News from Paradise
2007年4月8日 読書
作家よしもとばなな(以下B)とライフスタイルプロデューサー、パトリス・ジュリアン(以下P)の往復書簡集。文句言いながらもばなな本が図書館にあるとつい借りてみるへそまがりな私。やっぱ彼女は私に何かしっくりしないよ、ということも思いながら、この本から「!」と思ったところを以下に引用します:
「たとえ同じ材料で作られていても、チェーン店のコロッケよりも、近所のおばあちゃんのコロッケのほうが、受け取る情報量が多いと思うのです」(B)
「ライフスタイルとは、自分の中に欲望があることを忘れるためのドラッグじゃないんだと言いたかった」(P)
「日本人の女性の中には、素敵な人がたくさんいます。だけど彼女たちの多くは、自分の性が意味するものを正面から見ようとしない、そういう女性が多すぎると思うのです」(P)
「大いなる幻想の終わり。それがたぶん、本当の人生の始まり―中略―もしも"Paradaise"がここじゃないのなら、いったいどこにあるっていうのだろう?」(P)
「たとえ同じ材料で作られていても、チェーン店のコロッケよりも、近所のおばあちゃんのコロッケのほうが、受け取る情報量が多いと思うのです」(B)
「ライフスタイルとは、自分の中に欲望があることを忘れるためのドラッグじゃないんだと言いたかった」(P)
「日本人の女性の中には、素敵な人がたくさんいます。だけど彼女たちの多くは、自分の性が意味するものを正面から見ようとしない、そういう女性が多すぎると思うのです」(P)
「大いなる幻想の終わり。それがたぶん、本当の人生の始まり―中略―もしも"Paradaise"がここじゃないのなら、いったいどこにあるっていうのだろう?」(P)
憶測だが中山可穂は好き嫌いが分かれる作家じゃないだろうか。ファンか、「ついていけない」と思うか。私は前者だが、この「ケッヘル」は上巻でいちど挫折しました。その後、図書館で上下巻揃った折に借りて読み通した。「今までの焼き直し」感が強かった上巻のあと下巻ではぐーっとダイナミックに物語が進む。
中山可穂の作品の恋情は切りとられたようにくっきりしている。切り口が鋭いから、覚悟して近づかないと、あるいはそうする必然性がないと怪我をする…といった感じがいつもするので私はそんなところにほんの少しだけ辟易しながらも嗜癖してしまう。あと「血のつながり」より「たましいのつながり」的な家族設定がわりととあるのも好き。
本作では「モーツァルティアン」の男女たちのあいだの愛憎が描かれるが、ある登場人物(女性)が不幸にも遭遇する事件が、彼女の性格設定とあいまって私には自分の心身がえぐられるような体験として感じられた。「それ」が小説で描かれることはよくあるが、こんなに痛ましい体験として読めたのは初めてだ(しかもごく簡潔に書かれているだけなのに)。
最後の最後に明かされる、事件の被害者である彼女と恋人しか知らない「秘密」は、悲惨な事件と同じくらいの衝撃をもって(ただし「救い」という方向に)自分には伝わった。「運命の出会い」―ピュアなものはピュアであるがゆえにはなはだしく傷つきやすいが、貴い(one and only)のだと思う。
中山可穂の作品の恋情は切りとられたようにくっきりしている。切り口が鋭いから、覚悟して近づかないと、あるいはそうする必然性がないと怪我をする…といった感じがいつもするので私はそんなところにほんの少しだけ辟易しながらも嗜癖してしまう。あと「血のつながり」より「たましいのつながり」的な家族設定がわりととあるのも好き。
本作では「モーツァルティアン」の男女たちのあいだの愛憎が描かれるが、ある登場人物(女性)が不幸にも遭遇する事件が、彼女の性格設定とあいまって私には自分の心身がえぐられるような体験として感じられた。「それ」が小説で描かれることはよくあるが、こんなに痛ましい体験として読めたのは初めてだ(しかもごく簡潔に書かれているだけなのに)。
最後の最後に明かされる、事件の被害者である彼女と恋人しか知らない「秘密」は、悲惨な事件と同じくらいの衝撃をもって(ただし「救い」という方向に)自分には伝わった。「運命の出会い」―ピュアなものはピュアであるがゆえにはなはだしく傷つきやすいが、貴い(one and only)のだと思う。
観たもの・読んだもの
2007年2月24日 読書
*「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ 土屋政雄訳 早川書房 2006)。
話がテンポよく運んでとにかく飽きさせない、という本も悪くないが、物語世界の構成密度が高いというか、あたかもどこかにその世界がひっそりとあるかのように読者に信じさせる説得力と静謐を併せ持つような語り口の小説に私はとりわけ愛着する。本書は私にとってその類の一冊。
あとがきで柴田元幸氏が、本書を読むのに「予備知識は少なければ少ないほどよい」と書いておられる通り、内容には触れないことにするが(アマゾンの読者レビューは、読む前に見ないほうがいいと思う。ネタバレ気味)、作者の「抑制の効いた」描写の心地よいこと! 自分はこの手の表現に(なんの分野にせよ)惹かれることを確認。「残酷」「不平等」だとか…それらは上からの視線だと思う。そうした視点からではこのようなお話はつくれないはず(「優しい」「人間味ある」とかそういう意味ではなく、「内側から」「同じ高さで」というニュートラルな意味)。ぜんぜん内容紹介になってまぜんが、好ましい。こういう姿勢ってかなり好きなのだ。再読すると思う。
*マドモワゼル・シネマ「冬の矢来町界隈 2月のマーチ」@セッションハウス。
一方こちらはコンテンポラリー・ダンスの公演。初めて観たのですがM・シネマのダンサーたちって若い! 20代かなぁ、ぴちぴちです。タイトルとは関係なく(…あるの?)、テーマは「運動会」だった。観客有志と走ったりもしてた。予想していた以上にガーリーな感じ。今では珍しいことではないけれど、この公演でもダンサーたちが時に「喋って」いた。セリフ(だかアドリブだか)のことだけでなく、「もっと何もしなくていいのに」とも感じた。単純にスペースの大きさに対して、ダンサーの数(11人)が多いようにも思った。ピアノとチェロの生演奏がすごくいい。ゲストダンサーである、韓国のホン・ヘジョンさんが楽しそうにやっていてよかった。併設のショップでコサージュをなんとなく買って帰る。
話がテンポよく運んでとにかく飽きさせない、という本も悪くないが、物語世界の構成密度が高いというか、あたかもどこかにその世界がひっそりとあるかのように読者に信じさせる説得力と静謐を併せ持つような語り口の小説に私はとりわけ愛着する。本書は私にとってその類の一冊。
あとがきで柴田元幸氏が、本書を読むのに「予備知識は少なければ少ないほどよい」と書いておられる通り、内容には触れないことにするが(アマゾンの読者レビューは、読む前に見ないほうがいいと思う。ネタバレ気味)、作者の「抑制の効いた」描写の心地よいこと! 自分はこの手の表現に(なんの分野にせよ)惹かれることを確認。「残酷」「不平等」だとか…それらは上からの視線だと思う。そうした視点からではこのようなお話はつくれないはず(「優しい」「人間味ある」とかそういう意味ではなく、「内側から」「同じ高さで」というニュートラルな意味)。ぜんぜん内容紹介になってまぜんが、好ましい。こういう姿勢ってかなり好きなのだ。再読すると思う。
