木曜のメモメモ:
・ムーブメントのクラスで、男の子が先生の動きを見て「変な生き物みたいですね」と感心していたけど本当にそう。私たちはまだ変な生き物未満ですががんばりましょう。
・前にも書いたと思うけど、このクラスは派手なことはあんまりしないのに、すごく運動量がある。でもたくさん動きながらも、このクラスでは不思議と自分のなかに静かな時間が流れている。身体は動かすんだけど、気持ちはぽっかり落ち着いているような、他にはない感じが残る。静かで落ち着くけれど、寂しさものぞいている。家なき子がいっときの住みかをもらって安らぐが、時間がくるとそこから出なければいけない、というような。
・指で空間に線を描く、というのをやった。パントマイムって私には身体を動かすと同時に頭を使わねばならない…ので難しい。というか考えねばならないと思うとぱにくってしまい、自分が何をやってるんだか大体わかってない。
・本当は自分ではやりたくないんだけど、人にはやってほしい。というところで自分が理屈を手放したがっているんだなと思う。マイムもできる自分になれればいいのかもしれないけど。↑のワークは人のを見ているとなかなかコンテンポラリーで素敵だった。
・身体の表現と書くことはやはり似ていると思った。自分に集中することと、渦中にいながら俯瞰もするということと、コミュニケーションをとるということを同時にやる。他者と関わる、これが私はおろそかになりやすい。「関わる」というのは「賛同」「調和」だけでなくいろいろなかたちがあるはず。それを瞬時にみつける。
・苦手なところでも、得意なところでも、やっぱり自分でまだ枠をつくって動いている。それを壊せるようになるまで、あとどのくらい? ある日ひょいっと飛び越えていたりするのか。
・相反するものの共存に惹かれる。低いところにもグルーヴはある。
・この日記はスザンヌ・ヴェガを聴きながら書きました。
・ムーブメントのクラスで、男の子が先生の動きを見て「変な生き物みたいですね」と感心していたけど本当にそう。私たちはまだ変な生き物未満ですががんばりましょう。
・前にも書いたと思うけど、このクラスは派手なことはあんまりしないのに、すごく運動量がある。でもたくさん動きながらも、このクラスでは不思議と自分のなかに静かな時間が流れている。身体は動かすんだけど、気持ちはぽっかり落ち着いているような、他にはない感じが残る。静かで落ち着くけれど、寂しさものぞいている。家なき子がいっときの住みかをもらって安らぐが、時間がくるとそこから出なければいけない、というような。
・指で空間に線を描く、というのをやった。パントマイムって私には身体を動かすと同時に頭を使わねばならない…ので難しい。というか考えねばならないと思うとぱにくってしまい、自分が何をやってるんだか大体わかってない。
・本当は自分ではやりたくないんだけど、人にはやってほしい。というところで自分が理屈を手放したがっているんだなと思う。マイムもできる自分になれればいいのかもしれないけど。↑のワークは人のを見ているとなかなかコンテンポラリーで素敵だった。
・身体の表現と書くことはやはり似ていると思った。自分に集中することと、渦中にいながら俯瞰もするということと、コミュニケーションをとるということを同時にやる。他者と関わる、これが私はおろそかになりやすい。「関わる」というのは「賛同」「調和」だけでなくいろいろなかたちがあるはず。それを瞬時にみつける。
・苦手なところでも、得意なところでも、やっぱり自分でまだ枠をつくって動いている。それを壊せるようになるまで、あとどのくらい? ある日ひょいっと飛び越えていたりするのか。
・相反するものの共存に惹かれる。低いところにもグルーヴはある。
・この日記はスザンヌ・ヴェガを聴きながら書きました。
月曜は会社なノリになじむのに時間がかかる。新商品が出たからといって、その新CMが始まったからといって、「だから何なの?」と心で思っても口には出さない。日本経済をくるくる回しているからくりを信仰できない私には作業者の立場が合っている。炭鉱婦は黙して作業に没頭する。公私ともにそう言えば久しくキレてない。いつかどこかでちゃぶ台ひっくり返すときもくるのかもしれないがまあそのときはそのとき。
私の欲望の全てをダンスにつぎ込むのだーっと、他所でだらりんと温存している分までエネルギーを投入する。後先考えずに自分が空(から)になるまで感情と欲望を流し込む。
チェリーいつまでもUP BEAT届けてよ胸にもっと赤が美しいこと を/一寸先闇 /赤をもっとおくれ/くちばしにチェリー/不 純けちらして行こ/後光射す明日へ着地
しかしこれでもう尽きた…ということはなく私の欲望の井戸は果てしなく深い。私の強烈な飢餓感に気づいてくれますか。強欲な私につきあって、井戸の底まで一緒に降りてくれますか。
※「くちばしにチェリー」EGO-WRAPPIN’(詞Yoshie Nakano/曲Masaki Mori)
私の欲望の全てをダンスにつぎ込むのだーっと、他所でだらりんと温存している分までエネルギーを投入する。後先考えずに自分が空(から)になるまで感情と欲望を流し込む。
