HOFFER, Eric(1902-83) アメリカの社会哲学者。ニューヨーク、ブロンクスにドイツ系移民の子として生まれる。父は家具職人。幼少時に失明するが、15歳で突然、視力を回復。18歳で父を亡くし、天涯孤独の身となる。

28歳のとき「今年の終わりに死のうが、十年後に死のうがいったい何が違うというのか」という感覚に襲われ、自殺を図るが未遂に終わる。以来、カリフォルニアを転々としながら季節労働に従事。40歳でサンフランシスコに定住、その後、25年に渡り港湾労働者として働くかたわら、著作を発表した。

62歳から晩年に渡り、カリフォルニア大学バークレー校に招かれ政治学を講じた。ホッファーは正規の学校教育は一切、受けなかった。つねに社会の最底辺に身を置き、働きながら読書と思索を続け独自の思想を築き上げた「沖仲士の哲学者」として知られる。


下記、引用は標題書(中本義彦訳 作品社)より:

(雇用主である農場主が、身を落ち着けないホッファーに「将来が不安ではないのか」と尋ねたことに対し)
「信じられないでしょうが、私の将来はあなたの将来よりずっと安全です。あなたは農場が安全な生活を保障してくれると考えています。でも革命が起こったら、農場はなくなりますよ。一方、私は季節労働者ですから、何も心配することはありません。通貨と社会体制に何が起ころうが、種まきと取り入れは続くでしょうから、私は必要とされます。絶対的な安全が欲しいなら道楽者になって、季節労働者として生計を立てる方法を学ぶべきでしょうね」
*この裕福な農場主は、後に遺言で芸術活動に対する奨励金と、浮浪者のための宿泊施設を設置・維持するための寄付を行った。

「人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する。「神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きものを選ばれたり」という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。弱者に固有の自己嫌悪は、通常の生存競争よりもはるかに強いエネルギーを放出する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD.H.ロレンスのような人たちは、重要な点を見過ごしている。」

「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう」

巻末のインタビューより:
「私のいう仕事とは、生計を立てるためにする仕事のことではありません。われわれは、仕事が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません。この世の中に、万人に対して、充実感を与えられるような意義のある職業は存在していないのです。自分の仕事を意義深いものにしてくれと要求することは、人間の見当違いだと、かつてサンタヤナは言いました。産業社会においては、多くの職業が、それだけを仕上げても無意味だとわかっている仕事を伴っているのです。そういうわけで、私は、一日六時間、週五日以上働くべきではないと考えています。本当の生活が始まるのは、その後なのです」

「私はこれまでずっと、肉体労働をしながらものを考えてきました。すばらしい考えは、仕事をしているときに生まれてきたのです。同僚と話しながらくり返しの多い作業に汗を流し、頭の中では文章を練り上げたものです。引退した途端、この世のすべての時間が転がり込んできました。しかし、自分の頭があまり回らないことに気づいたのです。頭を下げ、背中を伸ばしているのが、何かを考えるには最善の姿勢なのかもしれません。あるいは、魂は、同時に二つの方向に引っ張られることによって、生産的に働くようになるのかもしれません」

就活中の学生ちゃんはこういう本を読んでみるのもいいかもしれない。いわゆる「勝ち組」になりたい人は余計、混乱するかもだけど。私は「とりあえず社会人になる」のはアリ、とする考えだ。結局。社会に出るのに「正解」なんてないんじゃないの。

成長

2012年10月27日 ダンスもの
BMレッスンにて。

今、人生最大級の行き詰まり。頭は同じ苦しい考えをずっと繰り返している。もう本当に出口が行き場が見出だせない。何も手が打ちようにないと思う。

でも身体はすごくいい方向に変わってきているんだそうだ。解放(開放)するほうへ。これくらい大きく変化していると、人によってはすごく眠くなったりするらしい。

私にとってこの変化は大きい。昔、拒食してた頃、私は頭で身体をぎゅうぎゅうに押さえつけていた。意志で身体の自然な欲求や、なまの部分を殺していた。いま身体が頭の言いなりになってしまったら、きっと生きていられない。そうでなく、身体が勝手に(自立して?)変化と成長の道を選んでいるというのは―私にとって今まで経験したことのない、驚くべき変化だ。文字通り八方ふさがり、スタックしてて何も良いしるしが見つけられないでいるとき、自分のなかでひとつでもよい方向に変化してることがあると知って、心からほっとした。
はじめての原発リーディング。タイトルが強烈だがラディカルに脱原発を煽るようなものでなく、地に足のついた知見を集めるインタビュー集。わかりやすい。巻末に2011.3.11~2011.11.30までの原発関連の動きを収録。今にして事実に震撼する。

