人形劇のスタジオ公演を観に行く。「人形劇」といってもオブジェクト、明かり、音楽を自在に使い、演者も全身を見せるのでフィジカル・パフォーマンスと思って観ている。こちらのチームは「イメージ」を見事に舞台に載せるので、毎回楽しみ。

こじんまりした、つくり手側の一生懸命さとか誠実さが伝わる空間。こういうのいいなぁ。私もお客さんのすぐ近く、ちっちゃな場所でやってみたい。1500円で飲み物とお菓子つき、ていうのもいいと思う。おやつを食べながら。

思ったより長尺(1時間半くらい?)だったけど、飽きない。次は何?と展開する手づくりの「かたちをとらない、かたち」「かたちになるまえの、かたち」に惹きつけられる。

●わかりやすくし過ぎない。「よくわかんないけど、面白い」
…つまりイメージで構成する。私はなかなかこれが貫けない。

●ミニマムな要素でイマジナティブ(想像力を喚起する;刺激する)
…すごく大事。あそびを残す、ということ。ただしイメージの強度は要ると思う。

●歪んだ;いびつな

●なまなましい要素;生の

無意味なものってうつくしい。胸をうつ。音の使い方もすごくうまくて最高だった。ダンスの公演でも音に感心するのって失礼ながらなかなかないので…全体としてとにかく「センスがいい」。足し過ぎなものが多い、と感じられるなかすばらしいです。私はやっぱりこういう、「その人ならでは」のもの、打算なくつくったパーソナルな創造物が好き。いい時間だった。
演劇を観に行く。テキストが多い…。当たり前だけど。で「説明している」。言葉も説明しているし美術も説明しているし音楽も説明しているし衣装も…。なので冗長が生じる。芝居慣れしてないのでそもそも劇の見方がわかってないのかもしれないが、なんだか「情報が多過ぎる」と思う。

なんらかの必然性があって過剰なのは嫌いじゃないけど、概して削ぎ落とされたもののほうが好きなので、要素が多いのは苦手。

テーマ(のひとつ)が3月の震災。物語として言葉で語るのはまだ早いんじゃないかなぁ、と個人的には思う。「今という過程の記録」をつけるのも意義あることなのかもしれないけれども。

6月に岩手に行ったとき、泥かき作業をした場所にあった木のとんでもなく高いところに洗濯ネットに入った下着がひっかかっていた光景が異様で、よく覚えている。その場所にあったてんでばらばらな「品物(の一部)」と同じく、津波が運んできたものだった。

甚大な被害を受けた地域で見た津波の爪跡は唐突で荒々しく、「言葉が通じない」という印象を私は受けた。人が「暴力的である」というのとは決定的に違う。論理も情も受けつけない、ただのっぺりした「事実」が残るだけ…

言葉にする、というのは「かたちをあたえる」ということであり、大きさを定めてしまうと、時にはダウンサイズされるということでもあり…。時機をみないと難しいな、とおもう。

それはさておき、大型ゴミを出したり45リットルのゴミ袋を運んだり何年前のものだかわからない缶詰(コワイ)を開けて捨てたり家のあちこちにだぶついてあるトイレ用だの台所用洗剤の中味を空けて捨てる…というような引越し作業のなかで、もちろん自分のものも捨てている。

見直してみて大して愛着のない本や服などを処分し、同じように写真や紙も捨てた。自分が思い返したくない過去の記憶は持っていなくてもいいし、思い出は必ずしもモノというかたちで残さなくてもいい。と捨てまくりながら気づいた。

Edit.

よく言うように「起きたことは変えられないけれど、過去に対する見方は変えることができる」。これは自分の過去の物語を「編集」する作業と言えるかもしれない、というのも芝居を見ていて思ったことだった。
「人形演劇祭」の演目。ヒト:黒谷都 ピアノ:原田依幸 モノ:松沢香代

はなはだしく服薬して行ったためにまともなレビューはできないかと。幻想的だった。ピアノとはどうなのか…即興の音楽と合わせるのは試みとして面白いけど、どのジャンルにおいてもハードル高いように思う。音楽は音楽の道を行ってしまうからな…。

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存外にだめだめな私。
実はいま、人形劇がアツイ!前回の「人形演劇祭」(@せんがわ劇場)が面白かったので今年も行くことにしました。

ヂバドロ・アノ、チケット完売だそう。昨年の「モアレ」(黒谷都+北井あけみ)が私にはすごく刺激的かつ示唆に富む作品で、とても好きだったので今回も期待。

よくわかんないけど素敵なタイトル(笑)。赤い首なしドレス登場だったり、時計に骨(いい組合せ)だったり…縦横自在に泳ぐイマジネーション!ルパージュ(“ブルードラゴン”)より低予算だと思うけど(失礼)、空間の変わりようったら負けてないと思う。思いがけないシーンや構図になっていて飽きない。