チェリーいつまでもUP BEAT届けてよ胸にもっと赤が美しいこと を/一寸先闇 /赤をもっとおくれ/くちばしにチェリー/不 純けちらして行こ/後光射す明日へ着地
しかしこれでもう尽きた…ということはなく私の欲望の井戸は果てしなく深い。私の強烈な飢餓感に気づいてくれますか。強欲な私につきあって、井戸の底まで一緒に降りてくれますか。
※「くちばしにチェリー」EGO-WRAPPIN’(詞Yoshie Nakano/曲Masaki Mori)
木曜日のいろいろメモメモ(long)
2006年6月22日 ダンスもの・今日の午後は急ぎの作業が入り、それは2つの画面(IE)と1つのファイルを交互に参照しながら行うというややこしいものだった。デスクワークでも緊張すると私は肩甲骨のあいだが張るんだなーということに気づく。踊りのときとおんなじ。
・タイムカードをがちゃんと押して退社しJRに乗って空間移動する。というだけでは(いくらバイトという気楽な身分の私でさえ)会社的リアリティから、身体表現する世界のリアリティ(しかもかなりコアな部類のこのクラス)にすぐ入れるわけではない。ウォーミングアップで床を転がったりするうちに、会社的なものは剥がれてくる。このクラスの環境になじんできたせいか、この頃はそれだけでなくもう少しニュートラルに近く、自分が「素材」みたいな感じになる、気がする。
・私は20代で正社員として働いていた頃から、仕事そのものというより「会社的なノリ」についていけてなかった。仕事に対する姿勢だとか、慣習だとか、人間関係だとか、労組とか、暗黙のうちにある「会社とは一連托生」みたいなやつ。
私には「会社ゲーム」としか思えなかったし、そういうふうに感じる自分に罪悪感があった。自分が未熟だから、頑なだから、大人らしく「会社的リアリティ」に沿うことができないのだと。
今でも(仕事をしているあいだは)「会社的リアリティ」のなかにいる自分はうそ臭いと思う。43才にしてやっとわかった(というか開き直れた)のだが、私はそもそもそういう(会社ゲームにつきあえない、仕事を優先順位のいちばんにできない)人なんだと思う。
やくざな社会人の私にも、お仕事をくださったる方がおられたり、雇ってくださる会社もある。雇用形態の自由が増えたおかげでもあるし、多少は私に知恵もついたせいかもしれない。
会社ノリが悪くて、それよりもフィジカルな表現なり感覚の追求―金銭的利益はなんもないけど―を優先させているということにもう引け目を感じなくてもよいのではないかしら。
・話が逸れた。なんだっけ…。
・このクラスも3ヶ月目に入り、そんなにみんなと話したりしてるわけではないけど、一緒に身体を動かしているというだけでずいぶん親しみを感じる。それぞれに熱心だったり、まじめだったり、若いのにこういうコアな場所に足を運んでいて、なんかいいぞ。
・若い子たちを見ていて気づくのは、姿勢が悪い人が意外に多いということ。たとえば2番プリエの姿勢で上体をまっすぐに立てられない人とか。ダンスのレッスンでは姿勢に気をつけているのが当たり前なので気がつかなかったが、ダンスのレッスンで自分の身についていることってちゃんとあるんだと思えて嬉しかった。
・男子もけっこう多い。それもまたダンサーの男子とは違ってなんつうか動きが思いがけなくて、破天荒で見ていて面白い。硬さも若さだなー。
・クラスでするワークには私が「演劇寄り」と感じるものと、「ダンス寄り」と感じるものがある。前者はやっぱり苦手。段取りが覚えられないし、とにかく恥ずかしい。でもスルーするわけにもいきませんので、「これは演技じゃない、振りだ。振り」と自分に言い聞かせてやるようにしてみた…。
・「経験が想像をつくる」。想像をfictionと置き換えてもいい。
つまり何もないところに、自分の身体の動きだけで「綱渡り」というアクションを見せるには、実際に綱を押し下げる“感覚”(体験)に基づいた身体の使い方が要るということだと思う。実際に対象物があるとき、人はいちいち意識して触ったり押したりするとは限らないが、「ないものをあるように見せる」ためには強調するなり、無駄を省くということをして「純化」させないとあるように見えない。
・「型から入ることも必要」。意味がわからなくても、その動きの「型」をとにかく入れて(覚えて)やっているうちに、あとからわかってくるのだとか。
・いちいち深い。『ガラスの仮面』みたい。
・この先生の身体が全身substantial(実がある)という感じでやっぱりすごいです。足の甲もしっかり出ていてうらやましい。なんかすごくサバイバル能力ありそうな身体。大地震が起きても瓦礫の山とかひょいひょい乗り越えていけそうというか。
・このように申し分のない、もったいないくらいの師匠なのですが、あのあのやっぱり選曲にちっと耐えられないときも私はあります。ぼそっ。クラシックはいいんだけど「前衛」ちっくなジャズとか、ガムランとか…それならいっそないほうが。なんて趣味の問題なので、あれこれ言えないなー、言っちゃったりして。
・終わりの頃になると、みんな地味によれよれになっちゃってるのに、先生がいちばん楽しそうというかハイになってる。おもしろい。カワイイ。
・あざのできる場所、が決まってきたみたい。今日も左足ひざ内側(右足にくっつくほう)が赤くなってる。転び方の癖?
