●あるいはダイアモンドの床と天上の光。ダイアモンドの床(地にコネクト:ベクトル下向き)と光(天上にコネクト:ベクトル上向き)という2種類の身体感覚を同時にもったまま動く。

●頭の上1メートルくらいに光をもつ。その光をみなで共有しながら、動く (our light)。

「ダイアモンドの床と桜吹雪」というのは身体感覚の喩えだが、このワークをしているあいだ空間の変容が本当に見えた。私はあまりこういうのに入り込めないほうだが、自分の身体があっというまに粉々なちりになって桜吹雪にまみれて飛んでいくのを感じた。

こんなに簡単に自分なくなっちゃうんだ、と思ったら泣けてきた。日頃、この自分を消すのって容易なこっちゃないとぼやいてるくせに皮肉だけど、こんなにはかなく消えることを感じたその時間、そのことがとてつもなく悲しかった。自分だけでなく世界もかんたんに変わる。そのはかなさが身を削ぐように悲しかった。

もう自分がないのだから、「どう動くか」なんてどうでもよくなった。渡す‐受け取るというプロセスすら自動化して、なんだかわからないくらい一体となっていた。パワフルだった。自分が見た世界は美しかったと思う。
メニューは先生が瞬間のインスピレーションで決めているらしい。でも私的理解では「呼吸」と「イメージ」の大切さ、身体との連動がテーマ。きわめてソリッド。

●「イメージ」がダンスの糧。そしてそれを「呼吸」とつなげる。息を吸う(頭にイメージを描く:赤・青・黄)→息を吐く(そのイメージを「血液」に落としていく。吐ききるまで身体じゅうに行き渡らせる)

●「血液」はどんなイメージでも喜ぶ。ダンスも同じ。どんなイメージでもいい。

(●かようにイメージは大事だが、これを「内にこもらず」やるのがキモと思った。「自分」、だけじゃない。開く。開いておく。)

◎自分が呼吸するのでなく、宇宙が呼吸する。宇宙まで吸い上げ、地球のコアの空洞に吐き出すつもりで。(私が書くとニューエイジぽくてあれですが、この表現はよくわかる。先生のコネクトっぷりがすごい)「宇宙身体」

●植物⇔人間の交換(酸素~二酸化炭素)。循環。(これはどう見せるかという形ではなく、「交換」がキーだと思った。渡し~受け取るというサイクルにフォーカス)

◎自分のクセ:イメージが首の下で止まってしまいがち。頭の上まで吸い上げる(顔とか脳etc.も忘れないでつれてく)

◎呼吸のイメージ:息を吸う(頭頂がぱっと開いて、金色の光が入ってくる)→吐く(頭頂がきゅっと閉じて、光を体内に閉じ込める)。そのIN/OUTのイメージをはっきりともつこと。

●ダンスの3つのセンター:動き、呼吸、イマジネーション。身体におけるダンスのセンターは喉。

●変容(メタモルフォーゼ)は二択。ひとつは「死」、もうひとつがダンス(or any art form)。

●「死ぬとき死ぬのでは死が堕落する」死ぬ前に死ぬのがダンス。(超かっこいい)
今日から舞踏ワークショップ。K氏は説明がそのままダンスになってて、WSでありながらパフォーマンスという素晴らしさ。そしていつも思うけどブトーって間口が広い。参加者インターナショナル(今日は英仏で翻訳がなされていた…)、年齢層さまざま、男性の比率もけっこう高い。ダンスの経験やジャンルもさまざま(経験不問)で、いろんな身体があるのも面白いところ。濃いぃ。土曜まであるけど通せるか自分!