完成されたパッケージになってない(と感じられる)ところが私はすごくいいと思う。観客も創造力を働かすことができて楽しい。

全編に手ざわりというか、ハンドメイドな感じがあるのがいいし、観ていてわくわくするのは「なまなましさ」を感じられることだ。

ダンスは身体をさらしていても時にしらじらとする、というかつるんとしたものになってしまったりすることがある。「ムッシュー・ダリン~」はベースに生っぽいものがあって、それが時おり垣間見えるところがどきっとするし、舞台でおきていることにひきつけられる由縁ではないだろうか。

やっぱり人間のすることの魅力って「生(なま)」であることなんじゃないかな。しかし、「なまなましさ」の見せ方って難しいような…「なまなましく」見せようとするのも違うと思うし (以前、あるダンサーが舞台でグレープフルーツにかぶりついておられたが、ちょっと違うような気がする)。とはいえ、私もその地平を忘れず、かくありたいです。

面白かった。観ていて笑顔になってしまった。
演出:クリストフ・マルターラー(スイス)、舞台美術:アンナ・フィーブロック(ドイツ)。F/Tもの。

使用楽曲:バッハ、ベートーヴェン、シューマン、マーラー、ビージーズなど。

「音楽劇」なので上記のような曲を演奏して(キーボード持ち出したりトランペット吹いたり)歌ったりしながらの上演ですが、荘厳に力いっぱいやるのでなく全体にどこかやるせないところが妙味でしょうか。「ミュージカル」ではなく、ちゃらーんと派手なダンスもなし(女性たちが「なよ~ん」と片脚上げたりしてたけど、別にアラベスクでもないし…)。

しかし、実は前半でかなりの部分、寝てしまった…。ストーリー、全然わかってません。男についてのグチとか節約の話とかしてた気がする。字幕はつらいわ、やっぱり。

何かの待合室みたいなところに並べられた重厚なアンティーク風の家具が素敵。「水と油」好み、てな感じですが踊りながら動かしたり、上を飛び越えたりということもなし(私が眠りこけてる間にやってなければ)。

舞台美術は雰囲気あるが、この劇場では丈が高過ぎるような気もする。もっとこじんまりした空間(より密室感のある場所)のほうが映えるのでは。(ガレージみたいなところに人々が何かとこもるのがおかしい。ぎゅうぎゅうになりながらステインアライブで踊ってたり)

最後のほうで延々と「やる気のないファッションショー」みたいなのを出演者全員がかわるがわる出てきて見せる。これがすごく面白かった。それぞれのやる気なさげな、はずした感じは真似したい、と観てました。自分の席は1階で悪くはなかったけど、衣装とか役者さんの表情がもっとわかるくらいの距離感だったらよかったと思う。
今月はF/T参加作品をいくつか観ます。日本語字幕つき。

場面の転換がとにかく鮮やか。客席から見ると舞台が8つのキューブ(上段4、下段4)に区切られていて、2階建ての室内になったり、空港になったり、駅になったり、バーになったり、画廊になったり、都市(上海)遠景になったり…上手に使って見事に切り換える。照明や映像の使い方もうまく、視点の異なるシーンが次々となめらかに移り変わるので映画を観ているかのようだった。きれいに「雪」が降ってたな。

ストーリー(中国に移住した行き詰まり中のカナダ人中年アーティストの男性と、元恋人のキャリアウーマン、現恋人の中国人新進アーティストの3者関係)は心えぐられるほど深くない。こういう小説があっても買っては読まないだろうな、て感じ。エンディングは面白いけど。少し入るダンスも新味はない。観る価値大のパフォーマンスではあるのですが、自分としては切実なコンテンツを求めるきもちの今日この頃で、ここまでつくりこんであるだけにもったいないなー、ともおもいました。

劇場の売店でラヴぃなクリスマス・デコレーションがあったので買う。職場用。
音楽・作・構成・演出:小野寺修二+coba

cobaチームの音楽と小野寺チームのダンスによるコラボ・ライブ。机や椅子、タイプライターといった小道具を使った、あるいはコンタクトインプロを多用したテンポのよいダンスは演劇のようでもある。といえば氏の作品を観たことがある方は想像がつくかと思います(モノを使わずCIでもないやつは、PVの振付みたい、と思ったり)。日頃コンテンポラリー・ダンスになじみのない方にも大いに楽しめる舞台になっていたのではないでしょうか。(印象では、cobaファンと思われる年齢層上の人が多い客層。ふつうダンスの舞台に「アンコール」求めたりしないものね)

