「カポーティ」

2006年11月1日 映画
こういう映画だったとは。陰鬱なエネルギー、稀にみる重たさにじわじわやられている。(以下、ねたばれ有り枡)

処女作「遠い声 遠い部屋」や、映画化もされた小説「ティファニーで朝食を」などで時代の寵児と名を馳せた作家、トルーマン・カポーティ。それまでの幻想的な作品群とはがらりと作風を変えて書き上げたノンフィクション・ノベル「冷血」は、発表されるや絶賛された。カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー賞の主演男優賞をとったこともあり、私はさぞかし作家が一種、ヒーロー的に描かれているのだろうと思っていたのだが、むしろその逆だった。

「冷血」を書くため、カンザス州の田舎町で一家4人を惨殺した犯人2人のうちのひとり(ペリー)と面談を重ねるうち、カポーティは負の方向に吸いこまれていくように見える。執筆が進めば進むほど、カポーティは殺人を犯した男に食われてゆく。

ニーチェの「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」(「善悪の彼岸」;引用はWikiquoteより)という言葉を思い出す。これは確か「羊たちの沈黙」や宮部みゆきの何かでも冒頭に掲げられていたように思う。

カポーティは感性にも文才にも恵まれていたから、ペリーとシンクロすることができたのだろう。しかし、殺人を犯し、死刑宣告を受けた男は素直に自身をあけ渡すわけではない。ペリーはカポーティにしがみつく。ケモノ的な鋭さで、作家と対峙する。

重なる控訴と死刑延期に、本を完成させることができず焦燥するカポーティ。ノイローゼになるくらいなら現実を待たずとも、自らフィクションとしての結末をつければいいではないか、おかしい…と思い、はっとした。自分と似通っているがゆえに、作品の恵みを与えてもくれるが、圧倒的に力のある殺人犯ペリーという「現実」に、虚構をつくる作家が屈している。これほど才能のある作家がそうなのだ。

いよいよ死刑執行を迎え、絞首台で「なにか言い残したいことはないか」と問われ、ペリーは「なんて言ったらいいのかわからないけど、言いたいことがある」(…といったようなニュアンスの言葉)と口にする。それはかつてカポーティが取材中に、ペリーの日記のなかで見つけ、心動かされ、取材協力してくれていたネルに電話で伝えていた「スピーチ」用の言葉だった。自身の最期を、計算通り締めくくろうかとしているかのようだ。呆然として処刑の場に立ちつくすカポーティ。作家を非難することなく、悟ったようにして世を去るペリーと、生きて名声を受けるのに、魂を吸いとられたかのようなカポーティが対照的だ。

舌足らずのような独特のしゃべり方が特徴的なカポーティは「内にこもった」感じがする。社交的なのに、外とつながりを妙に欠いている。死刑囚たちの前でなんどか涙を流すのだが、その涙は男たちのためでも、自分のためでもないようで、行き場がない。P.S.ホフマンはそんな屈折した人物をうまく演じたものだと思う(しかも盛り下がる役なのに)。

カポーティは「冷血」のあと作品を完成させることはなかったそうだ。確実に重たいが、響く。才能について、表現について、思わぬ方向から考えさせられ、いろいろ考える…。

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一緒に映画を観た友人とは同じような重たさでわかってしまい、楽しくもあり、「ひきとめるものがもうあんまりないよ」なんて話までしたのでちょっとウツ。
525,600 minutes
How do you measure a year in the life?
(from "Seasons of Love")

トニー賞など数々の受賞歴があるブロードウェイ・ミュージカル「RENT」の映画化。舞台版の脚本・作詞・作曲を手がけたジョナサン・ラーソンは96年の初演を見ることなく35才の若さで亡くなっている。

この「RENT/レント」は正統派の“ロック・ミュージカル”(80年代なので「ラップ」なんてない)。
ラーソン自身ミュージカルの名作「ヘアー」が念頭にあったと言うとおり、同じ血を感じる。カフェで"La Vie Boheme"を歌い踊るシーンは、「ヘアー」でヒッピーがお屋敷のテーブル上で歌う"I Got Life"をほうふつとさせる。こういう水瓶座/ボヘミアンな感じはどうしても好きだな。

60年代の「ヘアー」で敵対するものがベトナム戦争であったり、階級であったりするのに対し、80年代の「RENT/レント」で悩みや痛みをもたらすのはエイズ、ドラッグ、同性愛などであり、闘わねばならないものは外ではなく内にある。ミュージカルとはいえ、エネルギーをまっすぐとばしづらい葛藤みたいなものがこの「RENT/レント」にはあって、その複雑骨折みたいなくじけ方もまたしごく80年代ぽい感じがする。
「ヘアー」を親として、それでも80年代は「RENT/レント」を生み出すことができたが、90年代はどうなんだろう?

冒頭に歌われる「シーズンズ・オブ・ラブ」は、3分にも満たないが力のある名曲だと思う。思っていたよりダンス・シーンがなかったけれど、はっきりした答を得られにくい時代を素直に描いたいい映画だったと思う。泣いちゃったし。
映画の予告CMで引き合いに出されていた「ウエスト・サイド・ストーリー」は、(あれはあれで名作だが)「RENT/レント」と並べるのはなんか違うのでは。あらゆる意味でコンサバな人には特にお薦めしません。