●「爪に小明かり」。息を吸って、吐く。呼吸で身体の動きをつくる。息を吸うと、手の爪にあかりがともるようなイメージで(ラブリー)。

●声をだすときと同じように、身体を動かすときも喉と肺を震わせる。喉と肺をvibrantにしながら動く(これができるようになると「ダンサーとして3レベルくらい上がる」そうです)。

●踊り続ける意思。
久しぶりにブトー稽古へ。2人でこじんまり。洋舞とは違う、独特の時の刻み方、見せ方があってこれもやっぱりいいなと思う。稽古当番の女子が昨年よりずっと表現力を深めていて感心した。

時間をかければ身体は着実に変わるが、考え方のクセがなかなか変えられない。課題は自分の外、人や世の中に対する過剰な不安や緊張を減らすこと。たぶんもっと準備や防御ははずしてよくて、そのままいていいのだろう。無駄な力で心がかちかちよ。

外へ

2012年3月10日 ダンスもの
● 外へ開く。 自分の身体を外へ広げてイメージする。身体の外側へ、空間に広げるようなイメージをもって動く。腕は手の指先で終わり、でなく、指の先から線が出ているつもりで。 「大きい身体」。
→ 意識を外側へ向ける。自分の身体、自分の感覚を探ってついていくことも私には必要だけど、「外に向けて開く」。これとても重要。ただ開いてみること。

● 尾てい骨は下方向、頭頂は上方向へひっぱるイメージで。

● 足で押した力を下から上へつなげて、「骨盤」を動かす。
→ 「骨で動く」。骨で動くように心がけると、余計な筋肉が落ちて必要なものだけついてくる。無駄な力を使わない、抜いて動けるようになる。
持ち上げられたり振り回してもらったり。気づけばかなり筋トレでもあるコンタクト。ちょっと緊張したけどまぁそういう日はあるか。

覚え書き

2012年3月5日 ダンスもの
すごい…とひそかに思う人は健全な大きさの自信があって、なおかつ謙虚でもある。実力があり努力もおこたらない。ゆえに成長がはやい。

即断しかねることは一晩おいて、きいてみる。

2本立て

2012年3月3日 ダンスもの
ダンス友sが出演する発表会。どれもこれも難しそーな振りっ、に見える。筋力、軸力要りそうなパワームーブだらけですが、身体がしっかりしたダンサー多くて無問題。達人は羽のように床に下り、なにごともなかったように立ち上がるのだ。

こちらのスタジオ(私もちょっと通ってた)の“女社長”ダンサーさんが一手に振付・演出を担っており、彼女の志向なりお人柄がすごく見える。それはまあ当然といえば当然なのだが、その見え方は当人が「つくり手としての自分」と作品との関係を意識してどうつなぐかにもよるかとは思う。統一感がある一方、全体として変化に乏しくなりがちなのがむずかしいな。

昨夜~はぐったりな夢を2つ見る。それぞれの終わりで1時過ぎ、4時過ぎ頃に目がさめた。片方は忘れたが、ひとつは自分がなぜかひとり暮らし@京都しており、隣人はストーカーという設定。隣人の目論見がわかり、これでは住んでられないので実家に戻らねばならずやだな…となる。現実と並べてまったく笑えない。夢みてるあいだは寝てるはずだけど、こういう夢はほんと疲れる。
思いがけずじゃむーるの夜。久しぶりにがっつりやりました。男子ペアがいつ見ても全力で組み合ってる。格闘技かっ(でも最高)。

コンタクト・インプロは特別な技術ではなく、ダンスの経験を問わずできる。私は緊張が強いタイプで、なかなかできなかった。ベーシックな練習、おんなじことをあちこちで何度も何度も繰り返して、ちょっとずつ慣れてきた。前より人にゆだねて、自分も安定して、楽しめるようになってきたかな。「昔はこうじゃなかったよね」と数年前を知る先生に言われて、あーそうだったなと思い出した。でもまだまだ先がアル!

そして「人と接すると緊張する」、というごくあたりまえの感覚も忘れないで、大事にしたい。
sincere to sensation..

夢中でやっているうちに心身ナチュラルにあったかくなる。ダンスでいいことのひとつは考えるのをやめることだね。感覚をたどるせいか、自分を大切にしなきゃとふと思った。あんがい簡単なことなのかもしれない。これの続きだから…。
友来る。「優良レッスン」と紹介したものの、いささかマニアックなのでどうかな?と思っていたら彼女もマニアックな人だった(笑)。楽しかったそうでなにより。

ダンス必修化、っていうあれはいまいち意味わからないけど(これ決めたMEXTの人たちはダンスしたことあるの?)、感情やら何やらを表すのがあんまり上手くいかない子が「こういう出力もあるか」と気づくきっかけになったりするならいいなと思う。

