空気が止まっている/岩手ボラ記その1
2011年6月11日 3116月7日(火)~10(金)まで、居住する市の市民社会福祉協議会(以下「社協」)の災害支援ボランティアグループに参加して岩手に行ってきました。その報告です。
(下記はあくまで自分の限られた体験のなかで見たり聞いたりしたことであり、個人的な推測や感想が含まれていることにご留意ください)
一行は14名〔ボランティア12(男性8女性4)+社協スタッフ2(女性)〕、3泊4日で初日と最終日はバスの移動(東京‐岩手)にあて、活動日は2日間。宿泊(遠野市の地区公民館)とバスは社協の手配、参加費は実質ボランティア保険代(1400円)のみ。ボラ初心者には参加しやすいプログラムと思う。
活動は岩手県大船渡市で行います。何をするか、はその日に大船渡市のボランティアセンター(以下「VC」)に行ってみないとわからない。で、一同フル装備して出発します。「フル装備」とは帽子(ヘルメット、バンダナなど頭を防御するもの)、防塵マスク、ゴーグル(メガネなど埃よけになるもの)、長袖作業着、長ズボン、作業用ゴム手、安全長靴(踏み抜き防止の中敷きも)等。
防塵マスクだのゴーグルだの…といったマニアックな装備はどこで調達するのか⇒ホームセンター、東急ハンズなど。サイズがなくて一番困った「靴」は新宿の作業服屋さん、萬年屋で買いました。私が行ったときは被災地ボラに行く人には「プレゼント」つき、店員さんから「気をつけていってらっしゃいませ」と高級ホテルのコンシェルジュのごとくお見送りされる。
初日は3名で避難所の炊き出しお手伝いに参加。既に地元のボランティアグループがここを拠点に活動していて、他の市内市外の避難所にも調理したおかずの配膳を毎日、行っているそう。年齢さまざまなメンバーの方々がきびきび、かつ明るく和気あいあいと働いておられ、「炊き出し」というよりプロのケータリング屋さんみたいだった。
しかし大量の調理はやはり大変。デキル働き者たちのなかに放り込まれたひょっこ3名(特に私)、大量のじゃがいも、大量の玉ねぎ、大量のれんこんの皮をピーラーで剥きまくり(料理人が待ち構えているわけで、流れ作業に新人はあたふたする)、できあがったこれまた大量のおかずを紙コップに仕分けたり配膳したりといった作業を行った。
この避難所はまだ新しく、モダンなデザインでもともとはコンサート等のホールである建物。配膳のときに、初めて避難所で被災者の方が泊まっておられるエリアに入ったのですが…「こういう場所に人を長くとどめておいてはいけない」というのが最初に受けた強烈な印象だった。
いくら新しくきれいでも、固いフロア、薄暗い照明、こもった空気(窓が開かない。建物の性質上、どうしても「密閉」指向の空間になる)…いたし方ないこととはいえ、この住環境ではまず心身にいいはずない。どんな人でも気力体力が萎えてしまう、と正直言って思った。
当初はここに400名ほどの被災者がおられたそうですが、今は半数を切っているそう。とどまっている方たちもみな7月下旬をめどに仮設住宅等へ移転の予定とのこと。
笑顔の方もおられたけれど、私はむしろ人々からかいま見える倦怠や気力の衰え、すさんだ風情のほうが気になったし、心配になった。今は「プライバシーのない状態」で、良くも悪くも人目があるけれども、仮設に移って独居となると…気力が失われた人に自立を強いるのは難しい…自分がすぐに気力無くす人であるせいか、そう思う。物質的には間違いなく復興の方向に向かうだろうが、精神的な荒廃はくいとめないと、これからがもっとデリケートなケアが必要な時期なのかもしれない。
今回のボランティアでほんの少しの時間でも「避難所」を体験し、被災者の方々に接することができたのは自分にとって大きいことだった。国としての復興、地域の復興と、個人としての復興はまた別。ひとくちに「被災者」と言っても打ちのめされ方、失われ方、起き上がり方はさまざま。詰まるところは個人の問題、個人としての資源の持ち方に収束するのだろうか、と思うと愕然とする。などといろいろ考える。
被災地でかいま見た(ほんとにちょっとだけ、それも主観によるものだけど)人々の精神的なダメージの大きさの衝撃は、個人的には津波による物質的なダメージを上回るほどだが、それでもliving hellはここだけにあることでなく東京でもどこでも起きていることで、誰にも言えず、共有してもらえず、はためにわからないまま、国どころか家族すら支援しない、ボランティアなんかすっとんでこない種類のひとりで抱える苦しみはある、という前からの思いは変わらない。
このボランティアグループの話に戻るけれども、ミーティングの際に「食物を扱うというのは、人の命を預かっているのと同じこと」という話をされていたのが印象的だった(手洗い、マスク・ゴム手着用など衛生管理は本当にしっかりしている)。忙しい現場だけれども声をかけてくださったり、厨房でみなさんと一緒にお昼を振舞って頂いたりとお気遣いを受ける。
ここは本当にしっかりと運営されている印象で、中核スタッフはやはり東北の方なのだろうか。いろんな時間に常駐メンバーが入ってくる。でもみなさん地元でも「無傷」ではなく被災していたり、ご家族が被災しておられたり…プロ並の意識と献身には頭が下がるし、地元の人々の横のつながりとたくましさを知る。