愛を知るから死が怖いのか、愛を知り得ないのなら緩慢な生よ止まれ。
昼間はつぶれていました。夕方、友人と↑を観に行く。こちらは、ひなびたような味わいのある人形アニメ中心。人形の造形はなかなか素敵だが、物語の発想がよくわかんないところもある。小さな魚に餌をもりもりあげていたら成長してクジラになるか?「りんごのお姫様」「動物が好きな男」よかった。後半ちょと寝ちゃった。
土曜のレッスンは通って6〜7年目くらいかと思う。その先生に「私、ちっとは力が抜けてきてるでしょうか?」と訊いてみた。ここのところ、ほんと進歩ない気がしたので。そしたら「変わってきてますよ。前ほど腕とかひじとか注意されなくなったでしょ。今は前みたいな“ドラえもん”の腕してないもん」とのこと。ドラえもんだったっけか。少なくとも今は人間らしくなったのね。

友人に誘われ、夜はチェコアニメを観に行く。それぞれ、あたたかかったり、ひねった味わいの短編9本。かなり日本人の感覚と違うように思われ、オチがよくわかんないようなのもあった。牛ほどの大きさの蚊を、馬に乗ったヒーローが銃やナイフでやっつける、という話があるんだけど、かの国には「蚊取り線香」みたいなものはないのだろうか? かわいい絵の「郵便屋さんの話」は昔、小学生の頃お気に入りだった本で読んだような気がする。 郵便屋さんの小人たちが、手紙をカードにしてトランプ遊びをして、手紙の内容があたたかいものが勝つ、というところで思い出したんだけど…。

検索したらそれらしいのが出てきた↑。「長い長いお医者さんの話」(チャペック作/岩波少年文庫)。当時はハードカバーのものを図書館で借りて読んでいたと思う。この本、大好きだったな。挿画もしゃれた感じだった。

友人とその後、おしゃれな韓国料理カフェで食事。今日は国際色豊か〜。彼女は感受性のアンテナが人並はずれて発達しているというか、ある種のヒーリング能力を授かってしまった人で、それにまつわるディープな話をいろいろ聴く。お話自体も不思議だけど、この私がそういうお話を聴くめぐり合わせになっているのもなんか不思議。ムーブメントのクラスで必死過ぎてまじめに転んだ話を彼女にしたら、「どうりであざがあると思った」と私の腕を見て言う。いえこれは、ヒーターの前で爆睡して低温やけどした跡なのです。

「マンダレイ」

2006年3月24日 映画
私の大好き監督、ラース・フォン・トリアーによる「アメリカ三部作」第2弾「マンダレイ」を観て参りました。どこが好きかというと、果てしなく暗かったり重かったりするのですが、そのしつこさのなかに主義主張があり、筋が通っているので、ひっくり返って爽快にすら感じられるところです(私だけ?)。

てなわけで期待十分で行ったのに、「寝ちゃだめ」と思っていたのに、途中寝てしまいました(全8章のうち3〜6章あたり寝たらしい)。しょしょしょっく。以下の感想はこのような状況において書かれるものです。ねたばれもします。

「マンダレイ」は「ドッグヴィル」(2003)の続編にあたる。主要キャストのヒロイン・グレースとその父役(ニコール・キッドマン/ジェームズ・カーン)は降板、ブライス・ダラス・ハワード(「ヴィレッジ」)とウィレム・デフォーに交替。個人的には、ここはやはり替えてほしくなかったなと思う。デフォーはベテランだけど、前作のJ・カーンとあまりに個性が違うし、カーンがグレースのパパ(実はギャングの首領)にぴったりだったので残念だ。

「ドッグヴィル」のグレース役、ニコール・キッドマンとブライスではそもそも格が違う。ニコールは必ずしも好きな女優ではないけれど、グレースという役柄の理想主義、無垢、といったところを体現していたし、それに加えてエンジェリック(angelic)というか人並みはずれた純粋さをかもし出していたので、ラストのカタルシスが効いたのだと思う。ブライスは…悪いけど「ものを知らない普通の娘」な感じがするだけ。余談ですが彼女の映画デビュー作 「ヴィレッジ」(M・ナイト・シャマラン監督)そのものも、「見かけ倒し」で「エイドリアン・ブロディやホアキン・フェニックスをこんなのに使うな」と個人的には憤りを感じたものです。

「マンダレイ」も「理想主義・正義の意識のもと、起こしたグレースの行動が、次第にまわりの人間とのあいだにきしみが生じ、思いがけない結末に至る」という構図自体は「ドッグヴィル」と同じ。なので、ヒロイン役はリセットする必要もあったのかもしれない、とも思うけれど。

前作「ドッグヴィル」は「よかれと思って献身的に尽くしたグレースの行動が、次第に村人たちのネガティブな心理を刺激し、限界まで虐げられたグレースが『こんなのやってられるか!えーい』とちゃぶ台をひっくり返してすがすがしく終わる…といったお話。しかし、その大逆転の結末に至るまでがとにかく重い、暗い。セットは極限にミニマルで舞台装置のよう、そうしたところは今回の「マンダレイ」でも同様です。

「マンダレイ」は(起きてた限りでまとめると)「ドッグヴィルを出た一行が着いたところはいまだ(設定は1933年)に奴隷制度が残るその名も『マンダレイ』という大農園。グレースは黒人の青年がまさにむち打たれようとする光景にショックを受け、ひとり農園に残って黒人たちを解放し、苦労しつつもかれらに自由や民主主義の貴さを教える。しかし最後の最後にかれらが『民主主義』に基づいて出した結論は、かれら自身の意志で奴隷制をとり戻し、グレースをその女主人に据える、というものだった。さらに追い打ちをかけるように、ある青年がかけた一言に激高したグレースは、いちどは自分が解放したその青年を思わずむち打つ」というもの。呆然としながらひとりグレースは転がるようにマンダレイを離れるところで終わる。前作のようなカタルシスはないものの、より痛烈な皮肉に思えるエンディング。