・楽なところでやらないで、私ももうちょっとだけ必死にやろう。リスクを怖がらないで。
・以上、長文にて失礼。これは"Songs about Jane" Maroon5を聴きながら書きました。
・タイムカードをがちゃんと押して退社しJRに乗って空間移動する。というだけでは(いくらバイトという気楽な身分の私でさえ)会社的リアリティから、身体表現する世界のリアリティ(しかもかなりコアな部類のこのクラス)にすぐ入れるわけではない。ウォーミングアップで床を転がったりするうちに、会社的なものは剥がれてくる。このクラスの環境になじんできたせいか、この頃はそれだけでなくもう少しニュートラルに近く、自分が「素材」みたいな感じになる、気がする。
・私は20代で正社員として働いていた頃から、仕事そのものというより「会社的なノリ」についていけてなかった。仕事に対する姿勢だとか、慣習だとか、人間関係だとか、労組とか、暗黙のうちにある「会社とは一連托生」みたいなやつ。
私には「会社ゲーム」としか思えなかったし、そういうふうに感じる自分に罪悪感があった。自分が未熟だから、頑なだから、大人らしく「会社的リアリティ」に沿うことができないのだと。
今でも(仕事をしているあいだは)「会社的リアリティ」のなかにいる自分はうそ臭いと思う。43才にしてやっとわかった(というか開き直れた)のだが、私はそもそもそういう(会社ゲームにつきあえない、仕事を優先順位のいちばんにできない)人なんだと思う。
やくざな社会人の私にも、お仕事をくださったる方がおられたり、雇ってくださる会社もある。雇用形態の自由が増えたおかげでもあるし、多少は私に知恵もついたせいかもしれない。
会社ノリが悪くて、それよりもフィジカルな表現なり感覚の追求―金銭的利益はなんもないけど―を優先させているということにもう引け目を感じなくてもよいのではないかしら。
・話が逸れた。なんだっけ…。
・このクラスも3ヶ月目に入り、そんなにみんなと話したりしてるわけではないけど、一緒に身体を動かしているというだけでずいぶん親しみを感じる。それぞれに熱心だったり、まじめだったり、若いのにこういうコアな場所に足を運んでいて、なんかいいぞ。
・若い子たちを見ていて気づくのは、姿勢が悪い人が意外に多いということ。たとえば2番プリエの姿勢で上体をまっすぐに立てられない人とか。ダンスのレッスンでは姿勢に気をつけているのが当たり前なので気がつかなかったが、ダンスのレッスンで自分の身についていることってちゃんとあるんだと思えて嬉しかった。
・男子もけっこう多い。それもまたダンサーの男子とは違ってなんつうか動きが思いがけなくて、破天荒で見ていて面白い。硬さも若さだなー。
・クラスでするワークには私が「演劇寄り」と感じるものと、「ダンス寄り」と感じるものがある。前者はやっぱり苦手。段取りが覚えられないし、とにかく恥ずかしい。でもスルーするわけにもいきませんので、「これは演技じゃない、振りだ。振り」と自分に言い聞かせてやるようにしてみた…。
・「経験が想像をつくる」。想像をfictionと置き換えてもいい。
つまり何もないところに、自分の身体の動きだけで「綱渡り」というアクションを見せるには、実際に綱を押し下げる“感覚”(体験)に基づいた身体の使い方が要るということだと思う。実際に対象物があるとき、人はいちいち意識して触ったり押したりするとは限らないが、「ないものをあるように見せる」ためには強調するなり、無駄を省くということをして「純化」させないとあるように見えない。
・「型から入ることも必要」。意味がわからなくても、その動きの「型」をとにかく入れて(覚えて)やっているうちに、あとからわかってくるのだとか。
・いちいち深い。『ガラスの仮面』みたい。
・この先生の身体が全身substantial(実がある)という感じでやっぱりすごいです。足の甲もしっかり出ていてうらやましい。なんかすごくサバイバル能力ありそうな身体。大地震が起きても瓦礫の山とかひょいひょい乗り越えていけそうというか。
・このように申し分のない、もったいないくらいの師匠なのですが、あのあのやっぱり選曲にちっと耐えられないときも私はあります。ぼそっ。クラシックはいいんだけど「前衛」ちっくなジャズとか、ガムランとか…それならいっそないほうが。なんて趣味の問題なので、あれこれ言えないなー、言っちゃったりして。
・終わりの頃になると、みんな地味によれよれになっちゃってるのに、先生がいちばん楽しそうというかハイになってる。おもしろい。カワイイ。
・あざのできる場所、が決まってきたみたい。今日も左足ひざ内側(右足にくっつくほう)が赤くなってる。転び方の癖?
・楽なところでやらないで、私ももうちょっとだけ必死にやろう。リスクを怖がらないで。
・以上、長文にて失礼。これは"Songs about Jane" Maroon5を聴きながら書きました。
やる気はあるのに、テクニックがついていけばなぁ。ぼそっ。難しい振りではないのに、アバウトな自分。まだまだ×n。
踊りを続けていても、誰かにほめられるわけではないけれど、でも:
右足ルルベ、左足パッセ(つまり片足)でバランスをとる。
スイカ身体をひきあげる。ぐらつく。スイカもっとひきあげる。
先生「あ、そこ」
スイカ「!」
…というように(説明になってるんだか)、身体が何かをちょこっとずつ覚えてくれているように感じられると、「もっともっと」踊りたいというきもちになる。
レッスンの帰りに街中を歩くと、あちこちの居酒屋だとかカフェだとかでminiパブリック・ビューイング状態になっているようで、同じタイミングでW杯な人々の歓声が聞こえてきた。終電間に合ったの?
