WSスピーカー辞退の件でようやく責任者と電話で話す。詳しくは書かないが、なんだかうちの母との会話みたい。自分の直感に従って正解、と納得する。
後味の悪い電話だったが、そんなこともうどうでもよくて、というのは会社帰りに行ったいつものクラスがあまりにもよかったからです。
このムーブメントのクラスでは、フィジカルなトレーニングが中心でテーマがあって動くことはあっても振りを教わる機会のほうが少ない。今日は時間の半分、1時間くらいかけて、じっくり振り写し。ニュアンスもいろいろ説明してくれる。
久しぶりに汗びっしょりになるほど動いて、今は身体じゅうが痛い(打ちつけたくないほうのひざをどこかの時点で打った)が、やってるときはそんなこと忘れてた。
私には決して易しくないし、長い。でも面白い。練習すればするほど振りのよさをしみじみ感じる。先生が渡してくれる動きのニュアンス、に加えて、自分でもああしたいとかこうしたいとか、思える。
先生が自分の振りは「男性的」と言っていて、まぁそれはそうなんだけれど、今日のは割とニュートラルで、かわいい感じがした。振りのあちこちでストーリーとか場面とか立ち上がってくるような、私にとってはそういう振りだった(作品の一部だったそう)。
ひょっとして初めて振りをもらったときって、「かたち」よりニュアンスをとるほうが先なんじゃないだろうか?ふと思いついて訊いてみたら、ニュアンスが先、動きの質感(こういう言葉じゃなかったかもしれないけど)、動きのダイナミズムみたいなものをとらえるほうが大事、だという。
ダンサーって擬音語を使って説明する人が割と多くて、その言葉の選び方がそれぞれユニークで、しかもよく伝わるのが面白いと思う。「ぶぅん」とか「ちゅるん」とか(私はいまいちな例しか思いつかないんだけど)。余談。
つまり(止まった)かたち、じゃなくて、動きが音楽だとしたら強弱とかテンポとか、休符とか、音符を再現するだけでなく「どう奏でるか」いうニュアンスをいかにつかまえて(あるいは自分でアレンジして)表現するか、がキモ。
ダンスは流れ。けれども流れてるだけ(って流れをつくるのも大変なんだけど)「ダンスやってる人なんですね」っていうのがわかるだけになるというか、破綻はないんだけど、まったり。
流れを切って見せられる人。私もそういう人はいいと思います。流れなんだけど、その流れのなかにいかに角(カド)を立てるか。
私がこういうことに夢中になっても、別にダンサーになれるとか、誰かの作品に貢献できるとか、じゃないし、現実的にはどうにもならないんだけど(せつない)…でも自分が集中するのはこういうこと、というのがやっててわかりました。
私はそもそも身体を使うことや感覚をとらえるのが苦手で、早い話が下手だけど、それでも続けていると、ひとつひとつ扉をあけて、奥へ奥へと(おそるおそる)進んでいっているような気がします。
しかし…ここまで教えてもらえるようになるとは。これだけまとまった振りを渡してくれて、ニュアンスも説明してくれて…このクラスが始まった当初のことを考えると。
私は振りのなかでできるところもあれば、つい忘れるところ、もたるところ、ブサイクになるところ、ある。先生も(動きを見れるように)入ってくれてたんだけれども、まがりなりにも一緒に踊るとかって…なんだかもろもろ感慨深くて、感動していた。
先生たちと一緒の方向へあえて帰って、いろいろ訊いたりしてみた。「感慨深いです」とはなんか言えなかったんだよね。その場の雰囲気で。でも今日のクラスはその言葉に尽きる。いろいろ思うまま、音楽も聴かずに帰る。
******************
小学生の頃、それこそヘビロテで執拗に読んでいた「アリス」(と「ムーミン」)。たぶんこの2シリーズは終わりなきリピートだろう(っていうのもちょっとはずかしいが)。ちょうど今日も読んでいて、(今さらですが)気づいたが、「アリス」に出てくるたべものにおいしいものがない(「不思議の国」のほうで「わたしをお飲み」っていう液体はプリンとか、いくつかおいしいものの味がする、珍しい例外だったと思う)。
ビスケットとか、パンとかのどに詰まりそうなくらい乾いているし、そもそも骨付き肉が挨拶したりとか、たべると身体が伸び縮みするとかっていうのは…。たべものがたべものの働きをしていないというのは(これが「夢物語」だというのとは別に)興味深いと思う。へんに深読みするのもなんだが。