で、私も楽しいは楽しかったのだが、なんとなく「これってコンテンツというよりスタイルだなあ」と思ってしまいました。企画の性質によるのかもしれないけど、実を申せばcobaの音楽はsomewhat好きじゃない。そもそもな話ですいません。

ダンサー陣はとてもよかったと思う。身体が利いて、魅力的な人ばかり。ダンサーって足の裏をていねいに使う、とコマいところに感心。知り合いの男子2名が出演していたのですが、存在感があった。パフォーマーとして凄く成長していて「プロフェッショナル」なたたずまいだったのに感動した(私ごときが言うのも恐縮です)。個性が立っていたし、生かされていたと思う。
ake_miya(北井あけみ+黒谷都)@せんがわ劇場。

日曜の「銀河」もそうだったが、今日も完売御礼。失礼ながら「人形劇」というジャンルで、しかも都心の劇場でもないのにすばらしいことである。

イメージが意味にならないところがいいと思った。舞台にのってるすべてのものが、意味に近づき過ぎないこと(個人的にとても重要)。ストーリーを形成しそうで、しない。それがいい。言葉によらない表現をしているのだから。それでいいのだと思う。

人であったり、人形であったり、化物であったり、首なしドレスであったり。変てこな造形って好きさ。絵本のような、骨董店のような。ちょっと怖くて、惹かれる。不気味なもの(uncanny)て、いいな。絶対。

おもちゃの犬とか、指つかい人形のくまとか最高。OHPと照明の使い方も面白かった(演者がいないのに、この2つだけで見せる。「おおっ」と思った。OHPなんてローテクだけどとてもいいじゃないですか)。

音楽も、(自分じゃああいうヨーロピアンなの使えないけど)違和感なくよかったし(特に「コチラヘ…コチラヘ…」っていう音、あれ何?すごく好き。こういうのつくってもらうのかしら)、行き届いてる。演者の動きもきれいだと思った。

モアレ!すべてにおいて良かったよ(ダンスだとなんかしらそぐわない要素がままあったりもするのに)。すごくいいものを観た。この人たちのつくるものはまた観たい。今度はもっと小さいところで観てみたいかも。こういうのに出会えると、胸のあたりがすっきりする。目が覚めた。

北井あけみHP http://web.me.com/ake_miya/ake_miya/
人形劇+ダンス(舞踏かな)+芝居、みたいな。演出家(黒谷都)のユニット(「楽園」)を以前に観たときは、オブジェ(<人形)と人間(演じ手)との割合が同じか、人がオブジェに埋もれそうな勢いなのが面白かった。今回は舞台も広くて人数も多いせいか、思っていたより人が目立つ。そうなると身体が目立って、もうちょっと動きがこなれるといいのになーとも思ったり。モノを扱いながら身体も使うというのは、身体だけ使う(のも難しいけど)よりも相当に訓練もいるのでしょう。でも出演者の若手たちは、ういういしく個性的な人ばかりで好ましい。最後のほうでジョバンニとカンパネルラを走らせるシーンが美しかった。舞台をつくりながら劇を進める、みたいな面白さ。ちょっと寝ちゃったところもあるけど(はは)、ダンスにはない刺激も受け、「人形演劇祭」の別の演目も後日、観に行くことに。
主演・演出:野村萬斎 原作:W・シェークスピア「リチャード三世」

「翻訳はしたけど、ローカライズしてない」みたいな違和感が続く。「これって日本人のメンタリティーだろうか?」とか「シェークスピア劇の舞台を日本に置き換えるとこうなるのか?」という疑問が前半は離れず。が、後半、舞台の十字架を見て思いきる。ここに「日本」を求めるのは違うんだろう。

「みども…」とか言ってるけど、日本じゃない。ここは日本と西洋のどこか中間にある国、と思うことにしたらおさまりがついた。きっとどこかあいだにある異界なのだ…衣装コシノジュンコだし(このセンス、私は苦手。ワダエミとかのほうがよかったんですが)。

悪三郎(萬斎)とその影、という設定は原作にあったんだっけ? 前半でとどめを刺すのが影のほうだったのに対し、後半では自ら手をくだしている。ふむ。最後のほうで二者が寄っていたので「乖離した自我が戻ってきたから」とか性懲りもなくアルター・エゴ説にとりつかれていたら、じゃなくて馬に乗ってたんですね(笑)。主人が死ぬとともに事切れるのかと思ったら、帳尻を合わせずにしばらくして暗がりに消えていったのがかえって印象的だった。

終盤近く、背景に明るい白の照明があたるところ(専門用語がわからない)、それまでこもり気味だった舞台が開けてはっとする。きれいな場面。初演より特に後半、戦いのあたりがすっきりしてぐっと観やすくなったと思う。面白かったです。会社帰りにエンタメがあると嬉しく楽しいね。まだ月曜。
作:サラ・ケイン、演出:飴屋法水。作者ケインはうつ(以降、ウ)を病み、99年に自殺。