踊りを続けていても、誰かにほめられるわけではないけれど、でも:
右足ルルベ、左足パッセ(つまり片足)でバランスをとる。
スイカ身体をひきあげる。ぐらつく。スイカもっとひきあげる。
先生「あ、そこ」
スイカ「!」
…というように(説明になってるんだか)、身体が何かをちょこっとずつ覚えてくれているように感じられると、「もっともっと」踊りたいというきもちになる。
レッスンの帰りに街中を歩くと、あちこちの居酒屋だとかカフェだとかでminiパブリック・ビューイング状態になっているようで、同じタイミングでW杯な人々の歓声が聞こえてきた。終電間に合ったの?
今日はムーブメントクラスの補講があったのだが、時間を勘違いして20分ほど遅刻してしまった…。私ってばか。
いっつも思うけれど、ストイックの極み。ダンスのレッスンだと(特にB系は)先生をはじめおしゃれな子が多い。レッスン着に帽子だのマフラーだのサングラスだのネックレスだのつけていたりする。Tシャツもなんでもいいわけではないみたい…よくわかんないけど。ムーブメントのクラスは、どこかで必ず床を転がることになるので、ヘアスタイルなんて気にしても無意味。アクセサリーは危険なのでとりましょう。捨て身になるので(すっころぶとか)、露出度の高い服も無駄にあざを増やすだけ。身なりを構ってる場合じゃないのは、まあ気楽っちゃ気楽。
どんより曇った土曜の午後、現代音楽をバックにスローモーションで歩く練習をみんなでそろそろやったりしました。これだけ(約30名)の若者がそれぞれの野望のもとに、ちくちくこういった作業に打ち込んでいるというのは日本の将来捨てたものではないのかも。ここの稽古は丁寧にじっくりやるだけに、地味ながら確実に効くぅ〜という感じ。
「スローモーションで歩く」ことには、それだけで物語が立ち上がってくるような雰囲気がある。もちろん足の裏とか体重の移動をコントロールできればできるほど美しい。このクラスで扱う身体の単位というのは非常に微細なので、自分のアバウトさを痛感する。身体の動きセンサーをデジカメに例えるなら、自分が31画素くらいだとすると(あり得ない粗さ)、先生は1200万画素くらいな感じ。
最後におまけで(少し時間を延ばして)、「前の人の動きを真似して、そこから発展させて動く」というのをやった。輪になってみなが見ているなかで一組ずつするので緊張するけど、こういうの割と好き、大好き。
「人の動きに自分の動きを足す」のではなく「人から動きをもらって、そこからまたdevelopする」ということなのだそうだ。私はこういうのの(動きの)ストックがあるので、やっぱりそこから出して使ってしまった感がある。「その場で」developさせるという落ち着きや余裕はまだなかったわ。でもこれ本当に面白い。
来週はお休み。寂しい。この頃、他のレッスンでものめりこみ系(スローな)の振りが多かったので、クーラ・シェイカー("Hush")とかではっちゃけて踊りたいきもち。でもロックなきもちとはうらはらに身体がだるい。いい感じの死体になれそう。ていうかなってる。
ごはん食べてお酒飲んでクスリのんで花村萬月「浄夜」を読む。羨ましがる。自分の地味な壊れっぷりが悔しい。情けない。壊れた人と壊れたい。ストイックな者には過剰な者に負けないくらいの熱情があることを人はなかなか気づかない。自らに火をつけて足元から灰になる。燃えかすになりたい。
いっつも思うけれど、ストイックの極み。ダンスのレッスンだと(特にB系は)先生をはじめおしゃれな子が多い。レッスン着に帽子だのマフラーだのサングラスだのネックレスだのつけていたりする。Tシャツもなんでもいいわけではないみたい…よくわかんないけど。ムーブメントのクラスは、どこかで必ず床を転がることになるので、ヘアスタイルなんて気にしても無意味。アクセサリーは危険なのでとりましょう。捨て身になるので(すっころぶとか)、露出度の高い服も無駄にあざを増やすだけ。身なりを構ってる場合じゃないのは、まあ気楽っちゃ気楽。
どんより曇った土曜の午後、現代音楽をバックにスローモーションで歩く練習をみんなでそろそろやったりしました。これだけ(約30名)の若者がそれぞれの野望のもとに、ちくちくこういった作業に打ち込んでいるというのは日本の将来捨てたものではないのかも。ここの稽古は丁寧にじっくりやるだけに、地味ながら確実に効くぅ〜という感じ。
「スローモーションで歩く」ことには、それだけで物語が立ち上がってくるような雰囲気がある。もちろん足の裏とか体重の移動をコントロールできればできるほど美しい。このクラスで扱う身体の単位というのは非常に微細なので、自分のアバウトさを痛感する。身体の動きセンサーをデジカメに例えるなら、自分が31画素くらいだとすると(あり得ない粗さ)、先生は1200万画素くらいな感じ。
最後におまけで(少し時間を延ばして)、「前の人の動きを真似して、そこから発展させて動く」というのをやった。輪になってみなが見ているなかで一組ずつするので緊張するけど、こういうの割と好き、大好き。
「人の動きに自分の動きを足す」のではなく「人から動きをもらって、そこからまたdevelopする」ということなのだそうだ。私はこういうのの(動きの)ストックがあるので、やっぱりそこから出して使ってしまった感がある。「その場で」developさせるという落ち着きや余裕はまだなかったわ。でもこれ本当に面白い。
来週はお休み。寂しい。この頃、他のレッスンでものめりこみ系(スローな)の振りが多かったので、クーラ・シェイカー("Hush")とかではっちゃけて踊りたいきもち。でもロックなきもちとはうらはらに身体がだるい。いい感じの死体になれそう。ていうかなってる。
