久しぶりに部屋を借りて自主練。夕方、英会話へ。先生に課題のエッセーを見てもらうのです。まとまった文章をチェックしてもらうのは初めてで、息詰まる40分。なんか気恥ずかしいですし。
日本語は簡潔明瞭に書くコツは備えているつもりだったが、英語となるとからっきし。「これ要らない」「これも」と弾かれる。ひとつには自分が俯瞰で書けてないせいだと思う(段落でなく、文単位で情報を盛り込んでいるから過剰になる)。それから使う文体が偏ってしまうのは、自分が「日本語で考え、英語に直して」いるからじゃないでしょうか(会話においても言える)。
冗長な文章をとりわけ私は憎む。なのにこれって。もっとなんとかできないものか、書き英語。悔しい。
直して来週また見てもらうことに。ネイティブチェックさまさま。ほんと助かる。すごく真剣に見てくれてた(いんじゃない、とかじゃなく)。ありがとうございます。。。
ここのレッスンは基本的にテキストに沿って進める(マンツーマンなので融通は利く)ので、Teacher’s Guide通りにやればいいはず。
そこからどのくらいふくらませるか、は先生次第。これ前にも書いたかもしれないけれど、この先生のすごいところはクリエイティブであること。単調な感じがしないし、私は話好きなほうではないのにアクティブにするのが上手い。
マニュアル通りにやっとけば先生は楽なのではと思うが、レッスンを「学生とのinteractionにおいて」(これ重要。ひとりで完結しない)クリエイティブにつくると学習の質はそりゃ上がります。学生は楽しいしモチベーションも続く。力のある先生ならクリエイティブにしたほうが自分も楽しいのでは。
これは英語に限らず、何かを教えるとき、あるいは「仕事」そのものについて言えることなのかもしれません。自分で工夫する。ビー・クリエイティブ。きっとそのほうが楽しい。
先週、教わった女性の先生は、会話しながら「知らなかった、あるいは知ってたけど使い方がわからなかった」ネイティブちっくな表現をメモして教えてくれる。彼女も、上記の先生も自分の指導スタイルを持ってる。教わる側として私はそういう先生が好きだし、クールだと思う。そういう人はレッスンの印象が鮮やかなので、次につながりやすい。ダンスと同じで、「教える―教わる」という関係においても、プロとしての役割プラス個性(その人らしさ)が見える先生が私はいいなと思います。
ベースにしている先生は、教師として「自分が何をどういう意図でどうやるか」をいつもしっかり把握しながら教えている、という印象がある。場当たり的でない。「教える」という不定形の行為のなかで、軸があるとやはり違う(安心感がある)。即興で自分がどうやったか覚えてるかどうかに似てる…似てないか。どうだか。ともかく見習うべきところがいっぱい。
日本語は簡潔明瞭に書くコツは備えているつもりだったが、英語となるとからっきし。「これ要らない」「これも」と弾かれる。ひとつには自分が俯瞰で書けてないせいだと思う(段落でなく、文単位で情報を盛り込んでいるから過剰になる)。それから使う文体が偏ってしまうのは、自分が「日本語で考え、英語に直して」いるからじゃないでしょうか(会話においても言える)。
冗長な文章をとりわけ私は憎む。なのにこれって。もっとなんとかできないものか、書き英語。悔しい。
直して来週また見てもらうことに。ネイティブチェックさまさま。ほんと助かる。すごく真剣に見てくれてた(いんじゃない、とかじゃなく)。ありがとうございます。。。
ここのレッスンは基本的にテキストに沿って進める(マンツーマンなので融通は利く)ので、Teacher’s Guide通りにやればいいはず。
そこからどのくらいふくらませるか、は先生次第。これ前にも書いたかもしれないけれど、この先生のすごいところはクリエイティブであること。単調な感じがしないし、私は話好きなほうではないのにアクティブにするのが上手い。
マニュアル通りにやっとけば先生は楽なのではと思うが、レッスンを「学生とのinteractionにおいて」(これ重要。ひとりで完結しない)クリエイティブにつくると学習の質はそりゃ上がります。学生は楽しいしモチベーションも続く。力のある先生ならクリエイティブにしたほうが自分も楽しいのでは。
これは英語に限らず、何かを教えるとき、あるいは「仕事」そのものについて言えることなのかもしれません。自分で工夫する。ビー・クリエイティブ。きっとそのほうが楽しい。
先週、教わった女性の先生は、会話しながら「知らなかった、あるいは知ってたけど使い方がわからなかった」ネイティブちっくな表現をメモして教えてくれる。彼女も、上記の先生も自分の指導スタイルを持ってる。教わる側として私はそういう先生が好きだし、クールだと思う。そういう人はレッスンの印象が鮮やかなので、次につながりやすい。ダンスと同じで、「教える―教わる」という関係においても、プロとしての役割プラス個性(その人らしさ)が見える先生が私はいいなと思います。
ベースにしている先生は、教師として「自分が何をどういう意図でどうやるか」をいつもしっかり把握しながら教えている、という印象がある。場当たり的でない。「教える」という不定形の行為のなかで、軸があるとやはり違う(安心感がある)。即興で自分がどうやったか覚えてるかどうかに似てる…似てないか。どうだか。ともかく見習うべきところがいっぱい。
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