お手伝い2

2012年2月25日 ダンスもの
慣れてきた。そして慣れてきた頃に終わり(というよくあるパターン)。

今日も舞台を見せて頂いたのですが、昨日より「きりり」としている。見やすくなった。

で「その音はなぜ合わないのか」というのを観ながらずっと考えていたんだけれども。(三部作の)パート1はいいとして、2と3は音数が少ないそれぞれ序盤の部分で特にちぐはぐな印象がある。ダンサーが対峙するデュオを踊っているのに音がぼわ~んとアンビエーントになってるんでは何がしたいんだかわかりにくいっ。音は動きを支えるはずなのに、この場合せっかくの緊張感がぼやける。

後半、音数が増えて強い音になる部分はいいと思う。ので、この完成したモチーフだけ時間をかけてフェイドインしていれるとかミニマルちっくに使ったらどうかしら、などと妄想してみた。

考えればこれだけ音が気になるのも、そもそもこの作品のムーブメントはそれだけで立ち上がるものがあるから。動き自体に絵や空気、旋律をつくる強さがあるので、音(なり照明なりといった他のコンポーネント)がそれを意識していないとかみあわないのだと思う。動きに強さがあり、作品の骨格を成していること。なんといってもそれがダンス作品として素晴らしいと思う。新しく、志高いことです。

お手伝い1

2012年2月24日 ダンスもの
制作さんが既に入られているので、私は「いらっしゃいませ」言ったりチケットもぎったりチラシはさみこんだりすればいいだけ。そんだけなのに「プロ」の現場に緊張。でもみなさんフレンドリーに気遣ってくださり、関係者席で公演も拝見。

ムーブメントは洗練されててエッジー、面白い。が。音はこれでいいの?光もこれでいいのか?とにかく気になったのは音が饒舌なこと。こんなに鳴りっぱなしでなくても。時に妙に情が入ったり、スタイリッシュに落ち着いちゃってもいるし、スタイリッシュにしたいわけではないというのも見えているだけにその辺がもったいなく、観ててじたばたする。

トータルパッケージで見せるわけなのでその辺がムズカシイ。という話を居合わせたダンス友とこんこんと話し、演出家にも感想を問われて「これでもか!」というくらい有り体に言っちゃったのでここには書かない。今ごろハートブロークンになってないだろうかと思うくらい正直に言ってしまった。。しかしダンサーは体力も気力も要る仕事ですね。タフな方々です。

********

人様のことは言えるけれども自分はと言えば、エントリーした派遣職がよくよく訊いてみれば思っていたような仕事ではなく、そんなことやれないし、やりたくないし、しかし食うためにはそういうこともやらねばいけないのだろうか(結局、辞退)。みながそれぞれ前へ進んでいるようなのに、進めてない。自分が何をしたい人なのか、何ができる人なのか、なんかよくわからなくなってきた。。。自分のことやれ、っていうか自分しっかり見きわめないと。フィンランドに行って骨になりたい。。
昨晩は別に何も変わりなく床についたけど、久しぶりに熟睡した。目覚めがすっきり。「寝る」ってこういうことだったな、と思ってちょっと感動した。

レッスンの帰りにした話。きれいにできる力があるならそれに越したことはないけど、「かたち」と「いきおい」のどちらかひとつしか追えないなら、この曲(Radiohead)だったら絶対「必死にやったほうがいい」。

バレエがんがんにできる人がヨユーできれいに踊れちゃって、でもそれだけだったらつまらない。何人かで踊ってて、多少そろわなくても、ぼろがでても、見てて「何やってんのあの人たち?」っていうくらい必死にやったほうがいいと思う。

アチチュードの足がどうとか、ジャンプがどうとか細かいとこ見るのはダンスやってる人たちだけなのでは。そういう方々はひとつひとつの巧みなテクニックを見て「ほぉー」と感心してくれるかもしれない。が、なんも考えずただ提供されるものを楽しみに観客として席に着いたとき、気持ちをもっていかれるのは、ムーブメントのダイナミズムやそこに立ち上がるイメージのほうなのではないか、とふと思った。

