NO DRAMA

2010年5月10日 ダンスもの
・身をもって化学的アンバランスを感じる朝。なにを食べても口がニガイ。それほどのんだ(服用)わけではないから、適当に「混ぜて」のんだせいでしょう。

・昨日は自分にあてて「いつまでひとりで生きてなきゃいけないの?○○○○○!」、だとか「もう○○○○○」とか、自ら追い討ちをかけるメールも書いて送っていた。去年はこの手のことを、携帯のメモにつけていたのだが、もう書くスペースがなくなったのだ。

・窮地に陥ると、私はこういう地味な自傷行為をする。したくてする。自分で自分を痛めつけたくなるのだ。でもすごく地味にするので、言わなきゃ誰にもわからない。

・華はないけど、私はこういうエキセントリックなところにやっぱり立ってる。つくるときだけこの自分を切り離すわけにもいかないから、この土台をテーブルにしていつもなにかつくるわけだ。

・過剰な台に載っていればいいというわけではもちろんない。奇矯さをそのままあらわにして、人が受け取るに足る価値のあるものにできるのは天才か真にカリスマ性のある人だけ。だから訓練はする。

・どんな素材でも、注文どおりにきれいに切れるハサミにはなれてない。そういうハサミには私はなれないのだと思う。でも自分なりに切れ味をよくする努力はし続ける。エキセントリックな分、人一倍伝える力、見せる力をつけたり考えたりしようと思う。

・いまやってるこれは、人に訊かれたら「趣味です」と言うと思う。でもこれなしでもやっていけるなら、それはそれで幸せだと思う。これは、自分のなかみが出てこないようにする「ふた」か、あるいは自分が人のかたちを保つために必要な何か…。

・非常に行きにくかったが、クラスには行く。ここで行かないとあとあとすごく行きにくくなりそうなので(「続けるか、やめるか」の2択タイプ)。人数少なかった。

・アイコンタクトでコンタクト。まだ感情が満ちてこないなと思い、感情(表情)を入れずにやっていて、組んだ相手のダンサーの方も感情をいい感じに過分に返してこない。「目ってただの器官だなぁ」と思いながら視線を合わせ続けていたら、なんだか悲しくなった。

・自分がなんの感情も意図も入れなくても、見ている人がなんらかの物語を読み取ったりする。それは見てる人がドラマを見たいからなのか。人の存在は自ずとドラマになってしまうのか。ドラマ性を帯びないことのほうが難しいのだろうか。

・チャンネルが違うだけなんだと思った。で、私は私でつくることにした。それについて電車のなかで考えていて、なんかこういうのとても大げさに聴こえるかもしれないけど。

手をつないでも一瞬で離れてしまう。でも、つくっていると、その姿勢で音楽を聴いたり考えたりするその過程で、「神」に出会える瞬間がある気がする。たとえ、できたものに宿らなくても。その瞬間のためにやってるのかもしれない。

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