン役はリセットする必要もあったのかもしれない、とも思うけれど。
前作「ドッグヴィル」は「よかれと思って献身的に尽くしたグレースの行動が、次第に村人たちのネガティブな心理を刺激し、限界まで虐げられたグレースが『こんなのやってられるか!えーい』とちゃぶ台をひっくり返してすがすがしく終わる…といったお話。しかし、その大逆転の結末に至るまでがとにかく重い、暗い。セットは極限にミニマルで舞台装置のよう、そうしたところは今回の「マンダレイ」でも同様です。
「マンダレイ」は(起きてた限りでまとめると)「ドッグヴィルを出た一行が着いたところはいまだ(設定は1933年)に奴隷制度が残るその名も『マンダレイ』という大農園。グレースは黒人の青年がまさにむち打たれようとする光景にショックを受け、ひとり農園に残って黒人たちを解放し、苦労しつつもかれらに自由や民主主義の貴さを教える。しかし最後の最後にかれらが『民主主義』に基づいて出した結論は、かれら自身の意志で奴隷制をとり戻し、グレースをその女主人に据える、というものだった。さらに追い打ちをかけるように、ある青年がかけた一言に激高したグレースは、いちどは自分が解放したその青年を思わずむち打つ」というもの。呆然としながらひとりグレースは転がるようにマンダレイを離れるところで終わる。前作のようなカタルシスはないものの、より痛烈な皮肉に思えるエンディング。
エンドタイトルに流れる曲は何かな、と楽しみにしていたら、前作と同じだった(デヴィッド・ボウイ「ヤング・アメリカン」)。ここは貫くんですね。好きな曲だからいいけど。変えてもよかったと思うけど、この映画にしてこの選曲は確かに強烈で、これに匹敵する曲はないかも…。
もう1度観に行きたいですが、わりかしとても空いていたので、いつまで上映してくれるものか…。つうかこの映画の存在自体知られてないのでは?、とまで思っていたわりには入っていたのですが(上の階の「クラッシュ」は混んでるぽかった)。三部作の最後は「WASINGTON」になるそう。ヒロイン未定。
てなわけで期待十分で行ったのに、「寝ちゃだめ」と思っていたのに、途中寝てしまいました(全8章のうち3〜6章あたり寝たらしい)。しょしょしょっく。以下の感想はこのような状況において書かれるものです。ねたばれもします。
「マンダレイ」は「ドッグヴィル」(2003)の続編にあたる。主要キャストのヒロイン・グレースとその父役(ニコール・キッドマン/ジェームズ・カーン)は降板、ブライス・ダラス・ハワード(「ヴィレッジ」)とウィレム・デフォーに交替。個人的には、ここはやはり替えてほしくなかったなと思う。デフォーはベテランだけど、前作のJ・カーンとあまりに個性が違うし、カーンがグレースのパパ(実はギャングの首領)にぴったりだったので残念だ。
「ドッグヴィル」のグレース役、ニコール・キッドマンとブライスではそもそも格が違う。ニコールは必ずしも好きな女優ではないけれど、グレースという役柄の理想主義、無垢、といったところを体現していたし、それに加えてエンジェリック(angelic)というか人並みはずれた純粋さをかもし出していたので、ラストのカタルシスが効いたのだと思う。ブライスは…悪いけど「ものを知らない普通の娘」な感じがするだけ。余談ですが彼女の映画デビュー作 「ヴィレッジ」(M・ナイト・シャマラン監督)そのものも、「見かけ倒し」で「エイドリアン・ブロディやホアキン・フェニックスをこんなのに使うな」と個人的には憤りを感じたものです。
「マンダレイ」も「理想主義・正義の意識のもと、起こしたグレースの行動が、次第にまわりの人間とのあいだにきしみが生じ、思いがけない結末に至る」という構図自体は「ドッグヴィル」と同じ。なので、ヒロイン役はリセットする必要もあったのかもしれない、とも思うけれど。
前作「ドッグヴィル」は「よかれと思って献身的に尽くしたグレースの行動が、次第に村人たちのネガティブな心理を刺激し、限界まで虐げられたグレースが『こんなのやってられるか!えーい』とちゃぶ台をひっくり返してすがすがしく終わる…といったお話。しかし、その大逆転の結末に至るまでがとにかく重い、暗い。セットは極限にミニマルで舞台装置のよう、そうしたところは今回の「マンダレイ」でも同様です。
「マンダレイ」は(起きてた限りでまとめると)「ドッグヴィルを出た一行が着いたところはいまだ(設定は1933年)に奴隷制度が残るその名も『マンダレイ』という大農園。グレースは黒人の青年がまさにむち打たれようとする光景にショックを受け、ひとり農園に残って黒人たちを解放し、苦労しつつもかれらに自由や民主主義の貴さを教える。しかし最後の最後にかれらが『民主主義』に基づいて出した結論は、かれら自身の意志で奴隷制をとり戻し、グレースをその女主人に据える、というものだった。さらに追い打ちをかけるように、ある青年がかけた一言に激高したグレースは、いちどは自分が解放したその青年を思わずむち打つ」というもの。呆然としながらひとりグレースは転がるようにマンダレイを離れるところで終わる。前作のようなカタルシスはないものの、より痛烈な皮肉に思えるエンディング。
エンドタイトルに流れる曲は何かな、と楽しみにしていたら、前作と同じだった(デヴィッド・ボウイ「ヤング・アメリカン」)。ここは貫くんですね。好きな曲だからいいけど。変えてもよかったと思うけど、この映画にしてこの選曲は確かに強烈で、これに匹敵する曲はないかも…。
もう1度観に行きたいですが、わりかしとても空いていたので、いつまで上映してくれるものか…。つうかこの映画の存在自体知られてないのでは?、とまで思っていたわりには入っていたのですが(上の階の「クラッシュ」は混んでるぽかった)。三部作の最後は「WASINGTON」になるそう。ヒロイン未定。
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