ごはん食べてお酒飲んでクスリのんで花村萬月「浄夜」を読む。羨ましがる。自分の地味な壊れっぷりが悔しい。情けない。壊れた人と壊れたい。ストイックな者には過剰な者に負けないくらいの熱情があることを人はなかなか気づかない。自らに火をつけて足元から灰になる。燃えかすになりたい。
ひとりでたってみよう
2006年6月9日 ダンスもの
振りを覚えるだけでなく、印象に残る踊りをしたい。そう思うようになった。グループのなかにあってもわたしと分かる踊りをしたいなら、ソロで踊れなければ。
良くも悪くも、わたしにはもともと「ひとりになる」素質があるのだと思う。腹をくくる、というよりは、そもそもひとりでいることに言い訳も意味もないんじゃない? そんなことをクリニックで話してきた。でも二人になるのも三人になるのもやぶさかではありません。
その帰りにダンスの先生が出演する舞台が、近所のライブハウスであるというので観に行った。クリニックの混みは中程度だったけど、ちょっと開演に遅れてしまった。CLUB JAZZ風の振付を着物で踊ったりする。なんでもあり。前半「ちょっと練習が足りなくね?」と思うところもあったが、後半になるほど良くなっていった。女性だけの作品、そこから男女のアダージオに分かれるところ。フィナーレが超かっこいい。舞台の黒白(衣装)は必殺だね。うちの先生(男性)の作品はエレガント。お美しい上半身裸も公開なさっていたわ。楽しくて、よいものを観たと思う。
私ももっともっと踊りたいな!
(画像はダニエル・パウター。ここからの曲も舞台でちょっと使われていた。流行りものに終わらない、ソングライターとしての才能を感じさせる温かみのあるアルバム。)
良くも悪くも、わたしにはもともと「ひとりになる」素質があるのだと思う。腹をくくる、というよりは、そもそもひとりでいることに言い訳も意味もないんじゃない? そんなことをクリニックで話してきた。でも二人になるのも三人になるのもやぶさかではありません。
その帰りにダンスの先生が出演する舞台が、近所のライブハウスであるというので観に行った。クリニックの混みは中程度だったけど、ちょっと開演に遅れてしまった。CLUB JAZZ風の振付を着物で踊ったりする。なんでもあり。前半「ちょっと練習が足りなくね?」と思うところもあったが、後半になるほど良くなっていった。女性だけの作品、そこから男女のアダージオに分かれるところ。フィナーレが超かっこいい。舞台の黒白(衣装)は必殺だね。うちの先生(男性)の作品はエレガント。お美しい上半身裸も公開なさっていたわ。楽しくて、よいものを観たと思う。
私ももっともっと踊りたいな!
(画像はダニエル・パウター。ここからの曲も舞台でちょっと使われていた。流行りものに終わらない、ソングライターとしての才能を感じさせる温かみのあるアルバム。)
日中、たいした仕事をしているわけでもないのに、会社帰りは疲れている。それに私は緊張すると眠くなるので、かなり眠い。そういう状態でムーブメントのクラスに行くので身体を動かすモードになかなか入らない。入らないけど、「えい、行くぞ」と思っていく、でもでも今日はかったるかった。
はじめに素敵な死体になって裏返ったり表返ったりというのを念入りにやる。ひっくり返っているうちに、みな背中だのお腹だのが見えてしまってかわいい。45分くらいこれをやっているうちに、ナチュラルハイになってきて、なぜかこの死体の練習(って自分がそう呼んでいるだけだけど)が、私はものすごく好きだ
ということがわかりました。人間(≒意味)から遠ざかれば遠ざかるほど、私は楽しいのかもしれない。
そして綱渡りのワーク。これは指示された一連の動きで一方の端からもう一方の端へと綱渡りをしているように見せる、というもの。人が綱渡りするのを見ていてふと、これは「そこにないもの(見えていないもの)を見せる」ということをしているのだろうか、と思った。
もし私の理解が正しいなら、それ(マイムというか身体表現)は書くことに似ている、とも思った。もっと言ってしまえば、「ないところにつくる(見せる)」というのは、創造なり表現ってつまりそういうことじゃないか…。というか、でも書くときは、見せようと意図して書くんじゃないけど、結果的に見えるようになっているときはうまくいっているような。
私は「指示された一連の動き」を頭に入れるのがすごく苦手で、これは「振り」を覚えるのとも違ってあわててしまうのだが、段取りとして記憶しようとするよりも映画みたいにして入れるのがいいのかなー、とも思った。私は自分が何をしようとしているのかが見えていない。やっている本人に見えていなければ、見ている人に見えるわけないです。
そのあと跳んだり転げたりしてへとへとになった。クールダウンのストレッチをしていると、自分の身体が不思議に軽い気がした。自分の身体が洞窟になってそこを風が吹き抜けているようで、静かで心地よい落ち着きを感じた。
終わって着替えているとき、ある女の子に「人前で身体を使うって緊張しますね」と話しかけられた。彼女は、たぶん18くらい、化粧もしていない素朴な感じのかわいい子。わりと場慣れしているように見える子が多いなか、その子は緊張が身体の固さとなって現れていて、でもひたむきで、なんだか気になっていたのだ。
だからその子から思いがけず声かけられて、意外だったけどちょっと嬉しかったな。
緊張するよね。特にこのクラスは、メニューが決まってないし、私は実はむちゃくちゃ怖かったりする。そんな思いまでして、来ているなんて、業が深いっちゅうか。この人生で女優だの踊り子だのにはさすがになれないだろうけど、今やっとくと次に人間に生まれ変わったとき、なれるかも、の気がする。