(続く)
(下記はあくまで自分の限られた体験のなかで見たり聞いたりしたことであり、個人的な推測や感想が含まれていることにご留意ください)
一行は14名〔ボランティア12(男性8女性4)+社協スタッフ2(女性)〕、3泊4日で初日と最終日はバスの移動(東京‐岩手)にあて、活動日は2日間。宿泊(遠野市の地区公民館)とバスは社協の手配、参加費は実質ボランティア保険代(1400円)のみ。ボラ初心者には参加しやすいプログラムと思う。
活動は岩手県大船渡市で行います。何をするか、はその日に大船渡市のボランティアセンター(以下「VC」)に行ってみないとわからない。で、一同フル装備して出発します。「フル装備」とは帽子(ヘルメット、バンダナなど頭を防御するもの)、防塵マスク、ゴーグル(メガネなど埃よけになるもの)、長袖作業着、長ズボン、作業用ゴム手、安全長靴(踏み抜き防止の中敷きも)等。
防塵マスクだのゴーグルだの…といったマニアックな装備はどこで調達するのか⇒ホームセンター、東急ハンズなど。サイズがなくて一番困った「靴」は新宿の作業服屋さん、萬年屋で買いました。私が行ったときは被災地ボラに行く人には「プレゼント」つき、店員さんから「気をつけていってらっしゃいませ」と高級ホテルのコンシェルジュのごとくお見送りされる。
初日は3名で避難所の炊き出しお手伝いに参加。既に地元のボランティアグループがここを拠点に活動していて、他の市内市外の避難所にも調理したおかずの配膳を毎日、行っているそう。年齢さまざまなメンバーの方々がきびきび、かつ明るく和気あいあいと働いておられ、「炊き出し」というよりプロのケータリング屋さんみたいだった。
しかし大量の調理はやはり大変。デキル働き者たちのなかに放り込まれたひょっこ3名(特に私)、大量のじゃがいも、大量の玉ねぎ、大量のれんこんの皮をピーラーで剥きまくり(料理人が待ち構えているわけで、流れ作業に新人はあたふたする)、できあがったこれまた大量のおかずを紙コップに仕分けたり配膳したりといった作業を行った。
この避難所はまだ新しく、モダンなデザインでもともとはコンサート等のホールである建物。配膳のときに、初めて避難所で被災者の方が泊まっておられるエリアに入ったのですが…「こういう場所に人を長くとどめておいてはいけない」というのが最初に受けた強烈な印象だった。
いくら新しくきれいでも、固いフロア、薄暗い照明、こもった空気(窓が開かない。建物の性質上、どうしても「密閉」指向の空間になる)…いたし方ないこととはいえ、この住環境ではまず心身にいいはずない。どんな人でも気力体力が萎えてしまう、と正直言って思った。
当初はここに400名ほどの被災者がおられたそうですが、今は半数を切っているそう。とどまっている方たちもみな7月下旬をめどに仮設住宅等へ移転の予定とのこと。
笑顔の方もおられたけれど、私はむしろ人々からかいま見える倦怠や気力の衰え、すさんだ風情のほうが気になったし、心配になった。今は「プライバシーのない状態」で、良くも悪くも人目があるけれども、仮設に移って独居となると…気力が失われた人に自立を強いるのは難しい…自分がすぐに気力無くす人であるせいか、そう思う。物質的には間違いなく復興の方向に向かうだろうが、精神的な荒廃はくいとめないと、これからがもっとデリケートなケアが必要な時期なのかもしれない。
今回のボランティアでほんの少しの時間でも「避難所」を体験し、被災者の方々に接することができたのは自分にとって大きいことだった。国としての復興、地域の復興と、個人としての復興はまた別。ひとくちに「被災者」と言っても打ちのめされ方、失われ方、起き上がり方はさまざま。詰まるところは個人の問題、個人としての資源の持ち方に収束するのだろうか、と思うと愕然とする。などといろいろ考える。
被災地でかいま見た(ほんとにちょっとだけ、それも主観によるものだけど)人々の精神的なダメージの大きさの衝撃は、個人的には津波による物質的なダメージを上回るほどだが、それでもliving hellはここだけにあることでなく東京でもどこでも起きていることで、誰にも言えず、共有してもらえず、はためにわからないまま、国どころか家族すら支援しない、ボランティアなんかすっとんでこない種類のひとりで抱える苦しみはある、という前からの思いは変わらない。
このボランティアグループの話に戻るけれども、ミーティングの際に「食物を扱うというのは、人の命を預かっているのと同じこと」という話をされていたのが印象的だった(手洗い、マスク・ゴム手着用など衛生管理は本当にしっかりしている)。忙しい現場だけれども声をかけてくださったり、厨房でみなさんと一緒にお昼を振舞って頂いたりとお気遣いを受ける。
ここは本当にしっかりと運営されている印象で、中核スタッフはやはり東北の方なのだろうか。いろんな時間に常駐メンバーが入ってくる。でもみなさん地元でも「無傷」ではなく被災していたり、ご家族が被災しておられたり…プロ並の意識と献身には頭が下がるし、地元の人々の横のつながりとたくましさを知る。
(続く)
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