もうちょっと読んでみる著者の方々↓
小出裕章(たとえ勝ち目がなくても、粛々と戦い続ける)
開沼博「僕の本は、要は「見えにくい弱者をちゃんと見ていきましょうよ」っていうことを、ずっと問うてるんだと思います。その提案自体は凡庸なものですが、凡庸にも関わらず実現できていない」(はげしく同意。「見えにくい弱者」の問題は311以外でも起きている)

舐めた真似

2012年10月26日
イ●ハラ辞職のニュースに朝から不愉快になる。「都のために国政へ」イミわかんないし。記者に質問されてまた逆切れてたけど、どんな大義名分があろうとこれって「途中で投げ出す」てことでしょう。もう一花咲かせたいって私欲じゃん。都民、せめて一緒に働いてきた人や関わりのある人に迷惑かける、とかいう発想は微塵もないのか。政策うんぬん以前に、「~のおかげ」「感謝する」という気持ちもさらさらなさげな人に国の舵取りなんてしてほしくないわ(でもそれってこいつだけじゃないんだろうな)。

自主練するも集中できず、超まったり。メンクリ行って友人の舞台へ。ジャズでミュージカル。ダイナミックな人はやっぱり体幹から動いてる。

三題 +α

2012年10月25日 ダンスもの
「全ての女性シンガーソングライターは不思議ちゃんである」と誰かが言ってた。「全ての女性ダンサーは不思議ちゃんである」と思えてくる日。「不思議ちゃんness」がないと踊れないわけではない。
**
ダンサーにとってあたりまえ(の感覚)であることが、ふつうの人にとってもそうであるとは限らない。そういうのを「あたりまえ」と思わないほうがいいんじゃないか。なにごとも新しく、なにごとも疑ってみる。
**
最中にいろんな視点(perspective)をとろうとする。が、なかなか難しい。インプロの型を決めない。
**

生きづらいよのなか。
やっぱりいい映画。そして前回、けっこう寝てたな自分というのに気づいて焦る。「ミャーク」は宮古、そして「現世」を表わす。「何があっても楽しく生きていこう」ここでしか聴けない歌がたくさんある。

宮古ではどんなことでも歌になっているんだって。以前、もっと若いときだったら、それほどこの映画に惹かれなかったかもしれない。自然や神様が生活の身近な一部になっている、宮古の風土がうらやましい。東京でも、感謝して生きていけるはずなのに。ささいなことであくせくしたり、騒いだり。どうでもいいようなことを足りないと思って欲するサイクル=システムにとりこまれてしまう。
「怒ると灰皿を投げる」で有名(?)な世界のニナガワ。実際のところはどうなのか、というのを氏に抜擢され見事に才能を開花させた若手俳優たち(小栗旬、藤原竜也、寺島しのぶ…)が語っています。

みな異口同音に「大変な体験だった」と言うが、厳しいダメ出しにあって悩み方、乗り越え方はみな違う。それぞれが身体に刻まれた経験を掘り起こすように自分の言葉で語っていて、親しみを感じた。

蜷川氏の「楽屋は廊下」。キャスト、スタッフ関わる人々の感受性はさまざま。千差万別を相手にしていかなければならないから、みなが通る廊下で様子を見ながら気になったらお互いに声をかけやすくしたほうがいい、という配慮によるものなのだそうだ。

通りいっぺんでなく、個を見て鍛えてくれるというのはその俳優(と作品)に対する誠実さだったり献身だったり、なんといっても愛情の表れなのでは。今これだけ情のある場ってあまりないかもしれない。ちゃんと「叱ってもらえる」というのはありがたい関係ですよね、というのが私もわかるお年頃になった。(ほめてもらえるならそれに越したことはないけれども。なんも言われず追い出されるより、怒られて挽回のチャンスをもらえたほうがいい)

(語録より)「日常生活でいろいろなリスクを負っていることが、演技の上で花となって開く人もいる。良い人であることは、良い演技ができることを保証しない」
レッスン休講。先生が、です。時たまこういうことある。電車に乗ったところでメールを受け取り、引き返す。

重み

2012年10月20日 ダンスもの
ひさびさコンタクトWS。人の重さを感じ…られたでしょうか。シンプルなことだが身体にシンプルに向かうのがむずかしい。やっぱりこうゆうことは定期的にやらないとだなぁ。くったりと気持ちよく疲れた。
沖縄 宮古島(=ミャーク)の失われつつある「古謡」「神歌」をミュージシャン久保田麻琴が追ったドキュメンタリー。