エンドタイトルに流れる曲は何かな、と楽しみにしていたら、前作と同じだった(デヴィッド・ボウイ「ヤング・アメリカン」)。ここは貫くんですね。好きな曲だからいいけど。変えてもよかったと思うけど、この映画にしてこの選曲は確かに強烈で、これに匹敵する曲はないかも…。

もう1度観に行きたいですが、わりかしとても空いていたので、いつまで上映してくれるものか…。つうかこの映画の存在自体知られてないのでは?、とまで思っていたわりには入っていたのですが(上の階の「クラッシュ」は混んでるぽかった)。三部作の最後は「WASINGTON」になるそう。ヒロイン未定。
作業をしに出社の予定がナシになって一日空いた。なので今ごろですが↑を観た。今ごろでも前売り券がまだ買えてラッキー。(以下、ねたばれ有り枡)

「社会派の問題作など観て下手に考え込んだりしたくない」と思い、ハリポタにしてみましたが…面白かったけれど、すかっと楽しい、というのとは違う。現実に負けず劣らず魔法界も大変、ということがわかりました。

魔法学校の寵児ハリー・ポッターには毎回スペシャルな試練が用意されている。本編では「三大魔法学校対抗試合」(魔法学校ってホグワーツだけじゃないんですね)の出場選手に選ばれ、命がけの課題をこなし、最終関門を突破したハリーを待っていたのは「最大の試練」である宿敵ヴォルデモートとの対決だった…というもの。シリーズ最大の苦難でしょう。ハリー君まことにお疲れさまです。

ダークな要素に対して、ユーモアが足りない気がしたり、またストーリー進行の必然かもしれないが大団円が「めでたしめでたし」でもないところも、私としては暗く感じられた原因かもしれません。かれらのティーンエイジャーらしいエピソードも、もちっと小気味良くあったらよかったかも。思春期もまた大変。

ストーリー、映像ともに「てんこ盛り」で2時間半を越える上映時間でも飽きずに見せるし、家でちんまり観るよりも映画館の大スクリーンに映える力作ですが、あえて苦言を。ついに現れた悪の権化ヴォルデモートの造形があんまし怖くない。最後の決闘シーン、いちばんの見せ場である筈なのに、ちゃちくないか(なんかまんがちっく)。あと、新任の先生が実は…というのもマンネリ気味に思う。

主演の三人は大きくなったなー。当たり前だけど。ハリー役ダニエル・ラドクリフは、初めの2作くらいまでは大きなスクリーンをひとりで背負うには無理っぽくもあったが、今は貫禄十分ですね。やっぱりかわいいし。友人ロン役のルパート・グリントもいい感じの青年になった。ハーマイオニー役の美少女エマ・ワトソンは、個人的には早くキーラ・ナイトレイ(美人だけどなんとなく好きになれない)あたりを超える女優さんになってほしいです。

大作ならではの、えんえんと続くエンドクレジットを観ていた。結構多国籍スタッフなんでしょうか。日本人らしき人の名前も何人かありました。「本作の製作にあたっては、いかなる動物もひどい扱いを受けてはおりません」という定番の断り書きのところで、「動物(animal)」のところが「ドラゴン(dragon)」になっていたのがトリビアルにおもしろかった…。
↑をBunkamura ル・シネマで観た。80年代初頭 友人のアンドリュー・リッジリーと組んだポップ・デュオ、ワム!は英国のみならず全世界でチャートを席捲、その後ソロ活動に移ってからもポップ・ミュージックのトップスターであり続ける、ジョージ・マイケルのドキュメンタリー。

ミリオンセラーの歌い手というだけでなく、いわゆる「波乱万丈」な彼の人生については聞きかじった程度にしか知らなかった。所属レコード会社とは契約をめぐって訴訟問題になり、結果的にジョージ・マイケルはアメリカで「干される」ことになったという。ライブ会場で「電撃的な出会い」をした恋人アンセルモは、エイズにかかり、4年の闘病を経て亡くなった。当時、ジョージ・マイケルはゲイであることをまだ公にしておらず、最愛の“男”が死に至る可能性のある病にかかっているという苦悩を打ち明けられるわけもなかった。

以前、フレディ・マーキュリーの追悼ライブで、ジョージ・マイケルが"Somebody to love"を歌っているのを観て、「これはすごい」と思ったが、その会場に恋人アンセルモも来ていたのだそうだ。「あのステージにこめたものはフレディへの敬意とアンセルモのための祈り」というジョージ・マイケルも、このライブは自身のベスト・ステージに入ると語っている。

恋人の死に続き、母とも死別することになり、長いあいだ曲を書くことができなかったそうだ。後に対テロ戦争を進めるブッシュ政権に反対して政治的姿勢をとるようになるのだが、ジョージ・マイケル自身はそれを「自分がとても不安定だった、(愛する人たちの死というトラウマティックな体験を乗り越えることができず)病んでいたためにとった行動」だと言っている。

上記の事柄や、90年代後半に起きた有名な「事件」(公衆トイレで猥雑行為を行っているところを現行犯逮捕され、これを機にゲイであることを公表。本作ではエルトン・ジョンに「トイレで逮捕はカミング・アウトとして最低」とか言われちってる…)など、表立った出来事によって与えられたイメージはスキャンダラスなものだったが、このドキュメンタリーの本人によるあまりにも「素直な告白」から伝わってくるジョージ・マイケルはとてもナイーブに感じられた。本当に繊細な人なんですね。