*マドモワゼル・シネマ「冬の矢来町界隈 2月のマーチ」@セッションハウス。
一方こちらはコンテンポラリー・ダンスの公演。初めて観たのですがM・シネマのダンサーたちって若い! 20代かなぁ、ぴちぴちです。タイトルとは関係なく(…あるの?)、テーマは「運動会」だった。観客有志と走ったりもしてた。予想していた以上にガーリーな感じ。今では珍しいことではないけれど、この公演でもダンサーたちが時に「喋って」いた。セリフ(だかアドリブだか)のことだけでなく、「もっと何もしなくていいのに」とも感じた。単純にスペースの大きさに対して、ダンサーの数(11人)が多いようにも思った。ピアノとチェロの生演奏がすごくいい。ゲストダンサーである、韓国のホン・ヘジョンさんが楽しそうにやっていてよかった。併設のショップでコサージュをなんとなく買って帰る。
1985年8月12日、のちに「御巣鷹山の尾根」として知られる場所に日航機123便が墜落し、奇跡的に助かった4名を除き520名(母体内の胎児を含めると521名)が亡くなった。一機の航空機事故としては史上最悪の事例である。当時、私は新社会人として働いていたが、この事故についてはあまり記憶にない。情けないけれど、自分のことで精一杯だったのだろう。事故後21年目にあたる今年、あるブログがこれに触れていたのをきっかけに、事故に関する本を読んだり、関連サイトを見るようになった。
読んだのは、飯塚訓「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」(講談社 1998、画像は文庫版)「墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実 」(講談社 2001)、横山秀夫「クライマーズ・ハイ」(文藝春秋 2003)。
横山氏のものは事故を題材にした、地元新聞社の記者を主人公としたフィクションだが、視点がこの男性にとどまっているせいか私には小説としての広がりが感じられず、あんまり面白くなかった(ミもフタもない言い方だけど「男のロマン」な話。後半、山場で出てくる読者投稿も「なんだかな…」という感じ)。
圧倒的に感銘を受けたのは飯塚氏の著作、特に事故後13年を経て出版された「墜落遺体」である。飯塚氏は高崎署刑事官在職時に、日航機墜落事故の身元確認班長を務めた方。
未曾有の犠牲者を出した、史上最悪の墜落事故。それがどんなものであったか、自分の理解の至らなさに思い当たったのは、とりわけ本書のなかで目にしたある数字だった。亡くなった乗員・乗客数520名に対して、検屍した遺体の総数は2065体。私は「五体満足」であるのが当然と無意識に思っていて、被害者数の4倍近い数が結果としてご遺体になったとはこのくだりを読むまで思ってもみなかった。実際には五体満足な遺体は177体。それ以外は「離断遺体」「分離遺体」で、最終的な遺体確認までは約4ヶ月を要したそうだ。
人の身体を見ていると、それが当たり前で、部分部分が分かれてしまうなんてあり得ない、と思う。けれどもこの事故では、人が人を殺める場合には起こりえない、想像を絶する力が加わった(機体はほとんど裏返しになったようなかたちで尾根に墜落したという)。そうした力の前にいかに人間が無力で弱い存在であるかを思い知らされ、あらためて衝撃を受けた。
しかし、本書が伝えているのは人間の弱さだけにはとどまらない。
本書に描かれている身元確認作業に携わった人々(警察官・医師・看護婦・ボランティアの方々など)の献身、プロ意識を超えた尊さといったような「強さ」。人間はこんなに強くもなれるのだろうかと心打たれた。
著者は本書の「はじめに」で「誰の口からも、使命感だとか職務責任だとかいう軽薄ともとれることばは出ない。そんなものをはるかに超越した人間の実相が現れていた」と書いている。遺体が搬送されてくるや、たちまちにして「凄惨な場」と化した体育館。酷暑のなか、状態が悪化する前に時を争って身元確認の作業を進めなければならなかった人々は、文字通り不眠不休で働いた。心身ともに苛酷な現場で、自分の役割を果たし続ける人々には本当に頭が下がる思いだ。自分も自分の生活のなかでの「修羅場」に陥ったとき、逃げずに自分のするべきことを果たせるのだろうかとも思う。
遺体の詳細な描写もあるものの、本書は事故の凄惨さをことさらセンセーショナルに描くようなものではない。抑えた筆致からは感じられるのは、現場を共有した身元確認に携わる人々や遺族の人々への(うまく言えないけど)「思い」である。これほどにも大きな事故に直面した人間の弱さと強さ、そしてまだおそらく「語られていないこと」も含め、語り継いでゆくことの意義を感じた。
参考:ウィキペディア「日本航空123便墜落事故」の項
読んだのは、飯塚訓「墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便」(講談社 1998、画像は文庫版)「墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実 」(講談社 2001)、横山秀夫「クライマーズ・ハイ」(文藝春秋 2003)。
横山氏のものは事故を題材にした、地元新聞社の記者を主人公としたフィクションだが、視点がこの男性にとどまっているせいか私には小説としての広がりが感じられず、あんまり面白くなかった(ミもフタもない言い方だけど「男のロマン」な話。後半、山場で出てくる読者投稿も「なんだかな…」という感じ)。
圧倒的に感銘を受けたのは飯塚氏の著作、特に事故後13年を経て出版された「墜落遺体」である。飯塚氏は高崎署刑事官在職時に、日航機墜落事故の身元確認班長を務めた方。
未曾有の犠牲者を出した、史上最悪の墜落事故。それがどんなものであったか、自分の理解の至らなさに思い当たったのは、とりわけ本書のなかで目にしたある数字だった。亡くなった乗員・乗客数520名に対して、検屍した遺体の総数は2065体。私は「五体満足」であるのが当然と無意識に思っていて、被害者数の4倍近い数が結果としてご遺体になったとはこのくだりを読むまで思ってもみなかった。実際には五体満足な遺体は177体。それ以外は「離断遺体」「分離遺体」で、最終的な遺体確認までは約4ヶ月を要したそうだ。
人の身体を見ていると、それが当たり前で、部分部分が分かれてしまうなんてあり得ない、と思う。けれどもこの事故では、人が人を殺める場合には起こりえない、想像を絶する力が加わった(機体はほとんど裏返しになったようなかたちで尾根に墜落したという)。そうした力の前にいかに人間が無力で弱い存在であるかを思い知らされ、あらためて衝撃を受けた。
しかし、本書が伝えているのは人間の弱さだけにはとどまらない。
本書に描かれている身元確認作業に携わった人々(警察官・医師・看護婦・ボランティアの方々など)の献身、プロ意識を超えた尊さといったような「強さ」。人間はこんなに強くもなれるのだろうかと心打たれた。
著者は本書の「はじめに」で「誰の口からも、使命感だとか職務責任だとかいう軽薄ともとれることばは出ない。そんなものをはるかに超越した人間の実相が現れていた」と書いている。遺体が搬送されてくるや、たちまちにして「凄惨な場」と化した体育館。酷暑のなか、状態が悪化する前に時を争って身元確認の作業を進めなければならなかった人々は、文字通り不眠不休で働いた。心身ともに苛酷な現場で、自分の役割を果たし続ける人々には本当に頭が下がる思いだ。自分も自分の生活のなかでの「修羅場」に陥ったとき、逃げずに自分のするべきことを果たせるのだろうかとも思う。
