大晦日

2012年12月31日コメント (2)
とてもしょうもない。自身に何も無さ過ぎる。愕然とするばかり。この底から、ここから這い上がることはできるのだろうか。

かえりみる

2012年12月23日 ダンスもの
公演で、舞踏家の身体を見ながら自分の身体について考えていた。動きたくなるのだろうか、動くためのエネルギーが出てくるのだろうか。
去年(今まで?)求めていたものと、いま求めているものが違う。その対応に困っている。

思うこと

2012年12月14日
私はあらゆる方角でひとりだから、自分にとっての意味(意義)を求める。いいと思えることが欲しい。切実に必要としてる。安心していい、と思いたい。思えるようになりたい。

「暮しの手帖」讃

2012年12月13日 読書
小さい頃、家によく「暮しの手帖」があった。懐かしくて、図書館で連載ものを借りて読んでいる。

この「エプロンメモ」は衣食住のアイディア集。というといまどきの雑誌にもありそうだけど、文章が安手でない。スタイルというか、品がある。「すてきなあなたに」も同趣向だけど、こちらはもうちょっと長めの記事を収めていて、海外の一場面を伝える便りや珍しい食べ物・料理の話なんて子ども心に「ハイカラだ~」と憧れたものでした。
「料理って、そういうものだと思います。

床に新聞紙をしいて絹さやの筋を取っていたり、カレーを作ろうと大量の玉ねぎの皮をむいていたり、にんじんの皮をできるだけ薄くむこうとしていたり。明日のために豆を水に浸けていたり、だめになる前に、きゅうりを漬物にしようとしていたり。

それをしている自分のことを想像してみて、もしも嫌いだなと思ったら、そういう時はべつに料理なんかすることはありません。」

「高山なおみの料理」(メディアファクトリー)128ページより。

積み上げ

2012年12月10日 ダンスもの
どうするか?考えることじゃないような気がする。“なるようになる”

胸は高く

2012年12月8日 ダンスもの
胸が上に上がると、高層ビルから夜景を臨んでいるような気持ちになる。
えいっと思いきって久しぶりにブトー稽古へ。即興しながら「わたしが踊る場所はどこなんだろう」とおもったり。おうちがない、ていうのと似てるな。みにくいアヒルの子みたい。冬の旅。

職場に

2012年12月6日
キャリアウーマン’(きゃりあうーまんだっしゅ)来て、話す。

寝る前の雑感

2012年12月5日
私が相変わらずなき家と庭を悼んでいることを父にぐちりと言われそうになる。私だって好きでそうしてるわけじゃない。庭のあの平べったい石が…とか今でも思い出して悲しがるのは、家族のなかで私がそういう役割なのだ。他の人にはできない。

全体にくすぶっているのは、いま自分がやっていることに意味や意義をとんと感じられないから。いまだかつてないくらいの、すかすか加減。一年前、もう少し前に戻りたいなんて後ろ向きながら年末に突っ込もうとしてる。
わかるにはまだきっと修行が足らないが、ちょっとは愛でられたかもしれない。
月曜のレッスンも今月でクローズしてしまうそうだ(ただし別スタジオではある)。今日も休講、先週はとうとう1度も身体動かしてないし、思いついて某有名スタジオへ行ってみる。「この人ならいいかも」と思ったのだが、振りをとにかくやるばっかりで自分としては楽しくなかった。でもいわゆるダンスのレッスンってこれに近いか、こういうものなのかもしれない。

私自身が「振りを踊る」ことそのものに昔ほど楽しさを感じなくなってるから、どうしたらいいかな。ただやみくもに踊るんじゃなくて、それ以上に身体のつくりかた・使いかたを教えてほしいと思っている。

いろんなことが変わるんだな。変わっていく、だけど「変えなきゃいけない」じゃないような気がする。流れを見て、自分に合うものを落ち着いて選んでいけばいいのではないだろうか。無理に変える、ことではないような気がします。
舞踏界の2大巨頭がコラボした。これは行かねば。会場は立ち見も出る超満員。

音楽ハデだなー、と思ったら第九の1~4楽章を通して使っているのだとか。鋳体の方々ががしがし踊っているのが面白かったり、オイリュトミーの人々がやっぱり天上人のように美しかったり。「事件」ともいえるイベントだけど笑いもおきて、アフタートーク含め案外に肩肘はらずに楽しめる公演でした。

そうか2

2012年11月30日
「うつ=自己処罰」

なんだって。医師より。そうなんだ。ふつうにやってたよ私。「自己処罰=自己を律する」いいことだと思ってた。それって自然に反する、ていうことだよね…。

私は自分にとって「ダンス(で評価される)=赦される」というふうになぜか見てしまうのだけれど、なんとなく合点がいく。身体はまさしく自然だから。

自然、コントロールしない(できない)⇔抑える、罰する、大目に見ない…「自己を罰する」というのは自分の傾向に符合する大きなキーワード、だと思う。

なんでジコを罰してしまうのかな。自分が情けないから?何に対して、誰がジャッジするというのだろう。

*私の問題は自分にうまくfeedできないこと。食べたいものを食べるのでなくて、餌をやる、刑務所の食事みたいになってしまう。

日常の、自分がやってる「自己処罰」に気づくこと。

そうか

2012年11月29日
仕事先でしょんぼりすることが。うーん…。あるエッセイを読んでいたら「いきなりの変化は無理だ!」と、その人の体験とともに書いてあって、ひょっとして今年ずっと肌の調子が悪かったり身体の変化があるのはなくなった家のこととも関係あるのかな、と思った。