本人のみならず、A・リッジリー、ボーイ・ジョージらのインタビューのあいだに、歌うシーンが挿入されているが、なんだかんだ言っても、この人ほど圧倒的なヴォーカリストはいないのではないだろうか。どこから声が出ているんだろうと思わせるような力強さ・豊かさと、細やかな表現力を併せ持った声。この人のあれこれのお騒がせを思いながらこの声を聴いていると、天才的な才能というのはポジネガ両方の面で凄い勢いでひっぱる化け物的なものなのではないかとも考える。

ワム!の日本公演には、行ったような記憶がある。確か武道館をおそろしく満杯にしたんではなかったっけ(自分も天井桟敷で手すりにはりつくようにして観ていたような)。しかしワム!のビデオって今観ると目をそむけたくなるくらい恥ずかしい。その恥ずかしさは実に「80年代」しているので、余談だが芋づる式に自らの恥ずかしい80年代の歴史が掘り起こされたりもした。

別にフアンではなかったのですが、本作を観てジョージ・マイケルへの好感度が思いきりアップした。落ちたことのある人の話というのはおもしろいですね。何度かうるうるしてしまった。感動的なことのひとつは、彼の友人たちも言うように現在のジョージ・マイケルが「自然体」で「幸福」であるということ。その幸福は、彼を支える恋人ケニーの存在が大きい。落ちまくった果てに幸福をつかむ中年ジョージ・マイケル(ごめん)の姿が、われわれに与える感動は大きい!ちなみに私、この人と同い年、1963年生まれです。

映画が来たから、ではそろそろ日本公演?と思ったが、本人はツアーどころかおうちを出たがらないそうだ…。なんてこった!帰りに最新(2004)のアルバム「ペイシェンス」(画像)を買った。これも素晴らしい。毀誉褒貶あれどもこれほど傑出した存在はそうはいない。ジョージ・マイケル、お幸せに。その道でガンバレ。

「シン・シティ」

2005年10月12日 映画
鳴り物入りで宣伝されて(いるように思われる)割にはヒットしているんでしょうか?とっとと終わってしまうと悲しいので、会社の帰りに↑を地元の映画館で観た。上映時間ぎりぎりになり、商店街を走る。

ロバート・ロドリゲス(「デスペラード」「スパイ・キッズ」)&フランク・ミラーの共同監督、さらに“特別ゲスト監督”クエンティン・タランティーノというくどい顔ぶれがつくりました。原作者ミラーによるダークなアメリカン・コミックの世界をモノクロ、プラス部分的な着色が印象的な映像で再現している。

この映画の感想をあちこちで読んでいたら、ある人がブログに「なぜこんな(暴力的な)映画をつくるのか理解できません(怒)」と書いていた。確かにとことん暴力的なストーリーではあるが、「バイオレンス・ファンタジー」といった趣なので、それほどえぐさはない(と思う)。のだけれど趣味に合わないとつらいかもしれません。

現実離れしたバイオレンス(「娼婦たちが銃をもって撃ちまくる」とか)なので、スタイリッシュな世界に入りこめるとあれこれ考えずに楽しめる。私は面白がったくち。もう少し短くまとまるともっとよかったです。

舞台がコミックであるせいか、ベニチオ・デル・トロ、ブルース・ウィリスなどアクの強い人が映える。私はクライブ・オーウェン目当てで、濃ゆい二枚目の彼は「クローサー」や「キング・アーサー」よりもよかったと思う。ジョシュ・ハートネットは薄いし、イライジャ・ウッドも出ていたんだけど、ほとんど顔が映らないので悪いけど別にこの人でなくてもよかったのでは(セリフないし)。

女性も、ゴージャスなお身体の「いかした女(“スケ”)」ばかりでかっこいい。ジェシカ・アルバと、ひとり「キル・ビル」みたいな“殺人兵器ミホ”役のデヴォン青木が特によかったです。

バイオレンス満載の「シン・シティ」、なんとなくスタッフ、キャストとも「楽しんでつくっている」という感じがする。生暖かく見守りたい映画であります。

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今朝みた変な夢。私は昔の知り合いらしい人(リアルで知らない人)とお見合いすることになっている。まだ釣書を渡しただけなのに、「よろしい」ということになり、まるでアルバイトを決めるかのように「では明後日、結婚ということで」と先方から言い渡される。その相手の関係者はその筋の人らしく、「そんないきなり非常識な…」と思いながら、こわくて誰も反対できない。私は「ということは、あの人と“やる”ということか」と薄ぼんやり思う、というもの。私ったら。
←原作はこれ(ロアルド・ダール作「チョコレート工場の秘密」)。こちらのタイトルが記憶にあるので、映画のタイトルがなかなかインプットされない…(とほほ)。小学校の図書室で借りて読んだような読んでないような気もするが、こういう話だっけ?

板チョコに入った“金のチケット”を引き当てた5人の子どもがウィリー・ウォンカのチョコレート工場に招待される。極秘の項嬢を見学できるとあって、世界中から羨望のまなざしを受けるかれら。いよいよ当日、おかっぱ頭に青白い顔、不思議な雰囲気の「社長」ウォンカ氏の案内によって工場のツアーに出発するのだが…というお話。

この工場内の造形が目が覚めるような天然色の世界。ツアーはティム・バートン版アミューズメント・パークといった感じ(なのでミルクではなくブラック風味)。ジョニー・デップは若々しいなあ、そして上手い。神経症ちっくで風変わりなウィリー・ウォンカ、この人以外に考えられません。チャーリー役のフレディー・ハイモアはじめ、子役も親役もみなぴったし。