言うことなすこと、近くにくる。すごく近くにくる。どいつもこいつも「ある!ある!」と、にやにやしてしまう(こんなこと思い当たらないほうがまっとうなのかもしれんが)。柔らかい声で話す人も、がなり立てる人も、silenceの人も、みな親しい。いとおしい。

みんなあっちを見てる。誰も止めない。救いはない。だからいいの。サラ・ケインは救いのこなさかげんをよく知ってる。リアルだ。

「この悪夢から目覚めたくない」。このつらい夢を見続けていたい。

「待合室で30分も待ったのよ」。待合室で38分も待ったのよ。待合室で87分も待ったのよ。待合室で116分も待ったのよ。

みんなじっとあっちを見てる。もう足がへりにかかっている。誰も止めない。止める人はいない。見届けるだけ。

しにたいということ、しんでしまうということのそのまま。さようなら。

サラ・ケイン、あなたは知的で優しい人。この作品を残してくれたことを恵みに思う。これはこの先へ続く一歩になるべき。飴屋法水はむちゃくちゃセンスいい。音と光の使い方がものすごくうまいと思う。この世界にホーミーはまったくふさわしい。

ヒリヒリとした体験になるのかと思っていたら、私にとってはきわめてウ的な宇宙で不思議に安らぐ時間だった。私は私のために泣きました。終わって呆然としている。ほんとうに美しい作品だった。

*************

ここからは追記(内容の詳細に触れています)。

月曜日にエキストラ出演した舞台がこれでした。その演出に「ひょっとしたらこれは」と感じるところあり、観に行くことにしたんでした。ひょっとしたら、の大ヒットだった、私には。

この作品は、通常とは逆に、観客席で役者が演じ、「血の池」をはさんで、観客は舞台上の席から見ることになっている。最後の最後、それまで「舞台」だった客席に、エキストラ扮する「観客」がこれから始まる劇を見に来たかのように入場し、役者がそこここに座っている座席のあいだに、あたかも自分の席を探すようにして着席、幕というのがその演出。エキストラは席につくと、正面(ほんとうの「観客」が座っている舞台)を見ることになっている。

最後の瞬間に「見る/見られる」が逆転するというこのオチは、冴えてると思った。「精神を病む」というか「病んでいると宣告される」とはまさしくこういうことなのではないか。

自分が正しいと思って信じていた世界を、医者に会って真っ向から否定される。それは間違っている、あなたは病んでいるのだと。足場がガラガラと崩れ落ちるようなショック。天と地がひっくり返り、自分はマイノリティであると知る。

自分にとっての「宣告」は、そういう体験だったので、この演出は最後に観客に「ウ体験」させるようなものではないかと思った。病む者の側に、外から他者(エキストラ)が入ってきて味方につく。観客は見る側(主)から見られる側(従)へ。観客(世界)に対する意趣返しみたいなものじゃないかとエキストラ側からは思ったのね。

でも今日、観客として観たとき、むしろこれは病む人たちに対する「祝福」なんじゃないかと思った。ウ者たちを世界に再び迎え入れる祝福。そんな気がしている。

照明と、特に音(セリフも含めて)の使い方は本当に見事。視覚的・聴覚的に完璧。舞台で音についてこんなにノイズがないのって珍しい。ホーミーの歌い手、山川冬樹は狂言回し的な役柄だと思ったが、ラスト、血の池にゆっくり沈んでいくところ、まさしくこういう絵を見せてほしかった。しびれました。幻想的でうっとり。この方は冒頭でも天上から逆さに吊る下がってたり、美しかったです。

私はこういう(サイコな)領域を扱う作品にはウルサイ。当たりがほんとに少ないと思う。解釈だの、分析だの入れたり、それからすぐ情に流れたりしやすい。as it isであるのはなかなかないと思う。

でもこの作品は、ちゃんと内側から描いてる。伝達しづらいもの(ウ)を、こんなふうに目に見えるものにしたっていうことにやられました。こういう手があるんだなと。ほんとに。

かなりマニアックです。とはいえ、かなりわかりやすく、またリアルな感覚に近くウのプロファイルを舞台に載せていると私は思います。田口ランディが書いているように、「狂気」でなくウの世界。

飴屋氏は特に思い入れなく作業されたそうだが、余計な手は入れず、見せるところは見せて、おそろしくカンがいいと思う。なんか自助グループのミーティングの舞台芸術化(笑)とも思っちゃったよ。すごく刺激になった。演劇でこれほどそばに来たのは初めて。(11月23日)

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