空間は満たされなければならない、のか?
2011年10月23日 PAその他演劇を観に行く。テキストが多い…。当たり前だけど。で「説明している」。言葉も説明しているし美術も説明しているし音楽も説明しているし衣装も…。なので冗長が生じる。芝居慣れしてないのでそもそも劇の見方がわかってないのかもしれないが、なんだか「情報が多過ぎる」と思う。
なんらかの必然性があって過剰なのは嫌いじゃないけど、概して削ぎ落とされたもののほうが好きなので、要素が多いのは苦手。
テーマ(のひとつ)が3月の震災。物語として言葉で語るのはまだ早いんじゃないかなぁ、と個人的には思う。「今という過程の記録」をつけるのも意義あることなのかもしれないけれども。
6月に岩手に行ったとき、泥かき作業をした場所にあった木のとんでもなく高いところに洗濯ネットに入った下着がひっかかっていた光景が異様で、よく覚えている。その場所にあったてんでばらばらな「品物(の一部)」と同じく、津波が運んできたものだった。
甚大な被害を受けた地域で見た津波の爪跡は唐突で荒々しく、「言葉が通じない」という印象を私は受けた。人が「暴力的である」というのとは決定的に違う。論理も情も受けつけない、ただのっぺりした「事実」が残るだけ…
言葉にする、というのは「かたちをあたえる」ということであり、大きさを定めてしまうと、時にはダウンサイズされるということでもあり…。時機をみないと難しいな、とおもう。
それはさておき、大型ゴミを出したり45リットルのゴミ袋を運んだり何年前のものだかわからない缶詰(コワイ)を開けて捨てたり家のあちこちにだぶついてあるトイレ用だの台所用洗剤の中味を空けて捨てる…というような引越し作業のなかで、もちろん自分のものも捨てている。
見直してみて大して愛着のない本や服などを処分し、同じように写真や紙も捨てた。自分が思い返したくない過去の記憶は持っていなくてもいいし、思い出は必ずしもモノというかたちで残さなくてもいい。と捨てまくりながら気づいた。
Edit.
よく言うように「起きたことは変えられないけれど、過去に対する見方は変えることができる」。これは自分の過去の物語を「編集」する作業と言えるかもしれない、というのも芝居を見ていて思ったことだった。
なんらかの必然性があって過剰なのは嫌いじゃないけど、概して削ぎ落とされたもののほうが好きなので、要素が多いのは苦手。
テーマ(のひとつ)が3月の震災。物語として言葉で語るのはまだ早いんじゃないかなぁ、と個人的には思う。「今という過程の記録」をつけるのも意義あることなのかもしれないけれども。
6月に岩手に行ったとき、泥かき作業をした場所にあった木のとんでもなく高いところに洗濯ネットに入った下着がひっかかっていた光景が異様で、よく覚えている。その場所にあったてんでばらばらな「品物(の一部)」と同じく、津波が運んできたものだった。
甚大な被害を受けた地域で見た津波の爪跡は唐突で荒々しく、「言葉が通じない」という印象を私は受けた。人が「暴力的である」というのとは決定的に違う。論理も情も受けつけない、ただのっぺりした「事実」が残るだけ…
言葉にする、というのは「かたちをあたえる」ということであり、大きさを定めてしまうと、時にはダウンサイズされるということでもあり…。時機をみないと難しいな、とおもう。
それはさておき、大型ゴミを出したり45リットルのゴミ袋を運んだり何年前のものだかわからない缶詰(コワイ)を開けて捨てたり家のあちこちにだぶついてあるトイレ用だの台所用洗剤の中味を空けて捨てる…というような引越し作業のなかで、もちろん自分のものも捨てている。
見直してみて大して愛着のない本や服などを処分し、同じように写真や紙も捨てた。自分が思い返したくない過去の記憶は持っていなくてもいいし、思い出は必ずしもモノというかたちで残さなくてもいい。と捨てまくりながら気づいた。
Edit.
よく言うように「起きたことは変えられないけれど、過去に対する見方は変えることができる」。これは自分の過去の物語を「編集」する作業と言えるかもしれない、というのも芝居を見ていて思ったことだった。
コメント