夕方、会社を出たら、虹がかかっていた。あまりにすっきりと大きくて、思わず立ち止まって見てしまった。虹の向こう側の空も、金色に透けていてどこまでも抜けていきそうだった。
足を止めて、オフィスビルの上に高く架かる虹を眺める人、携帯のカメラで撮影する人、たくさんいた。会社帰りの人、親子連れ…同じ地域を行き交いながら、ふだん何も共有するものがない人々が、思いがけない自然の贈り物をわいわいと分かち合っているという光景もまたよいものだった。
好きな人がいて、でもどうなるものでもないし、どっか行っちゃったりするし、気持ちの整理をつけようと、揺さぶられるので距離もとろうと、だいたい話も合わないっちゅーかできないし(語彙―それぞれがもっている言葉の辞書―が違う気する)、癖があるとか、まったくもって「過剰」な人だよなーとか考えたりして、長い時間かけて、整理したつもりで、久しぶり(でもないんだけど)に会ったら、自分が分子レベル(笑)で落ち着いたのがわかってしまった。だめだこりゃ。
「思考は止められるが、感情は止められない」とかつて師匠がおっしゃっていました。生理的に好ましいんだから、どうしようもないっしょ。(とか、でも、あがくと思いますけど…)
OD(クスリの過剰摂取)はもう止めることにした。あまりにケミカルだから。階段踏み外して、この程度で済んだのは本当に幸運というもの。しかも、もの凄いご面相ながらクラスにも行って動けたわけだし。自分のケガは自業自得だが、こういう(意識がとぶような)ことをすると、ひとを傷つける可能性もあることにやっと気づいたから。ゴミ箱に捨てた、自分が書いた日記のボツ記事読むと怖いです。ほんっとーに意味不明。
ばかなことしたけど、でも、意味も内容もない記事の残骸をいま眺めてみると、自分で自分が痛ましく思える。理由なくしたことではないので、それだけのことをするに至った、きつさの量がわかったというか。無理と自傷はイケナイ。追いつめることも。
で、じゃ、これからはクリーンにしゃっきり生きていきます、とゆーわけにもいかないので、代わりになる、しのぎの手段も考えねば…とか同時に思うところも弱っちいですが。でも、今度はなんかしらナチュラルなことにしよう。せめて。
「きしねんりょ」について検索してみたとき、「教えてぐー」式サイトで希死念慮を克服する方法をたずねていた女性に対して、ある男性が応えていた。「ケースバイケース」としながら、自身の体験からいくつか具体的なアイディアを上げ(ひとりでいる時間を減らす、とか)たうえで、結果として(彼が自死を免れたのは)「自分に合った、しかもかなり強い薬というのが答えです。人の愛情とかでは、ないですね」と彼は書いていた。
彼の書きように打たれるのは、見知らぬ女性に対する回答に注がれるエネルギーの大きさ、切実さだけでなく、「汎用性」があるから(「激ウツのときに支えてくれたのが今の夫です」とかいうのは、いいおはなしですが、たとえば私にとって参考にも支えにもまるでならない)。そして、「愛情とかでは、ないですね」こういうことを体験として言ってくれることが素晴らしい。こういうことは、言っていかなければならないのではないだろうか。
皮肉な意味で、言っているのではありません。なんだか「愛」というコンセプト(?)が私にはもはやわからないよ。消費され過ぎてるというか、肥大し過ぎてるというか、あるいは私が過大な期待をかけすぎなのか、あるいは…。
ともかく「愛」って万能薬じゃない。ある種の問題には解決のメソッドなり、克服なり成功しやすい処方せんがあり、あるいは問題を問題という枠からずらす、という素敵な力技もある。
かつて駅のホームでタバコが吸えた時代のある日、一服しようとタバコを手にしたら、横からすっと火を貸してくれた男性がいた。火をつけてくれて、ただそれだけ。思いがけなく、知らない人から親切にされたのが嬉しくて、よく覚えている。
なんか、こういう“ちょっとしたこと”で生きつないでいくんじゃないかな、とか思う。「がしっと受けとめてくれる愛」、あるかもしれないけど、かなりないかもしれない。なので、なんかこういう、定義に至らない、名づけるといきなりつまらなくなってしまうような、ちょっとした出会いとか勘違いすれ違いとかに、くすっとかほろりとかしながら、つないでいくような気もする。
