ぷちボラ

2011年11月27日 311
たまには「地域に密着するのだ」と、地元ボランティアセンターのお手伝い。午後だけ。岩手に送る冬の支援物資の仕分けや箱詰めなどです。募る物品は決まっているのだが、「カイロ」だけでも「貼る/貼らない」タイプ、さらにサイズが「大/小」あって整理とカウントが大変。単に段ボール箱に紙を貼る、という作業の難しさを知る。「手持ちぶさたかもしれません」と言われていたけどすることはじゅうぶんにあったです。
(その1より続く)
2日目は「念願の(?)」泥だし作業。他のボランティアグループと合同で、市の社協グループ全員で側溝の泥だしを行う。フル装備大活躍(地面にもガラス片や瀬戸物のかけら、金属が多数混入しているのでスニーカーなどでは危ない)。

側溝(道路の脇にある溝)に詰まった泥をかい出して袋に入れ、水が流れるようにするという作業だが、肉体労働は肉体労働。中腰になって、スコップで泥をすくうという作業はしんどいです。土嚢(すくった泥を詰めた袋)は半端なく重い。体力はあるつもりだったけど、情けなくも非力な自分。やっぱ全身鍛えないとダメだな。男性陣が多く、気を遣って女性には軽作業を回してくださった。大人数なせいもあってか、この作業はこの日でほぼ完了。

昨日もそう思ったけど、タフさには男女年齢関係ない。アラフォーより上世代も結構、多い。地元の人にせよ遠方からのボラの方にせよ、私より年配の細っこいおばちゃんでも男性と同じにガツガツと働いておられたり。屈強ですよ。かっこいい。私は時間があり余る失業の身ですが、同じ社協グループ内や現地で会ったボラの方にも無職の人が何人かいた。失業者が国のためになれるまたとないチャーンス!

この日の作業現場には家が1軒だけで、このおうちの広大な敷地なのかと思ったらそうではなく、10軒ほどあった他の家は全壊したそう。土地にはいろいろな「落し物」があり、写真や卒業アルバムの一部がここにもあり、スタッフの方に渡す。

帰りにバスで甚大な被害を受けた陸前高田を通る。3~4階建ほどのアパートが津波でぶち抜きになったままそこここに残っており、途方もない波の高さがわかる。がらんどうのビルの窓からカーテンだけがはためいている光景は異様だった。ショッピングセンターと思われる場所では、大きな店舗がひしゃげたようにつぶれていて(看板の一部でそれとわかる)、これでは木造建築はひとたまりもなかっただろう。

それにがれきの山。便宜的に「がれき」と言ってしまうが、もともと廃材だったのではなく、誰かの家だったり職場だったりしたものの名残なのだ。
あとは何もない。ここにいた人々はどうしてしまったのだろう。

町がなくなっている。

だけど、もう少しバスで走ると人のいる生活がある。まだまだご不自由もあるだろうけれど、「日常」が戻ってきているように見える光景が現れる。ある民家の庭先で白いわんこが嬉しそうにおばあちゃんにじゃれていたのがかわいかった。

私は「被災地のために何かしなくちゃ」とか熱い思いで来たわけではなく、かなり自分のためです。311以降、地震と津波、原発事故の影響が自分のなかで漠然とした不安というかたちであとをひいており―自分としては2月末の失業(もともと契約が切れるのはわかっていたが好きになった仕事だったので、予期していたより喪失感が大きかった)もあって増幅されたのだろうと思う―身体ということでいえば、それ以前と同じように音楽が聴けない、ダンスしてても何か違和感がある、ということがあった。もっと言うと、もしこれから何か作品をつくるのならば、その「いま強く感じている何か」を見ないと、自分のなかで収束させないとできない、ということもあった。

行ってみて、何よりよかったのは現地を自分で見て、聞いて、体験できたこと。限られた時間であり範囲の体験であるにせよ、現地の現実を見たことでこの災害について自分のなかのファンタジー(余計な妄想)が削がれ、なんとなく一段落ついたような気がする。

確かに未曾有の天災の痕跡はまだまだ残っており、支援もこれからももっともっと必要だけれども、「被災地」でも全体がダウンしちゃったのではなく、地域では現実的かつ切実な問題を見すえてこつこつ対処しておられたり、地元の人々が駆けつけて手を貸していたり―中央政府の混沌っぷりはわけわからないが、地元の方々は現実的に力をふりしぼって支えあっている印象。「がんばろう」だの「日本はひとつ」だの言わなくても普通に地道に相当にがんばっておられる―、あるいはすっかり破壊されたように見える場所でも後ろの山は緑が濃くてきれいで自然は変わらず生き生きとしていたり…といったポジティブでたのもしい「強さ」「生命力」もまたある、と知ることができたのが自分としては安心でき、また落ち着くことでした。

先に「精神的ダメージが心配」と書いたけれども、同行した社協スタッフの方によると地元(遠野市)としては、仮設への移転が進むこれからは「生活支援」によりフォーカスするとのことで、つまり個々に合わせた対応、横のつながりを生かした「集会所」づくりといったことに重点を置いていくそうです。さすが。

2日目作業の帰り際に、大船渡市の社協職員の方がわざわざ挨拶に来られて「みなさんが期待しておられたような活動はできなかったかもしれませんが、みなさんの作業は復興の役に確実にたっています」とのお言葉を頂く。こちらこそご期待にかなうような労働力ではなかったでしょうに恐縮です。

