unsaid

2008年4月28日 ダンスもの
クラスへ行く。私は実人生では「預ける」ことできないけど、ダンス枠では人に身体を預けたり、預かったり、前よりできるようになってる…と気づく。それはそれでいいんじゃないの。

面白いことに、ダンス(コンタクトとか)ではちゃんと人に預けないとうまくいかない。預けないと動きが流れない、という素敵な仕組みになっている。

えー、先週も飲み会はやりましたが、先生の「飲みたいから」発言でやっぱり今日も飲みに行くことに。10人足らずでこじんまりと。明日、休みですしね。何より今日からあと、このクラスは休みに入ってしまうから。

去年、やっぱり先生の舞台都合で休みに入ったとき欠落感が大きかったので、今年は心の準備と対策を図る。なんだか魔法学校の夏休み、みたいな気もしてきた(ハリーポッターか)。

そしたら飲み会の席で先生が「クラスが休みに入ってしまうのは寂しいですね」と言う。それを言うのは私たちのほうなのに。先生には(客演などではなく)名前を冠した舞台が待っているのに。

私はスタジオでインストラクターたちが「レッスン以外の仕事」のため安易にレッスンを休講(代講)にするのを見てきているので、「教える(しかもレベルはさまざまな人たち相手)」という労多くして功少なし、っぽい仕事を先生自ら楽しみ大事にしてくれているのに改めてほろりとする。

しかし話が思わぬ方向へ流れてしみじみ感もふっとぶ。なんの脈絡もなくある女性が「自分の娘を20年以上監禁し、性的虐待を加え、7人もの子どもを生ませたというオーストリアでの事件」の話を持ち出した(余談だけど彼女みたいな、屈託なく明るくてKYな人って苦手。しかも年上)。

彼女がその鬼畜な父のことを「うそっ、信じられなーい」みたいに言うので、私は思わず(やや)吐き捨てるように「7人じゃなくてもそういうことする人いますよ」と言ってしまった。私には臨床家としての体験はないけれど、性的虐待が一般に思われているほど「非日常」でないと自分なりに理解しているし、いかにも「あちら側」の問題みたいに扱いたくない。

まぁ私の言い方もなんだけどさ…。場がどよっとなり、話がいきなりそっち方向へ。ここで言うことになるとは思っていなかったけれど、自分の拒食症と、女教師として心理学を教えていたことを流れで話す。

頭が急に嗜癖モード全開になってたので、余計なことしゃべってないかちょと心配。虐待の概論とか語ってたよ…(誰も訊いてないっちゅーのに)。

でもやはり話したことよりは話さなかったことのほうが多くて、やはり話さなくてよかったと思うこともあれば、「こういう言い方でこれは伝えればよかった」と思うこともあったり、でもあの場でとっさに言葉が出なかったということは、やはり余計な助言は不必要だということなんだと思う。

話されなかった自分のこと。私は回復してもいないし、救われてもいない。そのことに気づく人もいない(ような気がすること)。そして、表現に値するものもその術ももたないということが悲しい。

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