遺体の詳細な描写もあるものの、本書は事故の凄惨さをことさらセンセーショナルに描くようなものではない。抑えた筆致からは感じられるのは、現場を共有した身元確認に携わる人々や遺族の人々への(うまく言えないけど)「思い」である。これほどにも大きな事故に直面した人間の弱さと強さ、そしてまだおそらく「語られていないこと」も含め、語り継いでゆくことの意義を感じた。
参考:ウィキペディア「日本航空123便墜落事故」の項
「理不尽な目に遭った子どもは、必ずや何かで精神の欠落や心の傷を補おうとするところから始める。だから、欠落はむしろ素晴らしいこどなのだ。でなければ、生き残って大人になることは不可能です」(上掲書205ページ、桐野夏生著,新潮社,2004より引用)
25年前、10歳のときに見知らぬ男に拉致され、一年余を男の部屋に監禁されて過ごした女性作家が残した原稿、という体裁の本書、アマゾンの読者レビュー評価は必ずしも良くない。
「被害者感情を逆なでする」「それでも作家か」と強い言葉をまじえて批判するレビューもある。また「実際に起きた事件(新潟で起きた少女監禁事件)を下敷きにした…」と書いているレビュアーが何人かいるが、作者公式HPにはそうは書いてない。そうなんだろうか? いずれにせよ私には「男が女を誘拐し、監禁する」という関係を除いては本書で描かれた事件と、あの事件との共通点は感じられなかった。
この作品が実際の事件をもとに書かれたのかどうかはともかく、被害者の気持ちは結局のところ本人にしかわからない、と私は思う。この作品にも書かれているように、家族ですら本人に起きた本当のところを理解するのは難しいのではないだろうか。
しかし、本人の気持ちの本当のところはわからなくても、本人を見守り、寄り添うことはできる。本人の回復力がよみがえるのを信じて待つこともできる。必要ならば手を貸すこともできるかもしれない。そもそも、ある事故なり事件によって被害をこうむった人をいつまでも「被害者」と呼び続けること、それが当事者の力を奪うことになってはいないだろうか。
本書の主人公は、「想像」に苦しめられ、また「想像」を自ら紡ぐことによって生き延びる。ここで描かれている「想像」はあまたある「想像」のひとつに過ぎないかもしれない。しかし、本書が「被害者」と呼ばれてきた主人公を「サバイバー」(過酷な体験を生き延びた者)として生かす物語になっていることにおいて、桐野夏生はまさしく作家であると思うし、情の深さを私は感じる。
本書が週刊誌連載時には「アガルタ」 (チベットの地底にある桃源郷という意味)だったというのは示唆的に思える。自分ひとりの「想像」(「現実」と言っていいかもしれない)に過ぎないと思っていたものが、誰かによって共有され得ると思えば、その誰かのもとに走るのは当然だろうと私は思う。そういうのが「運命の相手」なり「宿命の恋」なんじゃなかろうか。倫理的・道徳的に小説を読む人からは思いきりブーイングされそうだが。想像を生き、性的な人間として生きられる人を私はいとおしく思う。
25年前、10歳のときに見知らぬ男に拉致され、一年余を男の部屋に監禁されて過ごした女性作家が残した原稿、という体裁の本書、アマゾンの読者レビュー評価は必ずしも良くない。
「被害者感情を逆なでする」「それでも作家か」と強い言葉をまじえて批判するレビューもある。また「実際に起きた事件(新潟で起きた少女監禁事件)を下敷きにした…」と書いているレビュアーが何人かいるが、作者公式HPにはそうは書いてない。そうなんだろうか? いずれにせよ私には「男が女を誘拐し、監禁する」という関係を除いては本書で描かれた事件と、あの事件との共通点は感じられなかった。
この作品が実際の事件をもとに書かれたのかどうかはともかく、被害者の気持ちは結局のところ本人にしかわからない、と私は思う。この作品にも書かれているように、家族ですら本人に起きた本当のところを理解するのは難しいのではないだろうか。
しかし、本人の気持ちの本当のところはわからなくても、本人を見守り、寄り添うことはできる。本人の回復力がよみがえるのを信じて待つこともできる。必要ならば手を貸すこともできるかもしれない。そもそも、ある事故なり事件によって被害をこうむった人をいつまでも「被害者」と呼び続けること、それが当事者の力を奪うことになってはいないだろうか。
本書の主人公は、「想像」に苦しめられ、また「想像」を自ら紡ぐことによって生き延びる。ここで描かれている「想像」はあまたある「想像」のひとつに過ぎないかもしれない。しかし、本書が「被害者」と呼ばれてきた主人公を「サバイバー」(過酷な体験を生き延びた者)として生かす物語になっていることにおいて、桐野夏生はまさしく作家であると思うし、情の深さを私は感じる。
本書が週刊誌連載時には「アガルタ」 (チベットの地底にある桃源郷という意味)だったというのは示唆的に思える。自分ひとりの「想像」(「現実」と言っていいかもしれない)に過ぎないと思っていたものが、誰かによって共有され得ると思えば、その誰かのもとに走るのは当然だろうと私は思う。そういうのが「運命の相手」なり「宿命の恋」なんじゃなかろうか。倫理的・道徳的に小説を読む人からは思いきりブーイングされそうだが。想像を生き、性的な人間として生きられる人を私はいとおしく思う。
この頃よく持ち歩いている本。図書館で借りたものの、かわいいので買ってしまいました。「TOCHI’S CAFE(トチズ カフェ)」(ISBN:4893092782 こうの みほこ ブロンズ新社 2002/12 ¥1,260)トチはご主人の健二さんと一緒にカフェで暮らしている、ちょっと大きめのおしりがチャーミングな雑種犬。イラストの犬たちに添えられたセリフが絶妙にほのぼのする。
昼休みに思いついて、会社の裏手にある八幡宮に寄った。表通りにでれば車の往来も多いのに、ここは静か。大きな木に囲まれた神社でお参りするとなんだか気持ちがすっとした。
昨夜、春頃からの日記を読み返してみて、自分つっぱってるなあと思った。一人でいることの覚悟を決めてもいいけど、一人でいたとしても、本当は一人だけの力で生きていけるわけじゃないのに。
「一人で生きていけてるつもり」になるくらいなら、「寂しい」ってぼそぼそ言ってるほうがまし。自分を明け渡すのでもなく、なんでも一人でと力むのでもなく、人に自分を開くのって難しい。人に甘えたり、頼ったりも、自然にできるようになるといいなあ。
昼休みに思いついて、会社の裏手にある八幡宮に寄った。表通りにでれば車の往来も多いのに、ここは静か。大きな木に囲まれた神社でお参りするとなんだか気持ちがすっとした。
昨夜、春頃からの日記を読み返してみて、自分つっぱってるなあと思った。一人でいることの覚悟を決めてもいいけど、一人でいたとしても、本当は一人だけの力で生きていけるわけじゃないのに。
「一人で生きていけてるつもり」になるくらいなら、「寂しい」ってぼそぼそ言ってるほうがまし。自分を明け渡すのでもなく、なんでも一人でと力むのでもなく、人に自分を開くのって難しい。人に甘えたり、頼ったりも、自然にできるようになるといいなあ。
久しぶりに花村萬月読んだ。いいではないですかー!