後味の悪い電話だったが、そんなこともうどうでもよくて、というのは会社帰りに行ったいつものクラスがあまりにもよかったからです。
このムーブメントのクラスでは、フィジカルなトレーニングが中心でテーマがあって動くことはあっても振りを教わる機会のほうが少ない。今日は時間の半分、1時間くらいかけて、じっくり振り写し。ニュアンスもいろいろ説明してくれる。
久しぶりに汗びっしょりになるほど動いて、今は身体じゅうが痛い(打ちつけたくないほうのひざをどこかの時点で打った)が、やってるときはそんなこと忘れてた。
私には決して易しくないし、長い。でも面白い。練習すればするほど振りのよさをしみじみ感じる。先生が渡してくれる動きのニュアンス、に加えて、自分でもああしたいとかこうしたいとか、思える。
先生が自分の振りは「男性的」と言っていて、まぁそれはそうなんだけれど、今日のは割とニュートラルで、かわいい感じがした。振りのあちこちでストーリーとか場面とか立ち上がってくるような、私にとってはそういう振りだった(作品の一部だったそう)。
ひょっとして初めて振りをもらったときって、「かたち」よりニュアンスをとるほうが先なんじゃないだろうか?ふと思いついて訊いてみたら、ニュアンスが先、動きの質感(こういう言葉じゃなかったかもしれないけど)、動きのダイナミズムみたいなものをとらえるほうが大事、だという。
ダンサーって擬音語を使って説明する人が割と多くて、その言葉の選び方がそれぞれユニークで、しかもよく伝わるのが面白いと思う。「ぶぅん」とか「ちゅるん」とか(私はいまいちな例しか思いつかないんだけど)。余談。
つまり(止まった)かたち、じゃなくて、動きが音楽だとしたら強弱とかテンポとか、休符とか、音符を再現するだけでなく「どう奏でるか」いうニュアンスをいかにつかまえて(あるいは自分でアレンジして)表現するか、がキモ。
ダンスは流れ。けれども流れてるだけ(って流れをつくるのも大変なんだけど)「ダンスやってる人なんですね」っていうのがわかるだけになるというか、破綻はないんだけど、まったり。
流れを切って見せられる人。私もそういう人はいいと思います。流れなんだけど、その流れのなかにいかに角(カド)を立てるか。
私がこういうことに夢中になっても、別にダンサーになれるとか、誰かの作品に貢献できるとか、じゃないし、現実的にはどうにもならないんだけど(せつない)…でも自分が集中するのはこういうこと、というのがやっててわかりました。
私はそもそも身体を使うことや感覚をとらえるのが苦手で、早い話が下手だけど、それでも続けていると、ひとつひとつ扉をあけて、奥へ奥へと(おそるおそる)進んでいっているような気がします。
しかし…ここまで教えてもらえるようになるとは。これだけまとまった振りを渡してくれて、ニュアンスも説明してくれて…このクラスが始まった当初のことを考えると。
私は振りのなかでできるところもあれば、つい忘れるところ、もたるところ、ブサイクになるところ、ある。先生も(動きを見れるように)入ってくれてたんだけれども、まがりなりにも一緒に踊るとかって…なんだかもろもろ感慨深くて、感動していた。
先生たちと一緒の方向へあえて帰って、いろいろ訊いたりしてみた。「感慨深いです」とはなんか言えなかったんだよね。その場の雰囲気で。でも今日のクラスはその言葉に尽きる。いろいろ思うまま、音楽も聴かずに帰る。
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小学生の頃、それこそヘビロテで執拗に読んでいた「アリス」(と「ムーミン」)。たぶんこの2シリーズは終わりなきリピートだろう(っていうのもちょっとはずかしいが)。ちょうど今日も読んでいて、(今さらですが)気づいたが、「アリス」に出てくるたべものにおいしいものがない(「不思議の国」のほうで「わたしをお飲み」っていう液体はプリンとか、いくつかおいしいものの味がする、珍しい例外だったと思う)。
ビスケットとか、パンとかのどに詰まりそうなくらい乾いているし、そもそも骨付き肉が挨拶したりとか、たべると身体が伸び縮みするとかっていうのは…。たべものがたべものの働きをしていないというのは(これが「夢物語」だというのとは別に)興味深いと思う。へんに深読みするのもなんだが。
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