横浜ZAIMで探検隊集会。お借りした部屋は学校の美術室みたいに雑然(失礼)としていてくつろげる。こういう空間いいわー。同時に今のバイト先オフィスは自分にしてはキレイ過ぎるんだと痛感する。
アートに関わる人々の刺激的な話。すごく面白いんだけど、話されていることとその場で起きていることの齟齬を感じる。非言語的メッセージ。私が人と出会えない、偏屈な困った人になってるんだろうか。
私は何か(つまりダンスだけど)やるからには、自分を見て欲しい、と思う。楽しければいい、なんて嫌だ。見てもらうにはどうしたらいいか必死で考える、あれこれやる。必死になればなるほど優れたものになる、というわけでもないんだけど。
「見てもらいたい」と切実に願うのは、私が私であることの痛ましい何かしらに由縁しているのだろう。そんな後ろ暗いものを人様に見せていいのかしら、と思いながら、実は「こっち見やがれ、目をそむけるな」ぐらいの気持ちが腹にある。そんくらい必死。
街に以前ほどゴミ箱がなくなってしまった。横浜で買ったコーヒーの紙コップを渋谷まで仕方なく持ってる。
頭を掻きむしりながら帰路。今まで書いていなかったが、いつの頃からか、不安やストレスを感じると頭を掻くようになってしまった。かゆいわけではなくて、頭皮を爪ではがすように執拗に掻く。髪が薄くなってしまったところもあるの。大人はリスカなんてしないで、はげをつくるのだ。
前は人前でしなかったけど、だんだんそうもいかなくなって、エレベーターの中とか、トイレとか、職場でもつい頭に手が行く。今日も開き直って電車のなかで頭をかきかき。親には「医者に行ったら」と言われている。お脳の病院なら行ってます。相手にされてません。どうせ私のことなんて誰も見てないさ、と頭を掻きながら歩いて、これって一種のパフォーマンスじゃないだろうかとふと思う。
アートに関わる人々の刺激的な話。すごく面白いんだけど、話されていることとその場で起きていることの齟齬を感じる。非言語的メッセージ。私が人と出会えない、偏屈な困った人になってるんだろうか。
私は何か(つまりダンスだけど)やるからには、自分を見て欲しい、と思う。楽しければいい、なんて嫌だ。見てもらうにはどうしたらいいか必死で考える、あれこれやる。必死になればなるほど優れたものになる、というわけでもないんだけど。
「見てもらいたい」と切実に願うのは、私が私であることの痛ましい何かしらに由縁しているのだろう。そんな後ろ暗いものを人様に見せていいのかしら、と思いながら、実は「こっち見やがれ、目をそむけるな」ぐらいの気持ちが腹にある。そんくらい必死。
街に以前ほどゴミ箱がなくなってしまった。横浜で買ったコーヒーの紙コップを渋谷まで仕方なく持ってる。
頭を掻きむしりながら帰路。今まで書いていなかったが、いつの頃からか、不安やストレスを感じると頭を掻くようになってしまった。かゆいわけではなくて、頭皮を爪ではがすように執拗に掻く。髪が薄くなってしまったところもあるの。大人はリスカなんてしないで、はげをつくるのだ。
前は人前でしなかったけど、だんだんそうもいかなくなって、エレベーターの中とか、トイレとか、職場でもつい頭に手が行く。今日も開き直って電車のなかで頭をかきかき。親には「医者に行ったら」と言われている。お脳の病院なら行ってます。相手にされてません。どうせ私のことなんて誰も見てないさ、と頭を掻きながら歩いて、これって一種のパフォーマンスじゃないだろうかとふと思う。
コメント
「目をそむけるな」 その強さはSuicaさんの表現に
ものすごい力を与えているものなんでしょうね。
痛ましく、後ろ暗いもの、そういう表現も世の中には
あってしかるべきだし、人に何がしかのインパクトを
残さずにいられないものだと思います。その道を
深めていってほしいという気持ちと同時に、
はげをつくらずにいられない、Suicaさんのたましいの
ことを考えると、複雑な思いを抱かされます。
それをパフォーマンスと感じるのならば、今はそのような表現者としての自覚のほうが勝っているのでしょうか。
痛ましいもの、後ろ暗いもの、必死なもの、飢えているもの、切実なもの…そういうものが根っこにある表現って私はやっぱり好きだし、見てしまうんですよね。そういう「表現」に接すると、まさしく「出会えた」と感じる。
ただ、そういうものが根っこにあっても、それはやっぱり舞台裏の原動力としてであって、まさに表に現れるものとしては昇華されたものであってほしい…それを思うと、テクも精神的な面でも自分はまだまだ×無限大です。
うーん、アートって何なんでしょうねー。