エロ汚い描写もあるので、好き嫌いは分かれるだろうが、私には読後感さわやかなのだった。まさしくタイトル通りの本。
私は「拒」のみの摂食障害者だったので、ひょっとしたら違うかもしれないけど、過食嘔吐の人にこれは福音ではないだろうか。花村萬月センスいいな。だてに身体つかって遊んでないね。
「浄化」より気になる部分(本筋とは関係ないけど)をメモメモ:
「 花山先生の亡くなった、あの怒涛のような一日が終わりかけたその瞬間に、唐突に桐嶋さんは―起承転結といったフォーマットに逃げるな―というアドバイスを囁いてくれた。とりわけ結など考えなくてもいいというのだ。才能のあるものは結の呪いから解き放たれるのだそうだ。
才能のあるなしはともかく、終わらせなくてもよいというお墨付きをもらったとたんに楽になった。終わりを考えずに書き続けていけばいいのだから、ひたすら書くしかない。わたしは一日に、必ず四百字詰め原稿用紙に換算して十枚、書きあげることを自らに課した」
「エロスというのは思いがけぬところに隠れていて、軽々と人の心を叩きのめし、ねじ伏せる。」
言われなきゃ気づかないような、ちゃちな「毒」を「デトックス」だなんてしゃらくさい。落ちるに落ち、堕ちるに堕ちた者にこそ浄化(=祝福)あれ。
エロ汚い描写もあるので、好き嫌いは分かれるだろうが、私には読後感さわやかなのだった。まさしくタイトル通りの本。
私は「拒」のみの摂食障害者だったので、ひょっとしたら違うかもしれないけど、過食嘔吐の人にこれは福音ではないだろうか。花村萬月センスいいな。だてに身体つかって遊んでないね。
「浄化」より気になる部分(本筋とは関係ないけど)をメモメモ:
「 花山先生の亡くなった、あの怒涛のような一日が終わりかけたその瞬間に、唐突に桐嶋さんは―起承転結といったフォーマットに逃げるな―というアドバイスを囁いてくれた。とりわけ結など考えなくてもいいというのだ。才能のあるものは結の呪いから解き放たれるのだそうだ。
才能のあるなしはともかく、終わらせなくてもよいというお墨付きをもらったとたんに楽になった。終わりを考えずに書き続けていけばいいのだから、ひたすら書くしかない。わたしは一日に、必ず四百字詰め原稿用紙に換算して十枚、書きあげることを自らに課した」
「エロスというのは思いがけぬところに隠れていて、軽々と人の心を叩きのめし、ねじ伏せる。」
言われなきゃ気づかないような、ちゃちな「毒」を「デトックス」だなんてしゃらくさい。落ちるに落ち、堕ちるに堕ちた者にこそ浄化(=祝福)あれ。
「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」
2006年5月2日 読書 コメント (2)
↑(ポール・オースター編 柴田元幸ほか訳 新潮社 2005)を読んだ。これも例によって図書館で借りたのだが、「忘れられたか!」と思った頃にやっと順番がまわってきた。
この本はNPR(全米公共ラジオ)の番組での呼びかけに応えて「あらゆる階層に属する、あらゆる年齢の」リスナーから寄せられた体験談を集めたもの。全179編は、編者により「家族」「スラップスティック」「死」など10のカテゴリーに分類されている。
話はそれるが、私は以前、ポール・オースターの、特に「ムーン・パレス」「ニューヨーク三部作」など、私にとっては#ほどよい# 暗さと冷たさと、孤独感のきわみが感じられる精緻な物語と文章が好きで、愛読していたことがある。「孤独の発明」もなんだかよくて、旅行のときに持っていったりした。
私が離れてしまったのは、作者が「スモーク」など自著の映画化に関わりだしたころだったように思う。オースターの映画は「スモーク」は絶賛されたものの)、あまり関心しなかった。言葉で映像化できる人が、フィルムを使うまでもないし、説明も情も過剰だと観ていて思った。
この「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」は意欲的な試みであり、物語の多くは単なる「いい話」に終わらない。なのだが、私の期待に微妙に反して、実は「悪くない本ではあるけれど…」でも実はあった。
オースターは「編者まえがき」で「多種多様な声や対照的なスタイルから成るこの混沌に、ある種の秩序を与えるため」、上記のようなカテゴライズを行ったと記している。私には、この分類を含め、編集作業のなかで、物語の多様な書き手による「混沌」が「ポール・オースター・ブランド」に整えられすぎているような感があった。私にはそれがそれぞれの物語がもつ生のダイナミズムを失わせているのではないかと感じられたのだが、どう感じるかは読者が作家ポール・オースターのスタイルをどう思うかによるのではないかと思う。
訳書で読むと、編集に加えて「英語→日本語」という翻訳の工程もさらに加わるので、本当は原語で読んだほうが、それぞれの書き手の個性が感じられたのかもしれない。
物語のなかでも印象に残ったもの:
「エラ・ローズ・ロドスタはどこに?」(その才能に嫉妬し、かつて自分がいじめた少女に対する回想)。「アリゾナ州プレスコットのホームレス」(自ら選んで、快適な“ホームレスの暮らし”を設計し実践する匿名の女性の話)。
また、大学生の頃に試みた初めての大陸横断ドライブで、砂漠で大きな自動車事故に遭遇し、友人とともに被害者たちの救出に尽力するなかで、人の死を間近に目撃した過去の出来事と、「人はこんな経験とどう折り合いをつけていくのだろう」という現在の困惑を語る「ある経験」は特に心に長く残っている。
公募にあたって、4千通を越える投稿が寄せられたそうだ。本に載らなかった作者たちはがっかりしたかもしれないが、それまで作者たちそれぞれの内にのみ存在した膨大な数の物語に、(少なくとも編者という)「読者」が与えられたこと、それがこのプロジェクトの最大の意義ではないだろうか。
この本はNPR(全米公共ラジオ)の番組での呼びかけに応えて「あらゆる階層に属する、あらゆる年齢の」リスナーから寄せられた体験談を集めたもの。全179編は、編者により「家族」「スラップスティック」「死」など10のカテゴリーに分類されている。
話はそれるが、私は以前、ポール・オースターの、特に「ムーン・パレス」「ニューヨーク三部作」など、私にとっては#ほどよい# 暗さと冷たさと、孤独感のきわみが感じられる精緻な物語と文章が好きで、愛読していたことがある。「孤独の発明」もなんだかよくて、旅行のときに持っていったりした。
私が離れてしまったのは、作者が「スモーク」など自著の映画化に関わりだしたころだったように思う。オースターの映画は「スモーク」は絶賛されたものの)、あまり関心しなかった。言葉で映像化できる人が、フィルムを使うまでもないし、説明も情も過剰だと観ていて思った。
この「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」は意欲的な試みであり、物語の多くは単なる「いい話」に終わらない。なのだが、私の期待に微妙に反して、実は「悪くない本ではあるけれど…」でも実はあった。
オースターは「編者まえがき」で「多種多様な声や対照的なスタイルから成るこの混沌に、ある種の秩序を与えるため」、上記のようなカテゴライズを行ったと記している。私には、この分類を含め、編集作業のなかで、物語の多様な書き手による「混沌」が「ポール・オースター・ブランド」に整えられすぎているような感があった。私にはそれがそれぞれの物語がもつ生のダイナミズムを失わせているのではないかと感じられたのだが、どう感じるかは読者が作家ポール・オースターのスタイルをどう思うかによるのではないかと思う。
訳書で読むと、編集に加えて「英語→日本語」という翻訳の工程もさらに加わるので、本当は原語で読んだほうが、それぞれの書き手の個性が感じられたのかもしれない。
物語のなかでも印象に残ったもの:
「エラ・ローズ・ロドスタはどこに?」(その才能に嫉妬し、かつて自分がいじめた少女に対する回想)。「アリゾナ州プレスコットのホームレス」(自ら選んで、快適な“ホームレスの暮らし”を設計し実践する匿名の女性の話)。
また、大学生の頃に試みた初めての大陸横断ドライブで、砂漠で大きな自動車事故に遭遇し、友人とともに被害者たちの救出に尽力するなかで、人の死を間近に目撃した過去の出来事と、「人はこんな経験とどう折り合いをつけていくのだろう」という現在の困惑を語る「ある経験」は特に心に長く残っている。
公募にあたって、4千通を越える投稿が寄せられたそうだ。本に載らなかった作者たちはがっかりしたかもしれないが、それまで作者たちそれぞれの内にのみ存在した膨大な数の物語に、(少なくとも編者という)「読者」が与えられたこと、それがこのプロジェクトの最大の意義ではないだろうか。
←このところよく持ち歩いているのがこれ(「北欧フィンランドのかわいいモノたち」菅野 直子 インターシフト 2005/11/10 ¥1,890)。
昼休みに立ち寄った児童書の店で「ムーミン谷の冬」を買った。実家にあるのを入れたら、たぶん同じものがうちに三冊はあると思う。
私はムーミンの人たち(?)のお互いに対する距離のとり方とか、気遣いのもちようを昔から好ましく思っていて、それもあってフィンランドには、ずっとお近づきになりたい気持ちがあるのです。
カウリスマキもこの国の人。行ってみたいな。
昼休みに立ち寄った児童書の店で「ムーミン谷の冬」を買った。実家にあるのを入れたら、たぶん同じものがうちに三冊はあると思う。
私はムーミンの人たち(?)のお互いに対する距離のとり方とか、気遣いのもちようを昔から好ましく思っていて、それもあってフィンランドには、ずっとお近づきになりたい気持ちがあるのです。
カウリスマキもこの国の人。行ってみたいな。
図書館で予約した「33歳ガン漂流ラスト・イグジット」(奥山 貴宏 牧野出版) がやっと来たので読んだ。
予約したのは昨年で、「いいかげん待たせんなよ!」とも思ったが、これを読んでしまうと、この人の書いたもので読んでいないものはなくなってしまうので惜しみつつ神妙に待っていました。
ここには著者が昨年4月に33歳で亡くなる前日まで、ほんとうに力をふりしぼって残した言葉が収められている。最後に何と書いたか知っていたのだが、電車のなかでそのくだりを読んで不覚にも泣けてしまった。
この著者との「別れ」に自分の身近な人(や動物)たちとの別れが一瞬、重なった。
巻末にある「サ母(サイボーグお母さん)」様の文章もとてもいい。意地で予約の順番がまわってくるのを待っていましたが、これも自分で買いますとも!