でもでも、なんと言っても目玉はダニー・エルフマンの音楽と大活躍の「ウンパ・ルンパ」だ! ダニー・エルフマンは脱力系カルト・ムービー「フォービデン・ゾーン」の監督リチャード・エルフマンの弟。かつて「オインゴ・ボインゴ」(というバンド)で活躍、映画音楽を手がけるようになった今は「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」「シカゴ」「スパイダーマン」など引く手あまた。「フォービデン〜」のときにも思ったけど、なんというかポップやロックの基本をのみこんだうえでのセンスなりユニークさなので安心して聴ける感じがする。この「チョコレート工場」でもロック(クイーン風)あり、ファンクあり、シニカルな歌詞に“トッド・ラングレン風”(とパンフにあり)の美メロあり、で楽しい(ちなみに音楽だけでなく、過去の名画のパロディもある)。かなりサントラが欲しい気持ちになっていますが、自分のじみぃな生活のなかでいったいいつ聴けばいいのでしょう。

この音楽に、ウンパ・ルンパ(南の国ルンパランドからやってきた工場で働く小さい人々)の踊りがつくのでもっと楽しい。ウンパ・ルンパたちは歌や踊りが大好きなんだそうだ。決め決めでない、中途はんぱ〜なかれらのダンスが最高。妙にうまくないのは作戦でしょうか、すばらしいです。ジョニデばかり評判になっていますが、ウンパ・ルンパを演じたのはディープ・ロイという人。すごい存在感。夢に出てきそう。

私は大いに楽しんだけど、小学生の姪に勧めるかどうかは微妙なところだ。ちょっと長いしくせがありますし。ところで丸ピカ(丸の内ピカデリー)がいつのまにか全席指定になっていたのと、西武・阪急から食品売場がなくなっていたのを知らなかったのでうろたえた。映画館の近くで食糧を調達できず、あわてました。
スカパーで「ヘアー」(同名ミュージカルの映画化)を観る。公開当時、映画館で観たがそのとき高校生だっけか。 サントラのLPを買い、歌詞カードを見ながら聴いていたので今でもわりと覚えていて歌える。歌といい踊りといい、メッセージといい、妙に血が騒ぐ映画。冒頭の「アクエリアス」、セントラルパークの集会から幻想的な「エレクトリック・ブルース〜ハレ・クリシュナ」、ラストの「レット・ザ・サンシャイン・イン」まで、個性的で惹きつけられる曲ばかり。この時代に若者だったら、ヒッピー(フラワー・チルドレンというの?)になっていたかも。みずがめ座ですし。
↑を恵比寿ガーデンシネマで観た。昼過ぎに夕方の回の整理番号をとっておいたのだが、開演直前に戻ってみると、その回は売り切れ。シンプルな「ペンギン」の映画を観に多くの人が集まっている、ということにちょっと感動。子どもづれ家族だけでなく、老若男女あまねくお客さんを呼んでいる。大物の予感…。

南極でコウテイペンギンのオスとメスが出会ってつがいになり、ヒナが生まれ巣立つまでの物語…なのだが、「めでたしめでたし」となるまでに、体重を5分の1まで減らして産卵したのち、餌をとりにいったメスがアザラシに襲われ命を落としたり、3ヶ月間何も食べずに抱卵するオスがブリザードに倒れたり、孵ったヒナがオオフルマカモメに捕食されたり、その過程には常に危険が伴う。

ただでさえ厳しい土地なのに、「種の存続」(産卵し、ヒナを育てる)のためにさらなるリスクを負うなんてすごい…と人間の私は思ってしまったのだが、「なぜここまでして生む」なんてそもそもペンギンは考えない(たぶん)。「生む」ということを、生命とは直接、関係ないさまざまな理由で遠ざけたりもする人間って動物のなかでなんて異質…と思う(それ以前に私はつがいですらないのだっけ)。

身の危険を冒したからといって、親は育てたヒナになにも要求しない。巣立つ時期がくれば別れるだけ。これまた感心するが、ペンギンは「捨て身のわたしって素晴らしい」なんて考えない(たぶん)。人間ってややこしいのか、幻想が多すぎるのか。

深海のブルー、氷山の白、朝焼けのばら色、そして白黒にオレンジ〜イエローの挿し色が美しいコウテイペンギンはまさに目の保養。愛らしいコウテイペンギンのヒナがふんだんに見られるのもこの映画ならではです。「命がけで生み、育てる」という事実、それに映像美だけで、多くを喚起すると感じるだけに、音楽(ややうるさい)と、擬人化したナレーションが惜しい。大物にはよけいな説明いらないでしょう。

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映画の前に、友人が「しば茶の会」で実家に寄ってくれる。しばこは思いっきり遊んでもらって、でれでれしていた。幸せ者(犬)よ。
「ペン様」とは、あの韓流スター「4様」の弟分…ではなく、はるばる南極から単身来日し、映画「皇帝ペンギン」の宣伝という重要な任務を果たすべくけなげにがんばっておられるペンギン大使のことです。

ペンギンフェチの私としては映画はぜひ見にいかねばなりません。あさって観に行く予定ですが、大ヒット中らしいので気合を入れて席をとらねば。ペン様、このごろはプロモーション活動にお出にならないのでしょうか。生ペン様に会いたい…。

「皇帝ペンギン」公式サイト 
http://www.gaga.ne.jp/emperor-penguin/

「ペンギン大使ペン様 来日日記」(かわいいんだ、これが)
http://welcome-penpen.ameblo.jp/
遅まきながら↑を地元の映画館で観た。クリント・イーストウッド(アカデミー賞監督賞)、ヒラリー・スワンク(同主演女優賞)、モーガン・フリーマン(同助演男優賞)と揃えばはずれるはずがなく、質の高い、また品のある映画だと思います(以下、ねたばれまたは内容のほのめかしがあります)。

