雨降るなか2万人だかを歩かせた中央線。私はその影響は受けなかったが山手線が止まったとばっちりを受け、地下鉄使って遠回りし遅れて出勤。しかし今日は二度寝してやばかったのでカバーされたともいえよう。

会社の帰り、クラスへ行く。先月、二次会へ呼んでくれた友人が来た。その日以来、久しぶりに会う。もともとこのクラスは先生を含めて、式やパーティに呼ばれた人がいくらかいるんだけど、「花嫁」が来てその日の像が再び結ばれたというか。小さくフラッシュバック。さすがに過呼吸にはならなかったけど、なんだかあっちこっちでうっすら苦しいイメージを感じる。

(でもそれは私自身の問題で、彼女はすごくいい子。今日も一緒に帰ったし)

うまくのらない。人数少なくて今日は「個人攻撃DAY」だそうで、あれこれ注意される。ありがたや、と思うものの気合入らず。

コンタクト、難しい。考えも身体もまわらない。経験が足りなくて、まだ「回路」が開けるに至っていない。

前にも書いたが、「この素敵な私を見て」「このかっこいい私を見て」「このうつくしい私を見て」etc.というどんなジャンルのダンスにもある罠(あるいはどんなジャンルの表現にもあるのかもしれない)。

自分はそういうところにいたくないと思うし、そういうのを目指しているように見えるダンスには違和感を感じるようになった、というかそういうダンスがいったい何なのかわからなくなった。「先生の完璧コピーして、“かっこいい記号”になればいいわけ? それの行き着く先はどこなのさ?」

それってなにかを「表現」することにならないんじゃないの。「自分」ってフィルター、ただの器じゃないのか。

↑なこと言いながら、心の底では自分のこと認めて、「いい」と言って、かっこいいと思って欲しいと渇望しているくせに。

こんな年齢になった今でも実は、見てて欲しい、構って欲しい、かわいいと言って欲しい、愛して欲しい、飢えた子ども。ほんとうの子どものとき、それは言えなかった。

自分は「この素敵な私を見て」を捨てきれるほど潔くもないし、健やかでもなく、強くない。つい「このきれいな私…」方向へ流されるし、逃げる。

友人がまさに私が理想とするようなダンサーの話をしてて、私は「その人は捨て身というか、エゴを捨ててるんだと思う」って言った。

動く人として、踊る人として、単に人として身軽になりたいだけなのに。

その「だけ」が遠い、存在の耐えられない重さ。

どんなに手を伸ばしても「ダンス」も「愛情」も私から遥か遠くにあって届かない気がしたまま終わる。

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