ご冥福をお祈りします。でもなんだかこの人、今でもどこかで何か書いていたり、ネットで自作の書評チェックしていたりするような気がしてしょうがない…。
**************
昨日の日記に、「わん・わんわん」とか書いたけど、これ昨年の1/11だか11/1だかにも書いたと思う。ぼけてる。でもやっぱり世界人類の幸福よりはむしろ世界犬類の幸福を私は祈っているからね(しつこい)。人類の欲望は無限に広過ぎる、そして深過ぎる。そしてそして私はやはり風邪をひいたらしいです。寝ます。
予約したのは昨年で、「いいかげん待たせんなよ!」とも思ったが、これを読んでしまうと、この人の書いたもので読んでいないものはなくなってしまうので惜しみつつ神妙に待っていました。
ここには著者が昨年4月に33歳で亡くなる前日まで、ほんとうに力をふりしぼって残した言葉が収められている。最後に何と書いたか知っていたのだが、電車のなかでそのくだりを読んで不覚にも泣けてしまった。
この著者との「別れ」に自分の身近な人(や動物)たちとの別れが一瞬、重なった。
巻末にある「サ母(サイボーグお母さん)」様の文章もとてもいい。意地で予約の順番がまわってくるのを待っていましたが、これも自分で買いますとも!
ご冥福をお祈りします。でもなんだかこの人、今でもどこかで何か書いていたり、ネットで自作の書評チェックしていたりするような気がしてしょうがない…。
**************
昨日の日記に、「わん・わんわん」とか書いたけど、これ昨年の1/11だか11/1だかにも書いたと思う。ぼけてる。でもやっぱり世界人類の幸福よりはむしろ世界犬類の幸福を私は祈っているからね(しつこい)。人類の欲望は無限に広過ぎる、そして深過ぎる。そしてそして私はやはり風邪をひいたらしいです。寝ます。
This Way Out
2006年1月3日 読書 コメント (2)
正月から血みどろでなんですが、遅れ馳せながら桐野夏生の「OUT」(講談社文庫 上下巻 2002、親本1997)を読んだ。(ねたばれるかもです)
女が夫を殺し、パート仲間たちが死体をバラバラにする話でしょ…というのは知っていた。が、いわゆる「ミステリー」で、彼女たちもいつかは捕まって罰せられるのだろう、という私のちんけな想像をはるかに越える小説だった。実際、この作品のなかでは警察なんておそろしく非力だ。
「ダーク」にしろ、「グロテスク」にしろ桐野夏生は「毀(こわ)れている」「毀れゆく」人間の書き方がうまい。彼女の小説においては、何かが「損なわれている」という意味でなく、現実を切り開くオルタナティブな力のある存在として、「毀れた」人間が生かされているように思う。わかりやすく大文字で書かれてはいないが、紛れもなくそれは「救い」だ。「この「OUT」でも同様で、タイトルは「人の道にはずれた」と「(行き詰まった現状からの)出口」というふたつの意味がかけられている。
「OUT」は凄惨で冷酷だが、最後にカタルシスが訪れる。非情のなかにも(だからこその)情がある。こういうの私は好きだ。
*********
うちに両親、妹とその娘たちが来てお昼&お茶。ピザとかケーキとかさんざん食べる。犬だけではなく、自分も丸くなっていないはずはない。そして明日から仕事なんて、早い、早過ぎるよ!まだまったりしていたい。新しいPCのセットアップもやっぱりできず。
女が夫を殺し、パート仲間たちが死体をバラバラにする話でしょ…というのは知っていた。が、いわゆる「ミステリー」で、彼女たちもいつかは捕まって罰せられるのだろう、という私のちんけな想像をはるかに越える小説だった。実際、この作品のなかでは警察なんておそろしく非力だ。
「ダーク」にしろ、「グロテスク」にしろ桐野夏生は「毀(こわ)れている」「毀れゆく」人間の書き方がうまい。彼女の小説においては、何かが「損なわれている」という意味でなく、現実を切り開くオルタナティブな力のある存在として、「毀れた」人間が生かされているように思う。わかりやすく大文字で書かれてはいないが、紛れもなくそれは「救い」だ。「この「OUT」でも同様で、タイトルは「人の道にはずれた」と「(行き詰まった現状からの)出口」というふたつの意味がかけられている。
「OUT」は凄惨で冷酷だが、最後にカタルシスが訪れる。非情のなかにも(だからこその)情がある。こういうの私は好きだ。
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うちに両親、妹とその娘たちが来てお昼&お茶。ピザとかケーキとかさんざん食べる。犬だけではなく、自分も丸くなっていないはずはない。そして明日から仕事なんて、早い、早過ぎるよ!まだまったりしていたい。新しいPCのセットアップもやっぱりできず。
それすらも日常は含む
2005年12月17日 読書
図書館で借りた「32歳ガン漂流 エヴォリューション」(奥山貴宏 牧野出版)、2度読んだところで、結局買うことにした。「VP」も2度読んだのだが、どちらか選ぶとしたら私は「ガンエヴォ」だ。
書店でこの本は哲学だの思想だの、あるいは精神世界といった棚に置かれることはないだろう。おそらく著者も生だの死だのを説こうなんて、意図してはいなかっただろうと思う。けれども、ガンエヴォ時点で、宣告された余命を使い切ろうとしていた著者が「一点賭け」するようになるプロセス、「もう迷う余地すらない」場所で残された力と時間を「書くこと」に向けるという姿勢は、上記の類の本に負けないくらい、あるいはそれらを超えて手応えのある大きなものをさりげなく伝えている。あまりになんでもなく渡してくれるので、私がその意味を味わいつくすにはまだまだ時間がかかるだろう。
奥山氏は書いている:
「いつ死ぬか分からないという極限状況すらオレにとってはもはや日常の一コマに過ぎない。もう慣れてしまった。いちいちそんなことを考えていたら生活もできない」
そ、そうなのか?! そこまで人は「慣れる」のか…。前作の「31歳ガン漂流」は「闘病のある日常」といった趣を興味深く面白く読んだが、「32歳」編はもちろん前にも増して闘病中なのだが、感じとしては「闘い」というより、むしろ究極の「慣れ」に行きついた果ての「落ちつき」を文章に感じる。実際に体験する身体の「痛み」はきつくなっているようなんだけど…。31歳から32歳、一年という短い期間でも著者にとってあまりに濃密な時間に読者として立ち合わせてもらえるとはなんて得がたいことだろう。
それでもしかし。だからといって私が「私は自分の生を懸命に生きよう」となるわけではない。
前作で著者は「だんだん世の中にリアリティが失われてきているように思う」といったことを書いていたと記憶している(本が手元にないのですみません)が、ガンエヴォでは彼にとっての紛れもないリアリティをつかんでいて、それがゆえの落ちつきでありエネルギーなのではないか。