しかし…うーん、なんと言ってよいものか。生きることより、尊厳を尊重したと言うにしても…やり切れない、この愛は悲しすぎる。実の親子ではないトレイナーと、貧困から這いあがった女性ボクサーのあいだの、血のつながりよりも濃い絆ゆえの行為なのだろうが、観ているこちらとしては感情のいきばがない。あるブログに「心中に近い」と書いておられた方がいたが、うがった捉え方だと思う。

私はフィクションは現実を越えるものであってほしい、またフィクションなりの強さをもっていてほしいと思っているので、「倫理的にまずいから生かしておけ」というのではないが、こういう結末ならこの作品の文脈においてもっと納得させてほしい、と思う。ツメが甘いというか「情に流されている」と感じてしまった(ああー、言っちゃったよ…全世界が涙した感動作に)。

トレーニングを始めたばかりでまだ隙だらけだったのが、次々と相手を倒しプロとして頭角を現わすようになり、そして衝撃のタイトル戦のあと…と演じ分けたヒラリー・スワンクはすごい。見とれた。

映画の前に部屋の内見にいく。広くて環境もいいんだけど、笑えるくらい駅から遠い…orz(バスもなし)。映画から帰ってちょっと寝て、書くべきものをいろいろ書く。んでまた寝る。
起きて一番に見たのが、アパートの向かいの部屋(A棟、B棟とあるから)に住む女性が引越ししていく光景。いい部屋が見つかったのかな、いいなー。だんだん人が減っていくと寂しい。なんかいきなりウツ。

午前中たらたらして午後から部屋を見るが、図面を見て思っていた通りぴんと来るものがなかった。雨の日の内見は盛りあがらない。悪くはないんだろうけど、新しいところに移るのに何かしらでも浮き立つ感じがあるといいのにない。こんなで見つかるのだろうか…とかなり不安になる。

その後、渋谷に出てセールを見に行くが狙っていたものは値下げされていなかった。「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観ようと思っていたが、渋谷にとどまるにも、感動作を受けとめるにも気力が足りない気がして地元へ帰る。

まったりしようと見逃していた「コーヒー&シガレッツ」を地元で観た。監督はジム・ジャームッシュ、タイトル通り珈琲と煙草をモチーフに、またそれが似合った好ましいやさぐれ加減の役者やミュージシャンが出演したオムニバス。

「ルネ・フレンチがめちゃくちゃいい女!」とか「ビル・マレーが出ると画面がひきしまるのはさすが」とか「ケイト・ブランシェットのいとこを演じたはすっぱな女は一体誰?と思っていたら本人の二役だったので驚いた」など切れ切れの感想はある。がっ、実は「すれ違いの妙」を生かしたこの作品のうち、どこかの「すれ違い」のあいだ寝てしまったらしく「ディエゴ(アルフレッド・モリーナ;「フリーダ」でフリーダ・カーロの夫で天才画家のディエゴ・リベラを演じた)がなんかいっぱいしゃべってる!」と思ったものの脱落…。まったりし過ぎた。すいませんです。今日はいかなる映画にもついていける体調ではなかったようです。ああーでも最後の「ルイ・ルイ」(イギー・ポップ)はよかった。
友人のお誘いで↑(藤原智子監督)を岩波ホールで観た。もう公開も終わりに近い(8日まで)のだが、場内はかなりの入り。

このドキュメンタリー映画は、女性としてはただ一人、日本国憲法草案の作成に関わって「男女平等」の文言を入れることに尽力したベアテ・シロタ・ゴードンを描くことに始まる。ベアテは「リストの再来」と言われたピアニストの父、レオ・シロタ(現在の東京芸大でも指導)の娘として生まれ、少女時代まで日本で過ごした。大学生活をアメリカで送ったのち、ベアテは日本に残った両親と再会するためGHQ民生局の一員として来日、憲法草案委員会のメンバーとなる。

ベアテは「男女平等」の項目を多く含めることを提案したが、「日本の文化に合わない」として反対され、一部(第14条「法の下の平等」、第24条「両性の平等の原則」)を除いて削除された。映画の後半はベアテがまいた「男女平等」の種を日本の土壌に根づかせるべく努力し活躍した、市川房枝、石原一子ら何人かの日本人女性に焦点をあてている。

ベアテさんは81才。映画でも一部紹介されるが、講演会を開き各地の聴衆に感銘を与えているとのこと。ベアテさんは歴史に残る仕事をされたと同時に、私にはとてもかわいらしい、魅力的な女性に感じられたので、もっと(題名通りに)彼女を紹介する部分を多くしてほしかったなと思う。しかし「男女平等は日本の文化とそぐわない」と当時は猛反対されたそうだが、まだそれほど長い年月がたっていないのに、今の日本でそぐわないどころかエネルギーがあるのは男と女のどっちなのさ?と思います(男性不信、入っているかしら)。

その後、労働や参政権などに男女平等を勝ち取るため精力的に活動された、そうそうたる顔ぶれの「先輩たち」が登場しますが、そのエネルギーと成果を素直に「すごい」と思う一方で、正直に言えば隔たりも感じる。女子大で女性学を吹きこまれながらも、きれいどころのクラスメートたちを見ながら「女子はかわいく、愛想よく、要領よい」ほうが手っ取り早く幸せになれるのではないだろうか…?と思った学生時代の体験が、ごく卑近な例として思い出される。

まあ今となってはもちろんちゃらちゃらしてるだけで何かを得られるとは思わないけれど、映画に出てくるような女性たちとは例えば結婚をめぐる状況も今ではかなり変わっているので、「正しい行いをする、よい娘さん」というだけでは女性としての幸せ市場に参入しにくく、いったい何をどうすりゃいいんだか、という世の中になっているように未だシングルの私としては感じられるので、「フェミニズム、すばらしー」とは結びつきにくいのでした。