もちろん技術はあったほうがいい。けど。「テクニックは見せるためにあるのではない」とかなんとか昔のバレエ漫画になかったっけ。私は(トレーニングはするものの)テクニック的にはまだまだあれな人なので、なんとか姑息に点を稼ごうとするわけです。だから「必死に」やる。できなくても。どう見えるか考える。「効果」を考える。若くて上手な子たちが「あれができた、できない」ばかりにこだわって、熱心なのはそれこそ感心ですがいっつもフラットにやってるの見るともったいないというか…なんか違うんじゃないのと思ったりもするよ。
先週やったことは今週できて、今週やったことは今週できない…てな感じで積み上げてく。本人にしかわからないかも、な地味ぃ~な変化を楽しむ。せっかくせっせと(いっぱいいっぱいですわ)動いているんだから、説得力ある動きにしたい。「さびしい身体」にしないで。
思い切って今月のしばこ洗い。それからBMへ。

背骨の上に、頭をのせるだけ。骨と骨の関係(背骨とスカル)のみ。筋肉は使わない。自分で抜いてるつもりでだらんと垂らすのも実はちよっと違う(→余計な力を使っている)、ことに気づく。

難しい首~頭まわりの扱いにちよっと変化が見えてきた。正しい位置のあり方はなんというか繊細。本人きっちりわかったわけではないけれど(今までのは違う、というのはわかった)、身体はわかり始めているらしい。年齢や気持ちのへこたれ具合に関係なく、身体は地道に新しいことを学び、成長してくれているという健やかさ。ありがたいです。
山田せつ子(構成・演出・振付)、クローディーヌ・ドレ(美術)。

とにかくこのチーム(せつ子様ほか寺田みさこ、加藤菜緒子、柿崎麻莉子)は超絶身体の利く方々。これ見よがしなアクロバティックではなく、シンプルな振りなのに鮮やかで面白い。「歩く」だけで空間を支配する。意外とこれはなかなかできないこと(そういうのこそできるようになりたいな~!)。動きがすごすぎて「ダンサー」というより、もはや彼女たちこそ現代美術に見えてくる。4人それぞれ個性が立っているのもいいし、なかでも加藤菜緒子さんの質感に目を奪われる。この関節の抜け方はっ…とにかく不思議。

作品としてはおとなしいようにも思った(アートとのコラボ、というのは既に空間に雰囲気があるところが、この作品に限らずかえって難しいのでは)が、ラストで4人がまた人間に戻ったかのようにゆっくりと歩いたりたたずんだりしている姿が美しかった。
真に生きるに値するところだと手垢のついた言葉でなくあたらしい証拠をもって証明してごらん、とわたしは挑む。ともすれば、激ヤバな岸に乗り上げようとする自身を引き戻すためにもっぱらこの時期のダンスはある。気は病んでも身体は健やかなりよ。

救われ方

2012年2月2日 ダンスもの
自分が消えて、音楽になるかのような瞬間(ほんとはなれないですけど、でもそんなような)を久しぶりに体験した。自分が無になる、というか、何かに埋没する至福。私はいずれかの宗教の敬けんな信者ではないけれど、信仰ってこういう感じじゃないかしらと思ったりする。

で、私はダンスにこういうふうにも支えられてきたのだった、ということを感謝とともに思い出す。やさぐれてても身体のほうは調子いいらしい今週。自分に現世的な救済はないの?…ということも頭をよぎるが。

レッスンで使った曲はRadioheadでした。私的推測だがレディヘとスターウォーズは特に(ある世代の)男性から圧倒的に愛されているよね、となんとなーく思っている。

すれ違う

2012年1月30日 ダンスもの
あきらめようか、と思っていたらば今日のレッスン楽しかったり。のろのろ亀の歩みでもここまでやってきたからこそ、の楽しさがあるとか。なぜに派遣会社は私が電話をとれないわずかな時間に限って連絡してくるのか。そしてかけ直すと「別の方でお話が進んでいます」というオチ。
どの方面でもできない。つくづく思う。無理しても私は続かない、いいことない。

ゆっくり時間をかけて緩めてもらい、和む。だいぶほどけたけれども、またすぐ結ばっちゃうんだよな…。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索