リアリティなんて人から与えてもらえるものでなし、自分にとってのリアリティは自分で探すかつくるしかない。奥山氏が死と対峙すること、それによって限られた時間をフルに使うようになったからといって、自分にとっての「リアリティ」=「切実なること」のなかに、「しっかり生きること」があるかといえばそれは違う。いつかは含まれるようになるのかもしれないが少なくとも今はない(べつに自慢にゃならないですけど)。
私が私の行き着くところで落ちつきを得るには、ポジの方向にしろネガの方向にしろ、瞬間瞬間でリアルなものを選びギリギリのところでやっていくしかないでしょう。私はそういうやり方なんだろうと思う。
書店でこの本は哲学だの思想だの、あるいは精神世界といった棚に置かれることはないだろう。おそらく著者も生だの死だのを説こうなんて、意図してはいなかっただろうと思う。けれども、ガンエヴォ時点で、宣告された余命を使い切ろうとしていた著者が「一点賭け」するようになるプロセス、「もう迷う余地すらない」場所で残された力と時間を「書くこと」に向けるという姿勢は、上記の類の本に負けないくらい、あるいはそれらを超えて手応えのある大きなものをさりげなく伝えている。あまりになんでもなく渡してくれるので、私がその意味を味わいつくすにはまだまだ時間がかかるだろう。
奥山氏は書いている:
「いつ死ぬか分からないという極限状況すらオレにとってはもはや日常の一コマに過ぎない。もう慣れてしまった。いちいちそんなことを考えていたら生活もできない」
そ、そうなのか?! そこまで人は「慣れる」のか…。前作の「31歳ガン漂流」は「闘病のある日常」といった趣を興味深く面白く読んだが、「32歳」編はもちろん前にも増して闘病中なのだが、感じとしては「闘い」というより、むしろ究極の「慣れ」に行きついた果ての「落ちつき」を文章に感じる。実際に体験する身体の「痛み」はきつくなっているようなんだけど…。31歳から32歳、一年という短い期間でも著者にとってあまりに濃密な時間に読者として立ち合わせてもらえるとはなんて得がたいことだろう。
それでもしかし。だからといって私が「私は自分の生を懸命に生きよう」となるわけではない。
前作で著者は「だんだん世の中にリアリティが失われてきているように思う」といったことを書いていたと記憶している(本が手元にないのですみません)が、ガンエヴォでは彼にとっての紛れもないリアリティをつかんでいて、それがゆえの落ちつきでありエネルギーなのではないか。
リアリティなんて人から与えてもらえるものでなし、自分にとってのリアリティは自分で探すかつくるしかない。奥山氏が死と対峙すること、それによって限られた時間をフルに使うようになったからといって、自分にとっての「リアリティ」=「切実なること」のなかに、「しっかり生きること」があるかといえばそれは違う。いつかは含まれるようになるのかもしれないが少なくとも今はない(べつに自慢にゃならないですけど)。
私が私の行き着くところで落ちつきを得るには、ポジの方向にしろネガの方向にしろ、瞬間瞬間でリアルなものを選びギリギリのところでやっていくしかないでしょう。私はそういうやり方なんだろうと思う。
友人宅にてもつ鍋の会。私はもつ鍋マニアではないのに、今年に入って2度も食べている。でも今日のほうが前回よりずっと美味。もつ鍋ワールド、深い。顔ぶれはアミーゴな縁でお仕事をさせて頂いている会社の方たち。日頃の職場は年下の人たちとばかりなので、年上の人の話題はにゃにか新鮮。大人な人間模様の話をいろいろ聞く。友人にささやかなプレゼントをしたら、とても喜んでもらえたので私もウレシイ。
奥山貴宏「ヴァニシングポイント」(「VP」)「31歳 ガン漂流」の続き。昨日は、著者は「VP」について「さらにエディットを重ねたかったかもしれない」と書いたが、もやもやしているのはそのことではなかった。
「VP」を先に読んだときは、よくできている、と思った。度合で言えば「VP」は「31歳〜」よりはるかにエディット(編集)されているのだが、今思えば私にとっては「31歳〜」のほうが面白い、ということ。これはどういうことなのだろう?「ソウルにスタイルはついてくるが、スタイルにソウルはついてくるか。書き手はコントロールするべし、とは思うがだがしかし。
奥山貴宏「ヴァニシングポイント」(「VP」)「31歳 ガン漂流」の続き。昨日は、著者は「VP」について「さらにエディットを重ねたかったかもしれない」と書いたが、もやもやしているのはそのことではなかった。
「VP」を先に読んだときは、よくできている、と思った。度合で言えば「VP」は「31歳〜」よりはるかにエディット(編集)されているのだが、今思えば私にとっては「31歳〜」のほうが面白い、ということ。これはどういうことなのだろう?「ソウルにスタイルはついてくるが、スタイルにソウルはついてくるか。書き手はコントロールするべし、とは思うがだがしかし。
奥山貴宏「31歳 ガン漂流」(ポプラ社)を読む。先月のはじめだったか、自伝的小説である「ヴァニシングポイント」(以下、「VP」)を読んでから、他の著作も読むべく地元の図書館に予約を入れていたのがやっときた。
奥山貴宏氏は本年4月、33歳という若さで肺がんのため亡くなった。この「ガン漂流」シリーズ(3冊)は、彼がWebマガジンに連載していたブログがもとになっている。
「31歳」編は身体を壊して入院し、病名を告げられてからの入院生活を中心につづったものだが、なんちゅうクールな闘病記であることよ。日々のタイトルがいちいちかっこいい。そして、これが大事なことだが「おもしろい」。
私は著者が通じる音楽やサブカル的なものに疎いし、受け入れられない部分もあったが、それでも「VP」には読ませる力があると思った。やはりそれは著者がプロの書き手であるからで、趣味を同じくしない読者もひきつけるスキルがあるのだと思う。
しかし、こちらの「ガン漂流」を読むと、うまく説明できないのだが、「VP」を著す意味、しかも自ら「オルタナティブ・エディター」を名乗る著者が紙媒体で小説として世に出す意味はいずこにあるのだろう?という疑問がもやもやと湧いてくる(「意味がない」ということではなく、単純に疑問として)。
失礼な言い方かもしれないが、著者は「表現者」として十分、がんとの「壮絶な闘い」のもとをとったのではないか、と私は思っていた。誰もが「死すべき運命」にあるが、期限を知り砂時計が落ちる音を聞きながらそのときを「表現できる術をもった者」はそう多くない。
著者は「31歳〜」のなかで「日記で使われている音はエディットされまくっている」と書いている。「闘病記を読んで泣きたい人とか感動したい人はどうか他のモノを読んで欲しい」とも。
「31歳」編しか読んでいないので、私の推測に過ぎないが、あるいはひょっとしたら著者は「VP」もさらにエディットを重ねたかったかもしれないとふと思う。著者は「VP」が刊行されて三日後に旅立った。
それにしても早く続きが読みたい。M市の図書館で借りている人は、すみやかに返すように(買えってか)。