私は自分こそボランティアには”the last person”(もっとも~しそうにない人)だと思っていたし、帰ってきても「やっぱり向いてねー」と思うけれども…まぁ単純にマンパワーにはなったか。確実にまだまだ人手は求められています。
6月7日(火)~10(金)まで、居住する市の市民社会福祉協議会(以下「社協」)の災害支援ボランティアグループに参加して岩手に行ってきました。その報告です。
(下記はあくまで自分の限られた体験のなかで見たり聞いたりしたことであり、個人的な推測や感想が含まれていることにご留意ください)

一行は14名〔ボランティア12(男性8女性4)+社協スタッフ2(女性)〕、3泊4日で初日と最終日はバスの移動(東京‐岩手)にあて、活動日は2日間。宿泊(遠野市の地区公民館)とバスは社協の手配、参加費は実質ボランティア保険代(1400円)のみ。ボラ初心者には参加しやすいプログラムと思う。

活動は岩手県大船渡市で行います。何をするか、はその日に大船渡市のボランティアセンター(以下「VC」)に行ってみないとわからない。で、一同フル装備して出発します。「フル装備」とは帽子(ヘルメット、バンダナなど頭を防御するもの)、防塵マスク、ゴーグル(メガネなど埃よけになるもの)、長袖作業着、長ズボン、作業用ゴム手、安全長靴(踏み抜き防止の中敷きも)等。

防塵マスクだのゴーグルだの…といったマニアックな装備はどこで調達するのか⇒ホームセンター、東急ハンズなど。サイズがなくて一番困った「靴」は新宿の作業服屋さん、萬年屋で買いました。私が行ったときは被災地ボラに行く人には「プレゼント」つき、店員さんから「気をつけていってらっしゃいませ」と高級ホテルのコンシェルジュのごとくお見送りされる。

初日は3名で避難所の炊き出しお手伝いに参加。既に地元のボランティアグループがここを拠点に活動していて、他の市内市外の避難所にも調理したおかずの配膳を毎日、行っているそう。年齢さまざまなメンバーの方々がきびきび、かつ明るく和気あいあいと働いておられ、「炊き出し」というよりプロのケータリング屋さんみたいだった。

しかし大量の調理はやはり大変。デキル働き者たちのなかに放り込まれたひょっこ3名(特に私)、大量のじゃがいも、大量の玉ねぎ、大量のれんこんの皮をピーラーで剥きまくり(料理人が待ち構えているわけで、流れ作業に新人はあたふたする)、できあがったこれまた大量のおかずを紙コップに仕分けたり配膳したりといった作業を行った。

この避難所はまだ新しく、モダンなデザインでもともとはコンサート等のホールである建物。配膳のときに、初めて避難所で被災者の方が泊まっておられるエリアに入ったのですが…「こういう場所に人を長くとどめておいてはいけない」というのが最初に受けた強烈な印象だった。

いくら新しくきれいでも、固いフロア、薄暗い照明、こもった空気(窓が開かない。建物の性質上、どうしても「密閉」指向の空間になる)…いたし方ないこととはいえ、この住環境ではまず心身にいいはずない。どんな人でも気力体力が萎えてしまう、と正直言って思った。

当初はここに400名ほどの被災者がおられたそうですが、今は半数を切っているそう。とどまっている方たちもみな7月下旬をめどに仮設住宅等へ移転の予定とのこと。

笑顔の方もおられたけれど、私はむしろ人々からかいま見える倦怠や気力の衰え、すさんだ風情のほうが気になったし、心配になった。今は「プライバシーのない状態」で、良くも悪くも人目があるけれども、仮設に移って独居となると…気力が失われた人に自立を強いるのは難しい…自分がすぐに気力無くす人であるせいか、そう思う。物質的には間違いなく復興の方向に向かうだろうが、精神的な荒廃はくいとめないと、これからがもっとデリケートなケアが必要な時期なのかもしれない。

今回のボランティアでほんの少しの時間でも「避難所」を体験し、被災者の方々に接することができたのは自分にとって大きいことだった。国としての復興、地域の復興と、個人としての復興はまた別。ひとくちに「被災者」と言っても打ちのめされ方、失われ方、起き上がり方はさまざま。詰まるところは個人の問題、個人としての資源の持ち方に収束するのだろうか、と思うと愕然とする。などといろいろ考える。

被災地でかいま見た(ほんとにちょっとだけ、それも主観によるものだけど)人々の精神的なダメージの大きさの衝撃は、個人的には津波による物質的なダメージを上回るほどだが、それでもliving hellはここだけにあることでなく東京でもどこでも起きていることで、誰にも言えず、共有してもらえず、はためにわからないまま、国どころか家族すら支援しない、ボランティアなんかすっとんでこない種類のひとりで抱える苦しみはある、という前からの思いは変わらない。

このボランティアグループの話に戻るけれども、ミーティングの際に「食物を扱うというのは、人の命を預かっているのと同じこと」という話をされていたのが印象的だった(手洗い、マスク・ゴム手着用など衛生管理は本当にしっかりしている)。忙しい現場だけれども声をかけてくださったり、厨房でみなさんと一緒にお昼を振舞って頂いたりとお気遣いを受ける。

ここは本当にしっかりと運営されている印象で、中核スタッフはやはり東北の方なのだろうか。いろんな時間に常駐メンバーが入ってくる。でもみなさん地元でも「無傷」ではなく被災していたり、ご家族が被災しておられたり…プロ並の意識と献身には頭が下がるし、地元の人々の横のつながりとたくましさを知る。

(続く)

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