またあざできたけど、やめられない。こういうことで得られるリアリティが私にはすごく大事だ。
それと、この先生は自分のこと「雑草」とか言っちゃってるし。えええ。私のなかでは人間国宝級なのに。今日も貴重なことを身体と言葉でいっぱい教えてくださっていた。おそろしいほど謙虚なんですけど、それはいいんですけど、あのあの音楽が私ちょっと。一昔前のラウンジで弾いているようなピアノ曲とかは…。せっかく始まる前にトッド・ラングレンとか流れていて今日は「おおっ」と思ったのに、クラスでは使うことなく。それで自宅に帰って続きを聴いている。
はじめに素敵な死体になって裏返ったり表返ったりというのを念入りにやる。ひっくり返っているうちに、みな背中だのお腹だのが見えてしまってかわいい。45分くらいこれをやっているうちに、ナチュラルハイになってきて、なぜかこの死体の練習(って自分がそう呼んでいるだけだけど)が、私はものすごく好きだ
ということがわかりました。人間(≒意味)から遠ざかれば遠ざかるほど、私は楽しいのかもしれない。
そして綱渡りのワーク。これは指示された一連の動きで一方の端からもう一方の端へと綱渡りをしているように見せる、というもの。人が綱渡りするのを見ていてふと、これは「そこにないもの(見えていないもの)を見せる」ということをしているのだろうか、と思った。
もし私の理解が正しいなら、それ(マイムというか身体表現)は書くことに似ている、とも思った。もっと言ってしまえば、「ないところにつくる(見せる)」というのは、創造なり表現ってつまりそういうことじゃないか…。というか、でも書くときは、見せようと意図して書くんじゃないけど、結果的に見えるようになっているときはうまくいっているような。
私は「指示された一連の動き」を頭に入れるのがすごく苦手で、これは「振り」を覚えるのとも違ってあわててしまうのだが、段取りとして記憶しようとするよりも映画みたいにして入れるのがいいのかなー、とも思った。私は自分が何をしようとしているのかが見えていない。やっている本人に見えていなければ、見ている人に見えるわけないです。
そのあと跳んだり転げたりしてへとへとになった。クールダウンのストレッチをしていると、自分の身体が不思議に軽い気がした。自分の身体が洞窟になってそこを風が吹き抜けているようで、静かで心地よい落ち着きを感じた。
終わって着替えているとき、ある女の子に「人前で身体を使うって緊張しますね」と話しかけられた。彼女は、たぶん18くらい、化粧もしていない素朴な感じのかわいい子。わりと場慣れしているように見える子が多いなか、その子は緊張が身体の固さとなって現れていて、でもひたむきで、なんだか気になっていたのだ。
だからその子から思いがけず声かけられて、意外だったけどちょっと嬉しかったな。
緊張するよね。特にこのクラスは、メニューが決まってないし、私は実はむちゃくちゃ怖かったりする。そんな思いまでして、来ているなんて、業が深いっちゅうか。この人生で女優だの踊り子だのにはさすがになれないだろうけど、今やっとくと次に人間に生まれ変わったとき、なれるかも、の気がする。
またあざできたけど、やめられない。こういうことで得られるリアリティが私にはすごく大事だ。
それと、この先生は自分のこと「雑草」とか言っちゃってるし。えええ。私のなかでは人間国宝級なのに。今日も貴重なことを身体と言葉でいっぱい教えてくださっていた。おそろしいほど謙虚なんですけど、それはいいんですけど、あのあの音楽が私ちょっと。一昔前のラウンジで弾いているようなピアノ曲とかは…。せっかく始まる前にトッド・ラングレンとか流れていて今日は「おおっ」と思ったのに、クラスでは使うことなく。それで自宅に帰って続きを聴いている。
Awakening Yoga
2006年6月4日 ダンスもの日曜にはありえない早起きをして、"Awakening"というヨガのワークショップに行ってみた。講師のYuko Sumida Jacksonさんは、M・ジャクソンなど有名アーティストなどのツアー、PVなどに参加する国際的なダンサー。ほかにモデルや劇団四季の講師もしておられる。スリムで顔ちっさ!女性的な魅力とかっこよさを兼ね備えたお姉さまです。
私はダンス雑誌で知ったのだが、先日テレビでとりあげられ、クラスの予約がばばばーと凄い勢いでうまったのだとか。人でぎゅうぎゅうなのがちょっとくるしい…。
2時間のうち、前半はカポエイラ、キックなど速い動きのエキササイズ。相当きついです。先生が「(身体の)軸を保って」ということを何度もおっしゃっていましたが、動きが速いので軸を探す間もなくよろよろしながらやります。もう30分くらいで既に汗だくになっている。
「軸」はダンスの基本。昨日のレッスンでも「自分で軸をとってバランスがとれるようになると楽。身体の重さをふっと感じなくなるポイントがあるから、そこが軸!」と言われた。ものすごくきつい状態で止まるのではなくて、ちょうどうまく上下のひっぱりの力が強すぎず弱すぎずでバランスがとれたところ…らしいのだが、必死に探してるんだけど、まだ見つからず。あともうちょっと、かもしれない。
Awakeningの後半はストレッチからリラクセーション。下半身(特にもも)にかなり効いてる感じ。最後、目を閉じてあお向けに横になって、深呼吸を繰り返すところで、Yuko先生が私の両肩を、胸を開くように押してくれたり、頭や首の後ろ側も押してくれてぽーっとなりました。そうなの、そこがいつも固まるのです!超うれしい。