奥山貴宏氏は本年4月、33歳という若さで肺がんのため亡くなった。この「ガン漂流」シリーズ(3冊)は、彼がWebマガジンに連載していたブログがもとになっている。
「31歳」編は身体を壊して入院し、病名を告げられてからの入院生活を中心につづったものだが、なんちゅうクールな闘病記であることよ。日々のタイトルがいちいちかっこいい。そして、これが大事なことだが「おもしろい」。
私は著者が通じる音楽やサブカル的なものに疎いし、受け入れられない部分もあったが、それでも「VP」には読ませる力があると思った。やはりそれは著者がプロの書き手であるからで、趣味を同じくしない読者もひきつけるスキルがあるのだと思う。
しかし、こちらの「ガン漂流」を読むと、うまく説明できないのだが、「VP」を著す意味、しかも自ら「オルタナティブ・エディター」を名乗る著者が紙媒体で小説として世に出す意味はいずこにあるのだろう?という疑問がもやもやと湧いてくる(「意味がない」ということではなく、単純に疑問として)。
失礼な言い方かもしれないが、著者は「表現者」として十分、がんとの「壮絶な闘い」のもとをとったのではないか、と私は思っていた。誰もが「死すべき運命」にあるが、期限を知り砂時計が落ちる音を聞きながらそのときを「表現できる術をもった者」はそう多くない。
著者は「31歳〜」のなかで「日記で使われている音はエディットされまくっている」と書いている。「闘病記を読んで泣きたい人とか感動したい人はどうか他のモノを読んで欲しい」とも。
「31歳」編しか読んでいないので、私の推測に過ぎないが、あるいはひょっとしたら著者は「VP」もさらにエディットを重ねたかったかもしれないとふと思う。著者は「VP」が刊行されて三日後に旅立った。
それにしても早く続きが読みたい。M市の図書館で借りている人は、すみやかに返すように(買えってか)。
昨日も書いた、「エリカ」(小池真理子)は続きを最後まで読んだ。(ねたばれあり枡)
ヒロインはバラ男に惹かれ、恋人としてつきあうが、次第に男の薄っぺらさに気づくようになり、一緒に行く予定だった旅行に男の妻が同行することになったため、キャンセルになったことを契機に別れを決意する。ヒロインはその同じ頃、部屋で盗聴機を発見するが、それは彼女に想いを寄せる若者が仕込んだものだった。青年に対する怒りは、「自分のすべてを知っている」相手に対する不思議な安心感に変わり、彼女は自ら青年を呼び出すのだが、お互いに求めるものは叶えられることはなく出会いは不毛に終わる…(まとめbyスイカ)。
もっともしっくりしないのは、ヒロインが終始、自分自身から遠いように思えるところだ。いかに自分に気づいていないか、気づいていない…ように思える。だから結末が結末らしく落ちつきを感じない。ラストでヒロインは「自分は真実だと錯覚できる愛を求め続けていくのだろう」と独白するが、それは決意には聞こえず漠然とした予測?自分が見えてない人に言われても説得力ないのだ。
一方、今週号の「アエラ」では「40歳からの出会い方」特集。こちらは具体的かつ直接的。案外励まされるのだわ。私もがんばろうっと。あきらめないぞっ、と。
ヒロインはバラ男に惹かれ、恋人としてつきあうが、次第に男の薄っぺらさに気づくようになり、一緒に行く予定だった旅行に男の妻が同行することになったため、キャンセルになったことを契機に別れを決意する。ヒロインはその同じ頃、部屋で盗聴機を発見するが、それは彼女に想いを寄せる若者が仕込んだものだった。青年に対する怒りは、「自分のすべてを知っている」相手に対する不思議な安心感に変わり、彼女は自ら青年を呼び出すのだが、お互いに求めるものは叶えられることはなく出会いは不毛に終わる…(まとめbyスイカ)。
もっともしっくりしないのは、ヒロインが終始、自分自身から遠いように思えるところだ。いかに自分に気づいていないか、気づいていない…ように思える。だから結末が結末らしく落ちつきを感じない。ラストでヒロインは「自分は真実だと錯覚できる愛を求め続けていくのだろう」と独白するが、それは決意には聞こえず漠然とした予測?自分が見えてない人に言われても説得力ないのだ。
一方、今週号の「アエラ」では「40歳からの出会い方」特集。こちらは具体的かつ直接的。案外励まされるのだわ。私もがんばろうっと。あきらめないぞっ、と。
読み散らかしている本
2005年7月24日 読書
桐野夏生姐さんの「ダーク」(講談社)。8割ほど読了。女探偵ミロ・シリーズの一冊だが、これまでの登場人物がそろってダークサイド方向に落ちる。個人的には気分と妙にシンクロして爽快。小池真理子の「エリカ」(中央公論新社)。ヒロインは41才の誕生日に、亡くなった親友の恋人だった男から401本のバラを贈られる。401本ってあんた…そんな非常識な量をどこに活けるのさ、というのと「プラス1本」というのがまた悪寒を誘う。だがしかし彼女はその男になびいてしまうらしい。これも読みかけだが、脱落しそうな気もスル。
「吉田都 終わりのない旅。」(阪急コミュニケーションズ)。英国ロイヤルバレエ団のプリンシパル、吉田都さんのフォト&エッセイ集。可憐な人だにゃー。「ボディの“センター”の意識」などためになる。小学校の頃に通ったバレエ・スクールでは大変に厳しい指導を受けたとか。彼女自身の撮影による身のまわりの風景に、ぬいぐるみがちょこちょこ写り込んでいてほほえましい。
※新潟旅行の日記を15日、16日のところにアップしました。
「吉田都 終わりのない旅。」(阪急コミュニケーションズ)。英国ロイヤルバレエ団のプリンシパル、吉田都さんのフォト&エッセイ集。可憐な人だにゃー。「ボディの“センター”の意識」などためになる。小学校の頃に通ったバレエ・スクールでは大変に厳しい指導を受けたとか。彼女自身の撮影による身のまわりの風景に、ぬいぐるみがちょこちょこ写り込んでいてほほえましい。
※新潟旅行の日記を15日、16日のところにアップしました。
メキシコの画家、フリーダ・カーロ。少女時代にバス事故で大怪我を負い、それによって強いられた心身の苦痛や自己との対峙は彼女の作品をつらぬくテーマとなった。夫も有名な画家であるディエゴ・リベラ。浮気のやまない夫を愛したことも彼女の生を揺さぶり続けることになった。
スカパーでサルマ・ハエック主演の映画「フリーダ」もやっていました(これもよかったのだ)。以前は文字通りの痛みが描かれた彼女の絵を敬遠していたけれど、今は見ることができるし、惹かれるものがある。なんででしょう…?
(「フリーダ・カーロ―引き裂かれた自画像」ISBN:4122033535 文庫 堀尾 真紀子 中央公論新社 1999/02 ¥760)
スカパーでサルマ・ハエック主演の映画「フリーダ」もやっていました(これもよかったのだ)。以前は文字通りの痛みが描かれた彼女の絵を敬遠していたけれど、今は見ることができるし、惹かれるものがある。なんででしょう…?
