クッキング・イベント
2008年12月30日 ダンスものど年末にクラスの忘年会。場所はある受講生男子のご自宅。何も知らされないまま行ってみたら、まるで舞台装置かどこぞのアートなカフェのように個性的かつ居心地よい部屋なので一同うっとりする。人の本棚やCDラックを見るのは面白いが、彼のセレクションは私のそれよりよっぽど繊細で知的でリリカル。
持ち寄り&鍋の会、ということだったので私は料理する気合十分、あらかじめメニューを考え一品をつくって持参、かんたんな二品をその場でつくるという段取り整え食材ばかりかMYエプロン、MYまないたまで抱えて行ったらば、「何人もの料理人が先を争ってなんかつくるのだろう」という予想は大ハズレ、料理に燃えていたのは私だけだった(あとからつくってくれた人はいた)。君たち食卓を救うという気はないのか、甘い、甘すぎるよ!でももともとつくりたくてつくったんだから、いいもん。それにお世話になり感謝したい人たちに料理できる機会だから、これは絶対なんかつくりたいと思ったのだ。
実はひとり暮らししてから、たいして台所に立つこともないくせに気合十二分だった私。それでも幸い持参したミートボールと、その辺のお子たちばかりか先生まで手伝わせてつくったシーザーズサラダ、アボカドのディップは衝撃的においしかったらしい。ほっとする。家族以外の人々に喜んで食べてもらえるのはとても嬉しいです。でも「クラスのお母さん」呼ばわりは嫌。
つくり終えた時点で燃えかすとなった私は、そう言えばつくったもの食べるの忘れてた。先生が言っていたように、みんな「いい人」たち(従順、とも言ってたな)と思う。みんななんでそんなに無防備でいられるの?と全身防備の私は思う。始まった頃からここに通っているけど、こんなふうに家庭的な宴会をするようになるなんて、当初を考えると隔世の感がある。やはり初期から出ているクラス友が「ここってこんなに平和な場所だっけ?」と言っていたけど、それはなんかわかる。そんな違和感は今日、私にもあった。自身が今日この人たちとここにいるという流されっぷりも不思議だ。
いろんな人と話せたし、ゆっくり過ごせもしたのだが、料理熱がさめると輪の外からみんなを眺めてる。人のなかで孤独感を感じる、というのは何かの病気なんだっけ? 結局「私はやっぱりひとり」という思いを強くする。どうしても、ひとり。始発を待つ組は残って、それ以外の人々は帰る。終電にギリギリ間に合ったと思ったら、電車が遅れていた。人身事故。言葉で人と関るのってむずかしい。説明不要の人になりたい。
持ち寄り&鍋の会、ということだったので私は料理する気合十分、あらかじめメニューを考え一品をつくって持参、かんたんな二品をその場でつくるという段取り整え食材ばかりかMYエプロン、MYまないたまで抱えて行ったらば、「何人もの料理人が先を争ってなんかつくるのだろう」という予想は大ハズレ、料理に燃えていたのは私だけだった(あとからつくってくれた人はいた)。君たち食卓を救うという気はないのか、甘い、甘すぎるよ!でももともとつくりたくてつくったんだから、いいもん。それにお世話になり感謝したい人たちに料理できる機会だから、これは絶対なんかつくりたいと思ったのだ。
実はひとり暮らししてから、たいして台所に立つこともないくせに気合十二分だった私。それでも幸い持参したミートボールと、その辺のお子たちばかりか先生まで手伝わせてつくったシーザーズサラダ、アボカドのディップは衝撃的においしかったらしい。ほっとする。家族以外の人々に喜んで食べてもらえるのはとても嬉しいです。でも「クラスのお母さん」呼ばわりは嫌。
つくり終えた時点で燃えかすとなった私は、そう言えばつくったもの食べるの忘れてた。先生が言っていたように、みんな「いい人」たち(従順、とも言ってたな)と思う。みんななんでそんなに無防備でいられるの?と全身防備の私は思う。始まった頃からここに通っているけど、こんなふうに家庭的な宴会をするようになるなんて、当初を考えると隔世の感がある。やはり初期から出ているクラス友が「ここってこんなに平和な場所だっけ?」と言っていたけど、それはなんかわかる。そんな違和感は今日、私にもあった。自身が今日この人たちとここにいるという流されっぷりも不思議だ。
いろんな人と話せたし、ゆっくり過ごせもしたのだが、料理熱がさめると輪の外からみんなを眺めてる。人のなかで孤独感を感じる、というのは何かの病気なんだっけ? 結局「私はやっぱりひとり」という思いを強くする。どうしても、ひとり。始発を待つ組は残って、それ以外の人々は帰る。終電にギリギリ間に合ったと思ったら、電車が遅れていた。人身事故。言葉で人と関るのってむずかしい。説明不要の人になりたい。
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