もうちっと人数が落ち着いたところで、また今度は中級にも参加してみたいと思うけれども1回5000円というセレブなお値段なのがちょっと…。慣れてくればダンサー’s ヨガとして身体の調整によさそうです。スタジオは↓と、青山ベルコモンズにもクラスがあるそう。
余談ですが、ダンスのスタジオは天井の配管がむき出しになっているところがよくある。フロアに寝てこういう配管を見るのが私はなんか好き。
Studio Lotus 8
http://www.lotus8.co.jp
私はダンス雑誌で知ったのだが、先日テレビでとりあげられ、クラスの予約がばばばーと凄い勢いでうまったのだとか。人でぎゅうぎゅうなのがちょっとくるしい…。
2時間のうち、前半はカポエイラ、キックなど速い動きのエキササイズ。相当きついです。先生が「(身体の)軸を保って」ということを何度もおっしゃっていましたが、動きが速いので軸を探す間もなくよろよろしながらやります。もう30分くらいで既に汗だくになっている。
「軸」はダンスの基本。昨日のレッスンでも「自分で軸をとってバランスがとれるようになると楽。身体の重さをふっと感じなくなるポイントがあるから、そこが軸!」と言われた。ものすごくきつい状態で止まるのではなくて、ちょうどうまく上下のひっぱりの力が強すぎず弱すぎずでバランスがとれたところ…らしいのだが、必死に探してるんだけど、まだ見つからず。あともうちょっと、かもしれない。
Awakeningの後半はストレッチからリラクセーション。下半身(特にもも)にかなり効いてる感じ。最後、目を閉じてあお向けに横になって、深呼吸を繰り返すところで、Yuko先生が私の両肩を、胸を開くように押してくれたり、頭や首の後ろ側も押してくれてぽーっとなりました。そうなの、そこがいつも固まるのです!超うれしい。
もうちっと人数が落ち着いたところで、また今度は中級にも参加してみたいと思うけれども1回5000円というセレブなお値段なのがちょっと…。慣れてくればダンサー’s ヨガとして身体の調整によさそうです。スタジオは↓と、青山ベルコモンズにもクラスがあるそう。
余談ですが、ダンスのスタジオは天井の配管がむき出しになっているところがよくある。フロアに寝てこういう配管を見るのが私はなんか好き。
Studio Lotus 8
http://www.lotus8.co.jp
突き抜ける閃光、轟く雷鳴。プログレの曲名みたい。
夕方、会社で「個人情報保護法」の講義があった。ウィルスに感染すると、自分のぱその中身がいつのまにか「持ってけドロボー」状態に晒されてしまう、というお話は興味深かった。「山田オルタナティブ」という史上最強(ってシステムに詳しい人が言ってた)ウィルスの名前は果たしてかっこいいのか?とか。
あとは、違うことを考えていた。
自分の身体を使って表現するのが、実はいまだに恥ずかしい(というか、怖い)のに、それをしないと酸欠になってしまうという矛盾。身体表現する自分を自分で受けとめられない。言葉はまだごまかしが効くのだが、身体はあからさまだから怖い。しかしそれだからこそ、やってみて初めて自分にわかることもあったりする。
動くとき、踊るとき、自分を捨てる。ここまではたぶん正しい。でも「自分が嫌いだから捨てる」というのは違うんじゃないか、「ただ捨てる」っていうのとは…。
ローな感じにあるらしい友人がメールで「過食症のワークショップにでも行ったほうがいいかな」と書いてきたので、「それより癒しの旅に出たら? ハワイでイルカと泳ぐとか」って返したら「そういう発想ってなかったー」と得心したらしい返事が返ってきた。
はっ! おんなじことが自分にも言えるのでは。ダンスはダンスなんだった。修行じゃないんだから。
夕方、会社で「個人情報保護法」の講義があった。ウィルスに感染すると、自分のぱその中身がいつのまにか「持ってけドロボー」状態に晒されてしまう、というお話は興味深かった。「山田オルタナティブ」という史上最強(ってシステムに詳しい人が言ってた)ウィルスの名前は果たしてかっこいいのか?とか。
あとは、違うことを考えていた。
自分の身体を使って表現するのが、実はいまだに恥ずかしい(というか、怖い)のに、それをしないと酸欠になってしまうという矛盾。身体表現する自分を自分で受けとめられない。言葉はまだごまかしが効くのだが、身体はあからさまだから怖い。しかしそれだからこそ、やってみて初めて自分にわかることもあったりする。
動くとき、踊るとき、自分を捨てる。ここまではたぶん正しい。でも「自分が嫌いだから捨てる」というのは違うんじゃないか、「ただ捨てる」っていうのとは…。
ローな感じにあるらしい友人がメールで「過食症のワークショップにでも行ったほうがいいかな」と書いてきたので、「それより癒しの旅に出たら? ハワイでイルカと泳ぐとか」って返したら「そういう発想ってなかったー」と得心したらしい返事が返ってきた。
はっ! おんなじことが自分にも言えるのでは。ダンスはダンスなんだった。修行じゃないんだから。
(ダンスメモメモ:)
全身がつながって動けないこと。それなりの柔軟性があるのに、肩だけ動かして下半身が動かないなど、結果的に固い踊りになってしまう。意味ない。
上へ引き上げるベクトルと、下へふんばるベクトルの均衡がとれたところで動くように。上方向・下方向の両方の力が大事。
「引き上げながら沈む」
8時間デスクワークしても、自身について思うことはほとんどなんもないが、2時間なり1時間半でも身体を動かすと、できたできないに関わらず、自分のコアな部分について言葉を伴って気づくことができる。でも踊ると自分のかっこ悪いところばかりさらしているような気がするんですけど。いいところないの?