神の歌は限られた人(神女)しか歌うことができなくて、その歌はその人のところに「降りてくる」。

そうだよね。「自分が」やるのでなく、つくるのでなく、自分を伝わって降りてくる。

男性が中心となる祭事で、歌い踊る人々がワイシャツにネクタイ姿というのが意表をつかれるが、すごく堂に入ってるの。「ミャーク」には人生という意味もあって、苦しいこと辛いこともあるけれどなるべく楽しく歌い踊って切り抜けていこう、という意味もこめられているのだとか(ちょっとニュアンス違ったかも。うろ覚えすみません)

生命力ある人々の強い歌と踊り、画と音。とてもいい映画だった。もういちど行こうかな。

http://sketchesofmyahk.com

こうかい

2012年10月18日
この年になってもまだ路頭に迷っているとは思わなかった。自分が情けない。他の人はすることがあって、居場所があるのに私にはなんにもない…。

おうちがない

2012年10月17日
実家が引っ越してもう1年たつ。それでもなくなった家のことを思うといまだにかなしくてたまらない。家があったときも家族が機能していたわけではなかったのだが。頭ではもう維持がおいつかなかったこともわかっている。私は先に見るものがないので、後ろへ後ろへかんがえてしまう。悔いなく片付けをすれば気持ちが切り替えられるかと思っていたけど、むしろ以前より不安定になっている。
身体をつくるとか、立ち方、関わり方。なんにせよ確実に何かを渡してくれるレッスンはいい。というか私はそういうところでないと続けて通わない。

●もう一息、腰が入るといい(いわゆる「反り腰」にするために)→猫のポーズで背中(腰)を丸める⇔反らせる練習を。腰を柔らかくしましょう。

●ルルヴェは足の甲を前に押し出す力で立つ!(目からウロコ。こうするとすねの力に頼りすぎないで立てる。かかとも上がり過ぎなくていい。「かかとが上がり過ぎる」っていう発想自体がなかったわ…)
青山ブックセンターに行ったら、今日は市場の日で広場に野菜、果物、花…などなど店がでていた。面白くていろいろ眺め、初めて見る種類の赤い大きなリンゴ、「大阪のおばちゃん価格(=安い)」というカキ、ドイツのクッキーとハーブティー、気合の入ったおいしさ(試食した)のベーグル、ペパーミントグリーンのオーガニックコットンTシャツを買う。Tシャツは500円で薄手ですが下にタンクトップなど着れば問題ないでしょう。

ABCにはトリエンナーレと連動したダンス関連のブックフェアを見に行ったのだが、その前に市場で買物満足してしまった。
即興はその場でつくってる、はず。ですが私は「インプロ用」踊りを使いまわしていただけ、という衝撃的な事実に気づいた夜のスタジオ。つまりワンパターン、近眼的にやってたな。どこかでやってうまくいったりほめられたりすると、ずっとそればっかりやってたりするわけだ。

インプロに正解なし。何やってもいいのだ。可能性は無限大にある。

なんもない

2012年10月11日 ダンスもの
久しぶりにクラス。やっぱり楽しい。新しく来た人が「みなさん自衛隊のような訓練を淡々と…」と驚いていた。ははは。畏れ多くもそんな。身体のことはちょっとずつでも確かに積み上がってきて嬉しい、と思うのに一方で人生経験はほんっとうに何も積み上がっておらん、と思って相当がっくりする。なにごとも無駄にはならないとか言うけれども、哲学的?にはそうかもしれないが本人の役に立つようにちっともならない、わたしって心底ばか?とか思うのであった。

クラスまで微妙に長く時間があって渋谷で漂流、沈没。仕事のことで黄昏ていたらヒカリエの1Fはいいにおいがしてついハンドクリームなど衝動買いしてしまう。
「外こもり」。
ツタヤより。こてこてに舞台映像、でなくリハ風景や裏方さんの仕事ぶりが見られるのは良いけれども、いかんせん長い。実際の尺(160分)もともかく、他に編集の仕方はあったのではと強く思う。「すべて」だからってこれは。
BMにて。「歩き方」って意外と教わらないものだ。

むりっす

2012年10月5日
メンクリにて仕事の話。あーしろこーしろと。そんなの誰がやれるっていうの。ねえ?で意味わからないし。そもそも、その問題はなぜ私のところにばかり吹き寄せられてくるのか。結局、人遣いが相当…。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索