このあたりは私だけのバイアスもあるだろうが、実はあなどれない「女性間の隔たり」という問題ではなかろうかと思います。余談だけれど私たちの前に座った妙齢とおぼしき女性たちは、映画を観ながら感想を言い合ったり、同意を示していたり、拍手したり、あまりにも感動を表わしていた。ここにも隔たりが…。

それはともかく、登場した女性のなかでは緒方貞子さんがさっそうとしてかっこよく、私だったら「イズム」という大きなものより、魅力的な個人に学ぶほうがとっつきやすいなと思ったのであります。

「クローサー」

2005年6月24日 映画
遅ればせながらマイク・ニコルズ監督の↑を観た(以下ねたばれります)。

ダン(作家;ジュード・ロウ)×アリス(ストリッパー;ナタリー・ポートマン)と、アンナ(フォトグラファー;ジュリア・ロバーツ)×ラリー(医師;クライブ・オーウェン)がもつれてからまって入れ替わってそして…という「恋愛模様」を描いたものですが…この人たちは一体どうすれば満足するというのか。端的に言いますと「男の幻想(プライド)対決」、もっとはっきり「なんじゃこら?」と言いたくなるような映画。わくわくするようなラブストーリーではなく、この人たちの別れたりくっついたりの分からなさ加減に私は頭がくらくらしました。

「愛している」という言葉が頻発されるものの、男ふたりは自分の狭っこい定義から相手がずれたると、愛が冷めてしまうらしいのです。100%自分のものになる女じゃないと、嫌になってしまう。んだったらゲームでもやってろ!!ぼけっ。離婚を求めるアンナにラリーは最後に寝ることを条件として届にサインをしますが、それを知った恋人のダンがアンナに対して「愛は汚れた」と言い放つのにはのけぞりました…(こういう言葉を使うところに「売れない作家」のリアリティがあるのか?)。粘着度においてはダンもラリーもどっこいですが、年とってる分ラリーのほうがずるがしこく、まんまとアンナを取り戻します。

ジュリア・ロバーツ演じるアンナは成功した写真家。美貌も地位も手にした「自立した女性」のはずですが、恋愛においては歯切れが悪く、ただ流されているように見える。アリスが魅力的なだけに生彩に欠けます。友人とあとで話した「推測」ですが、もともとは「執着されるのが好きで、嫌と言えない」性格(元彼に暴力を振るわれたというセリフがある)の、あぶない役だったのに、ジュリア・ロバーツだけにかっこよさげに書き直されたのかも。

4人のうちでもっとも光っているのはストリッパーのアリスで、いちばん年下ながらいちばん賢く、自分のことが分かっていて、自由でいられるように見える。アンナと別れて自分のもとに戻ったダンが言う「愛」の嘘くささに気づき、自ら離れます。ナタリー・ポートマンは、「レオン」の美少女がまっすぐ成長したようなみずみずしい若さと美しさを見せていて、ジュリア・ロバーツに他の持ち駒があればよかったけれど損な役だったのではないだろうか(というか別の女優さんがやってもよかったと思う)。

この映画、アメリカでは「インテリおしゃれ層」に受けたそうですが、私にはよさがあんまり…(クライブ・オーウェンは好きなのに私ったら酷評)。セリフは直接的なのに心に迫るところがないのは、その言葉を向ける相手を見ていないからではないだろうか。必然が感じられるような関係になっていないと、いくら「愛」を語っていようと、つまらない。

すごーく久しぶりに会えた友人と行った映画だが、彼女は打ちこむ対象を見つけたそうだ。楽しそうでよかったよかった。その役者さんが出ているDVDを(頼んでないのに)貸してくれたけどお笑いセンスのない私についていけるんでしょうか(「スープカレー」のあの人)。
午後はまた部屋をふたつ見たが、うちひとつは図面では和室のはずが行ってみたらフローリングになっていた。図面の期待度が高かったので脱力。私は畳が好きなのだ。しかもへりが緑色のやつ。細かくてごめん。まあ今日は仏滅なので、決まらなくてよかったかもね。
友人と待ち合わせ食事したのち、レイトショーで「スーパーサイズ・ミー」を観た。夕食はカレー(インドカレー+レーズン、ナッツ入りナン)だったが、この映画のテーマは「ファーストフード」である。モーガン・スパーロックの製作、監督。全米批評家協会の2004年度ドキュメンタリー映画トップ5に選ばれた作品。(以下、ねたばれあり枡)

目玉はスパーロックが「被験者」となり、一日三食ファーストフード(Mクドナルド)のみにして1ヶ月続けたらいったいどうなるか?という人体実験を行ったことにある。実験の掟は「Mクドナルド店内に存在するものしかオーダーしてはならない」「“スーパーサイズ”(超特大サイズ)を勧められたら断らない」「すべてのメニューを必ず1度は食べる」「朝昼夜の三食をすべて残さず食べなくてはならない」というもの。

この「実験」を中心に、ファーストフードや肥満をめぐるエピソードで進行するわけですが、2日目くらいでこちらはもう見るだけですでにギブ。肉(らしきもの)ばっかり…向こうのキッズは「フライドポテトは野菜だもん」とか言ってるよ。げげ。1ヶ月の結果はまあ予想通りだけど、「気分が滅入る。でも食べればハッピー」とか「食べてすぐまた食べたくなる」とか言うようになるのがコワイ。何を材料に使ってるんでしょうか。