(「フリーダ・カーロ―引き裂かれた自画像」ISBN:4122033535 文庫 堀尾 真紀子 中央公論新社 1999/02 ¥760)
帰りに渋谷の某スタジオでレッスンを見学する。女の先生はしっかり・しなやかなボディと動きがかっこいい人。内容も悪くない。しかしここも「入門」なのに、ガツガツとエキササイズをこなしていき、それについていける人ばかり。なんだかここでも「見学」してるとちっとも自分が動けないような気がしてへこむ。
連休中の大きな恵みのひとつが「グロテスク」(桐野夏生 文藝春秋)だった。これはいわゆる「東電OL殺人事件」に想を得たフィクションである。私はその事件に思い入れているだけに、手を出さそうか出すまいかかなり迷ったが、図書館に行ったときちょうど「そこにあった」ので借りて読むことにした。
作者の桐野夏生は自身のホームページで、「彼女は街娼することによって、むしろ解放感をもったのではないか」と執筆前の仮説のひとつとして書いているが、私もそう思う。彼女は街に立つことによって、精神的なバランスをとっていたのではないだろうか。良識ある人(?)からは眉をひそめられるであろう行為は、いずれは彼女に本格的な突破口を開いたのではないかとも私は思っているので、あのようなかたちで彼女の人生が断たれてしまったこと、彼女が自分で自分を語れなくなってしまったことが残念でならない。
「グロテスク」は読み終わったあとも、私に考える種と刺激を与えてくれている。よくぞ書いてくれました!単に実際の事件の分析に終わることなく、フィクションの力を発揮しているところもすばらしぃ。ブリリアント!ともかく私にとっては大ネタ本であるので、今はこれ以上書かないでとっておくことにします(すみません)。
アマゾンでこの本の読者評を読んでいたら気づいたことがあった。少なからぬ数の人が「心の闇」って書いてるんだけど…登場人物たちのこれって「心の闇」なのか? 私にとってはあまりに日常的というかなじみある心持ちだけに、評者たちが「暗い」とか「憂うつな気持ちになる」とか書いているのを読んで、「こうゆうのが一般的には闇とされるのか…」とちょっと驚いた。「闇」というにはじゅうぶん伝達したり、思い測ったりが可能だと思うけど…私としては内省する過程がなく突如として衝動が他者に向かう人のほうが「闇感」がある。でも「心の闇」っていう言い方自体、おおざっぱで好きじゃないなー。
連休中の大きな恵みのひとつが「グロテスク」(桐野夏生 文藝春秋)だった。これはいわゆる「東電OL殺人事件」に想を得たフィクションである。私はその事件に思い入れているだけに、手を出さそうか出すまいかかなり迷ったが、図書館に行ったときちょうど「そこにあった」ので借りて読むことにした。
作者の桐野夏生は自身のホームページで、「彼女は街娼することによって、むしろ解放感をもったのではないか」と執筆前の仮説のひとつとして書いているが、私もそう思う。彼女は街に立つことによって、精神的なバランスをとっていたのではないだろうか。良識ある人(?)からは眉をひそめられるであろう行為は、いずれは彼女に本格的な突破口を開いたのではないかとも私は思っているので、あのようなかたちで彼女の人生が断たれてしまったこと、彼女が自分で自分を語れなくなってしまったことが残念でならない。
「グロテスク」は読み終わったあとも、私に考える種と刺激を与えてくれている。よくぞ書いてくれました!単に実際の事件の分析に終わることなく、フィクションの力を発揮しているところもすばらしぃ。ブリリアント!ともかく私にとっては大ネタ本であるので、今はこれ以上書かないでとっておくことにします(すみません)。
アマゾンでこの本の読者評を読んでいたら気づいたことがあった。少なからぬ数の人が「心の闇」って書いてるんだけど…登場人物たちのこれって「心の闇」なのか? 私にとってはあまりに日常的というかなじみある心持ちだけに、評者たちが「暗い」とか「憂うつな気持ちになる」とか書いているのを読んで、「こうゆうのが一般的には闇とされるのか…」とちょっと驚いた。「闇」というにはじゅうぶん伝達したり、思い測ったりが可能だと思うけど…私としては内省する過程がなく突如として衝動が他者に向かう人のほうが「闇感」がある。でも「心の闇」っていう言い方自体、おおざっぱで好きじゃないなー。
5日の日記に書いたMichael Sowaについて調べてみたら、
やっぱり「アメリ」の絵を描いた人でした。
本(「クマの名前は日曜日」(ISBN:4001108623 岩波書店 2002/06 ¥1,575 など)やサイトも見つかりました↓
http://www.geocities.jp/candy_clouds_pink/
Michael Sowa Union(ミヒャエル・ゾーヴァ同盟)
ドイツの人気画家だそう。「マイケル・ソワ」ってカタカナで書いておかなくてよかったよ(笑)
会社の帰りに、「しがらみ」のためあるご婦人と会う。20才くらい年上で超エネルギッシュな人で…苦手なタイプ(すみません)。でもその方の好意なのだから、時にはちょとがんばってパワフルなオーラも浴びるのだわ。用事が終わったあと本屋に寄って、また「ゾーヴァ」の絵葉書を買った。
やっぱり「アメリ」の絵を描いた人でした。
本(「クマの名前は日曜日」(ISBN:4001108623 岩波書店 2002/06 ¥1,575 など)やサイトも見つかりました↓
http://www.geocities.jp/candy_clouds_pink/
Michael Sowa Union(ミヒャエル・ゾーヴァ同盟)
ドイツの人気画家だそう。「マイケル・ソワ」ってカタカナで書いておかなくてよかったよ(笑)
会社の帰りに、「しがらみ」のためあるご婦人と会う。20才くらい年上で超エネルギッシュな人で…苦手なタイプ(すみません)。でもその方の好意なのだから、時にはちょとがんばってパワフルなオーラも浴びるのだわ。用事が終わったあと本屋に寄って、また「ゾーヴァ」の絵葉書を買った。
今朝からずしんと冷え込んだせいか、寒気と頭痛がしていや〜な感じがする。「月曜夜のレッスンが終わってしまう」という事実も朝になってみると結構お腹の力が抜けるもので、「会社行きたくないなー」という気分が盛り上がる。
隣席の同僚も体調不良で休み、他にも同じ部署で早退する人がいる。終業までいられないこともなかったけれど、今週は後半にいろいろ大事な用事もあるし、帰って答案の採点(まだやってた)を終わらせなきゃ…ということで、姑息にも時給との兼ね合いで中途半端に3時で早退させて頂いた。
「こういうときは“葛根湯”だわ!」と(このひらめきがおばさん?)瓶に入ったやつを買って帰って飲んだら、効いたような気がします。でも鏡を見ると、やっぱり変な顔をしている。今日は早く寝ます。
ところで私の場合、「寒気」は両肩からひじの方へと向かう…と思ったら、メアリー・ノートンの「借り暮らしシリーズ」(「床下の小人たち」など・岩波書店)で、小人たちが人間の存在を察知したときの感じがそれぞれ違う、と言っていたのを思い出した。確か、首に巻いたスカーフみたいに「あの感じ」がくるタイプとか。この小人シリーズはお話、絵(昔あったイギリス版のほう)ともにすごく好き。このシリーズが好きとどこかで書いていたカズコ・ホーキも私はわりと好きだな。
隣席の同僚も体調不良で休み、他にも同じ部署で早退する人がいる。終業までいられないこともなかったけれど、今週は後半にいろいろ大事な用事もあるし、帰って答案の採点(まだやってた)を終わらせなきゃ…ということで、姑息にも時給との兼ね合いで中途半端に3時で早退させて頂いた。
「こういうときは“葛根湯”だわ!」と(このひらめきがおばさん?)瓶に入ったやつを買って帰って飲んだら、効いたような気がします。でも鏡を見ると、やっぱり変な顔をしている。今日は早く寝ます。
ところで私の場合、「寒気」は両肩からひじの方へと向かう…と思ったら、メアリー・ノートンの「借り暮らしシリーズ」(「床下の小人たち」など・岩波書店)で、小人たちが人間の存在を察知したときの感じがそれぞれ違う、と言っていたのを思い出した。確か、首に巻いたスカーフみたいに「あの感じ」がくるタイプとか。この小人シリーズはお話、絵(昔あったイギリス版のほう)ともにすごく好き。このシリーズが好きとどこかで書いていたカズコ・ホーキも私はわりと好きだな。