人生イロイロ

2012年11月27日
久しぶりに部屋をとって自主練するものの動けず。ごめんよ部屋さん。夕方、古巣の事務所へ。

夫も恋人も友人もいない、仕事は不安定でわたしゃスーパールーザーだよ、と言うといろんな話をしてくれた。私もここ数年のしょぼい辛酸をダイジェストでお届けする。この年齢にもなって親に怒りぶちまけてる自分が情けなくてやだよ、とも言うと、やはり親との関係で葛藤する40代50代は少なくないのだとか。そんな人、まわりにいないから自分ひとりかと思ってた。心の底がほっとする話。

結婚・出産イコール幸せマーカーでもないのかもしれない、と聞いてると思う。世の中はけっこう病んでいる。そしてそれはけっこう隠蔽されている。日本ももっと海千山千になればいいのに(精神的に)。また、暴力は被害者になるより目撃者でいるほうがきついのだと。被害者はキズを見せて証明することができるが、目撃者はそれができない。

やっぱり長居してしまい、頼まれた作業のほかにリンゴやお菓子など頂く。この「作業」は8割がた今日は断るつもりで来たのだったが(来月、ダウナーのかたまりになりそうだから)、思っていたほどの負担ではなさそう(少なくとも今のところは)でお持ち帰る。

本人は服用注意

2012年11月25日 読書
親本に抜けていた「重症期」の2年2ヶ月分を補った文庫版。その書き下ろし部分を読むと、かなり辛い時期があったのですね、ということがわかる。著者が冒頭に「精神状態がおもわしくない方にはあまりお勧めしません」と異例の断り書きをつけていますが、私も同意。

著者が人気作家という特殊な立場にあること、またかなり恵まれた環境(献身的なパートナー、理解ある家族、仕事仲間など)におかれていることを考えると問題の当事者はなんらかの「刺激」は受けるだろうが、参考にはしづらいのでは。

「うつ病」と著者は書いているが…うつ症状はあるにしても、記述からいわゆる「うつ病」じゃないんじゃないだろうか、とも思う。それから、いちばんしっくりしないのが、意識的にかそうでないのか(「小説家」なのであえてここには書かないのかも)、発病の直接間接の原因についてほとんど書かれていないこと。本人でもわからないことはあると思うが、ここをさらす姿勢があればまた違う「闘病記」になったのではないかと思う。

むしろ問題をもつ本人より、まわりの家族・友人といった立場にいる人のほうが参考にはなるかもしれない。自分に合った治療機関を探すことの難しさ、病状の説明をしてくれないことなど、単に「医者に行く」だけでも勇気がいることではありますが、その先がまだまだ大変であるリアルについて書かれているから。かくいう私は年末に向けてさらにお薬を盛ってもらおうと医者に頼む所存。
イスラエル・ダンス・ウィークな週末。同国の2大ダンス・カンパニーを続けて観ることに。

冒頭のゆる~い漫談(「僕のゾウがどっかに行っちゃった」とか、あれは何だったんだ?)で期待が高まったところで、アメリカのカンパニー(ピロボラス)とのコラボレーションから生まれた「ラッシュ」。

色を抑えた美術、輪に置かれた椅子にはどこか奇妙な人々に奇妙なムーブメント。コミカルでもしっかり身体を使った動きに見とれてしまう。ダンサーたちは何客もの椅子を巧みに素早く動かしては、次々に舞台の表情を変えていく。アニメーション(ペーター・スラツカ)が映し出されたりの趣向もあり、楽しい!かと思うと、女性ダンサーを肩にかついだ男性が歩む道を次々につくっていく終盤の場面には、「旅の終わり」「終着点」を思わせまた違うトーンを見せた。

休憩をはさんで「ボンビックス モリ」。タイトルは蚕(カイコ)のことだそう。全編に蚕が吐き出す“糸”がモチーフとして多用されている。糸でぐるぐる巻きにされ標本のように留められたり、糸で操られるたり、糸を操ったり、糸の格子に閉じ込められ、もがいたり…。また音の糸=弦楽曲もイメージを重ねて強くする。

さらに連想される繭、幼虫、変身のイメージ。だぶついた皮のような衣装を脱がされて、ダンサーの素足があらわになる、短いシーンだが人の身体って生き生きとしてきれいと思った。

ここがこうでああでこうなって、だからこうしてこうなって…とすっきりわかる、というのではないけれど、私はこういう“何だかよくわからないけど強いイメージや物語の断片”をお持ち帰りできる創作物が大好き。

わかりやすくはないかもしれないけれども…私はこういう作品こそ学校で子どもに、若い人に観てほしいと思った(あまりこういうこといつも考えないけど。学校でダンスやらされてるような子に)。想像力が掻き立てられること!

ダンスを観るって…動きを観たいのではない。動くことで“何か”を見せてほしい、感じさせてほしいのだと改めて思った。(昨日のバットシェバは自分にとってはそれがなかった)。

大好きカンパニーかどうかもまだよくわからないが、わからなさが残るところがいい。観終わってイメージが残るところが気になる。今日、観た強くて変てこりんな画や人々や動きが自分の記憶に蓄積されることを願う。次回、来日しても必ず観に行くと思う、インバルピント。
SADEHはヘブライ語で「フィールド」。シンプルで実のある動き。計算された衣装に照明。洗練されたパフォーマンス、と思ったが私にはがつんと来なかった。はまり過ぎなのかな。音もそうだけどすべてがきれいに通り過ぎるのね。

勇んでチケットとったものの、昨夜から超ダウナーになっちまったので、そもそもの話天気悪いなか「彩の国さいたま」まで出かけるのがしんどくてたまらんかった。よく行ってきた自分。祝日ゆえ今日は診察がなく、自分持て余し思いきって医師にメール。状況を文章に書いたことでちょっと落ち着いたが、返信も頂いた。返信に引用された自分の文面読むとぎゅうぎゅうに切羽詰ってて…それなのに折り返してくださるとは本当にありがたいです。

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