足を止めて、オフィスビルの上に高く架かる虹を眺める人、携帯のカメラで撮影する人、たくさんいた。会社帰りの人、親子連れ…同じ地域を行き交いながら、ふだん何も共有するものがない人々が、思いがけない自然の贈り物をわいわいと分かち合っているという光景もまたよいものだった。
好きな人がいて、でもどうなるものでもないし、どっか行っちゃったりするし、気持ちの整理をつけようと、揺さぶられるので距離もとろうと、だいたい話も合わないっちゅーかできないし(語彙―それぞれがもっている言葉の辞書―が違う気する)、癖があるとか、まったくもって「過剰」な人だよなーとか考えたりして、長い時間かけて、整理したつもりで、久しぶり(でもないんだけど)に会ったら、自分が分子レベル(笑)で落ち着いたのがわかってしまった。だめだこりゃ。
「思考は止められるが、感情は止められない」とかつて師匠がおっしゃっていました。生理的に好ましいんだから、どうしようもないっしょ。(とか、でも、あがくと思いますけど…)
OD(クスリの過剰摂取)はもう止めることにした。あまりにケミカルだから。階段踏み外して、この程度で済んだのは本当に幸運というもの。しかも、もの凄いご面相ながらクラスにも行って動けたわけだし。自分のケガは自業自得だが、こういう(意識がとぶような)ことをすると、ひとを傷つける可能性もあることにやっと気づいたから。ゴミ箱に捨てた、自分が書いた日記のボツ記事読むと怖いです。ほんっとーに意味不明。
ばかなことしたけど、でも、意味も内容もない記事の残骸をいま眺めてみると、自分で自分が痛ましく思える。理由なくしたことではないので、それだけのことをするに至った、きつさの量がわかったというか。無理と自傷はイケナイ。追いつめることも。
で、じゃ、これからはクリーンにしゃっきり生きていきます、とゆーわけにもいかないので、代わりになる、しのぎの手段も考えねば…とか同時に思うところも弱っちいですが。でも、今度はなんかしらナチュラルなことにしよう。せめて。
「きしねんりょ」について検索してみたとき、「教えてぐー」式サイトで希死念慮を克服する方法をたずねていた女性に対して、ある男性が応えていた。「ケースバイケース」としながら、自身の体験からいくつか具体的なアイディアを上げ(ひとりでいる時間を減らす、とか)たうえで、結果として(彼が自死を免れたのは)「自分に合った、しかもかなり強い薬というのが答えです。人の愛情とかでは、ないですね」と彼は書いていた。
彼の書きように打たれるのは、見知らぬ女性に対する回答に注がれるエネルギーの大きさ、切実さだけでなく、「汎用性」があるから(「激ウツのときに支えてくれたのが今の夫です」とかいうのは、いいおはなしですが、たとえば私にとって参考にも支えにもまるでならない)。そして、「愛情とかでは、ないですね」こういうことを体験として言ってくれることが素晴らしい。こういうことは、言っていかなければならないのではないだろうか。
皮肉な意味で、言っているのではありません。なんだか「愛」というコンセプト(?)が私にはもはやわからないよ。消費され過ぎてるというか、肥大し過ぎてるというか、あるいは私が過大な期待をかけすぎなのか、あるいは…。
ともかく「愛」って万能薬じゃない。ある種の問題には解決のメソッドなり、克服なり成功しやすい処方せんがあり、あるいは問題を問題という枠からずらす、という素敵な力技もある。
かつて駅のホームでタバコが吸えた時代のある日、一服しようとタバコを手にしたら、横からすっと火を貸してくれた男性がいた。火をつけてくれて、ただそれだけ。思いがけなく、知らない人から親切にされたのが嬉しくて、よく覚えている。
なんか、こういう“ちょっとしたこと”で生きつないでいくんじゃないかな、とか思う。「がしっと受けとめてくれる愛」、あるかもしれないけど、かなりないかもしれない。なので、なんかこういう、定義に至らない、名づけるといきなりつまらなくなってしまうような、ちょっとした出会いとか勘違いすれ違いとかに、くすっとかほろりとかしながら、つないでいくような気もする。
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