肥満をめぐって「ファーストフードは身体に悪い」というのがこの映画のもっとも主となるメッセージだろうが、「運動不足」「太っていると肩身が狭い」「肥満は身体に悪い」などちょっと実験以外の部分でテーマがぼやけて切れ味が悪いように思う。私としてはファーストフードの何がそんなにaddictive(嗜癖<依存>性がある)なのか知りたいところだ。やはり比べてしまうが、マイケル・ムーアは癖があるけど知恵者だなー。「スーパーサイズ…」はアグレッシブなことしているようで、言ってることはわりとふつうにまっとうなのだ。

Mクドナルドの「スーパーサイズ」は現在のメニューにはない(廃止が決定されたとき、映画との関連はない、とのコメントも発表された)。同社はむちゃくちゃ健康を意識した「ゴー・アクティブ」キャンペーンを実施中…なんだそうです。
都庁でパスポート受けとって、それから銀座に行ってホテル勤務の友人のところにちょっと寄る。単なる「通行人」に等しい私にも、超一流ホテルの方々はプロフェッショナルらしくにっこりしてくれた。えへ。

シネスイッチ(金曜はレディースデー)で「愛の神、エロス」を観た。「カンヌ映画祭を制した3人の名匠」による愛のトリロジー、だそうです。しかし3人のうちふたりが苦手なので観る前から予想はしていたものの、「うーん、やっぱり…」という感じ。W.カーウァイ→詰めが甘い S.ソダーバーグ→考え過ぎ、てな印象。一方、老練ミケランジェロ・アントニオーニはトスカーナの美しい自然を舞台に見ごたえのあるボディの女優さんを使ってなかなかよかった。でもあんまりしゃべらせなくていいのに…(僭越ながら)セリフがかたっくるしいよ、と思ったのでした。アントニオーニは以前にも「愛のめぐりあい」という愛をテーマにしたオムニバスものをつくっていて、私はこれも結構好きだった。

お話は「いまふたつ」だったものの、意外なひろいものは、タイトルバックに使われている愛らしい絵画(ロレンツォ・マットッティ)と、カエターノ・ヴェローゾの歌。カエターノの曲は「トーク・トゥ・ハー」にも使われています。家でも聴きたくなったので、映画館で(↑CAETANO LOVERS)を買って帰りました。画像がないんですけど…くすん。

犬やら猫やら

2005年5月13日 映画
クリニック運あり。今日はほとんど待ち時間がなかった。昨日の話をすると、先生は「それはあなたの感じたことが正しいかもしれない」と言う。

話していたら、いろいろ整理されることがありました。満たされる(だろう)ことと満たされない(だろう)ことのバランスが、親との関係におけるそれと似ているのだった。話したらちょっとすっきりした。まあいいや。いろんな犬男君に会ってみればいいわけですし。

地元の駅ビルでセールにつき190円のキャミソールを買う。先日は古本屋でピーターラビットの絵本第4集&第5集(各3冊セット)をそれぞれ500円で買ったし、わが街ワンダフル!

夜、スカパーで「好きと言えなくて」(The Truth about Cats and Dogs)を観た。昔、映画館でも観てわりと好きな映画。ラジオでDr.アビー(ジャニーン・ガラファロ)の名で「ペット相談」を担当する女性が、ひょんなことから知り合ったリスナーの男性を好きになるが、彼女はルックスに自信がなくて友人の美女(ユマ・サーマン)を“アビー”だと彼に紹介してしまうことから始まるラブコメ。

舞台となっている街やアビーが住むアパートも素敵、ちょっと知的なユーモアもあって小粒ながら好ましいお話。相手役の男性(ビル・チャプリン)もナイスガイだ。今「クローサー」の“予告編”でさかんに流れているスザンヌ・ヴェガの「キャラメル」は、この映画の“本編”で使われています。
吉祥寺バウスシアターのレイトショーにて↑を観た(監督リチャード・エルフマン、音楽ダニー・エルフマン<オインゴ・ボインゴ>)。

ヘラクレス一家が越してきた一軒家の地下に禁断のドアがあり、そこを抜けた向こうの世界は小人の王様ファウストと王妃ドリスが支配する罪と快楽の王国だった…というお話を独特のセンスでミュージカル仕立てにした映画。(以下ねたばれあり枡)

どう「独特」なのかと言いますと、ナンセンスで支離滅裂、よくこういうこと考えるよなーという感性。これも「ロッキー・ホラー・ショウ」の子どもかもしれませんが、これに比べるとRHSはかなり王道に見えます。しかし誘ってくれた友人(仕事が美術関係)が「アホな仕掛けにとてつもなく金と手間をかけている!」と言っていたように、だるいおばか世界の構築に実は並々ならぬ熱意をかけて生真面目に打ちこんでたんじゃないのー、などと思ったりします。こういうセンスにつきあえる役者さんも限られるだろうしなあ…。踊りが中途半端だったり、フィナーレの場面では主役の王様が画面に収まってなかったりするのも、芸が妙に細かいっ。

センスはあれですが、ミュージカルとしてはしっかりした骨格を感じさせ、特に音楽はふつうにいい!と思います(オインゴ・ボインゴって80年代のLAパンクのバンドじゃなかったっけ…?)。変な登場人物のなかでも「私は魔女の卵から生まれた女♪」と熱唱し怪演する女王役の人が迫力だったっす。まあ、怪演する人ばっかりなんだけど。現実である地上(こちらも地下に負けず劣らずキテレツなのが笑える。地下のほうが分かりやすいくらいだ)から地下に降りるルートがやけに入り組んでいるのでひょっとして…と思ったらやっぱり地上に戻ることはなく禁断の王国の繁栄を称えて終わり、なんでした。

好き嫌いは分かれるでしょうが、今まで見たことないようなものを体験したい人はぜひどうぞ。私はけっこう楽しめました。夢には出てきてほしくないけど。

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