無駄な力が入ってる。力を抜きたい! 全身つなげたい!
*********
ソニアリキエルに行きましたらBAさんに薦められるままあれこれ買ってしまいましたわ。仕事の反動であろう。下地(これだけを買いに行ったつもりが…)、アイクリーム、グロス、アイシャドウ。
全身がつながって動けないこと。それなりの柔軟性があるのに、肩だけ動かして下半身が動かないなど、結果的に固い踊りになってしまう。意味ない。
上へ引き上げるベクトルと、下へふんばるベクトルの均衡がとれたところで動くように。上方向・下方向の両方の力が大事。
「引き上げながら沈む」
8時間デスクワークしても、自身について思うことはほとんどなんもないが、2時間なり1時間半でも身体を動かすと、できたできないに関わらず、自分のコアな部分について言葉を伴って気づくことができる。でも踊ると自分のかっこ悪いところばかりさらしているような気がするんですけど。いいところないの?
無駄な力が入ってる。力を抜きたい! 全身つなげたい!
*********
ソニアリキエルに行きましたらBAさんに薦められるままあれこれ買ってしまいましたわ。仕事の反動であろう。下地(これだけを買いに行ったつもりが…)、アイクリーム、グロス、アイシャドウ。
ひとしきり死体になって裏返ったり表返ったりする練習をする。身体の各パーツを個別に動かす練習をする。人間は複雑なつくりをしているのに、ひじだけ、とか手首だけとか、一ヶ所だけを動かすのは訓練しないとなかなか難しい。やはり人間は動物としてだめだめ?
それから「海に飛び込んで泳いで水面に浮上する」一連の動きを(マイムというか身体を使って)やってみることになった。
先生は「東尋坊#くらいの高さ#の崖から飛び込むと想像して」と言ったのであり、「自殺の名所から飛び込め」と言ったのではないのだが、私の頭はそっちのほうへ。「東尋坊へわざわざ行く人は泳ぎにいくんじゃないよ・なー」とどうしても思う。東尋坊から飛び込むときっと水が重たくて滝つぼに落ちたみたいに深く深く沈むだろう…と思うと気持ちよくなり浮き上がれなくなりました。先生に「大丈夫ですか」と言われる始末。
つまりこのワークがうまくできなかったのだが、↑は半ば言訳で、これをやらされてみて自分が「〜の真似をする(ふりをする)」のがとてつもなく苦手だというのがわかりました。こういうの人前でやるのすっごく恥ずかしい。それでもやろうとすると身体が内側からじわじわ凍結してきてぎこちないのがわかる(水道管?)
そもそもこのムーブメントクラスはベースがパントマイムなので、こういうことをやるのは当たり前。上手な人が多いし、それ以上に恥ずかしがったりせず素直にできている人ばかり。私こういうのツライ…本当に。
「意味ある動き」をする(→演技する)のがなんかとてつもなく恥ずかしい。踊りでも歌詞を表現した振りをつけられることはあるが、別に恥ずかしくない。それは「そのまんま」ではなく、いわば感情とか感覚を暗号化したものだから…かな?
私はこういうのより、身体を床に投げ出す(倒れる)ほうが好きだ。余裕があるときはそれも怖いと思うけど、今日はむしろ床にがんがん自分をぶっつけたいような心境だった。
身を滅ぼすことができないなら、自分の頭のなかにあるものすべてくずかごにぶちまけたい。もう何も入れたくない。こういう場にさらされるとやっぱり何が嫌って自分が自分であることが嫌なんだろうなと思う。なんでこういつまでも自分をもてあますのか。
つらいやつも(つらいからこそ)何か得るところがあるだろうと思って続けますが、なにギリギリなことやってんだか私。でもなんかこの時間になって、やっとしゃっきりしてくるんだよな。収入を得られる活動である日中の仕事よりも、(情けないなりに)まだリアリティがある。
クラスの最後のほうで使った80年代テクノ風の音楽が耳について気持ち悪。自分では向こう見ずに床に倒れたつもりだったけど、帰って自分の身体を見たらそれほど痛んでない。捨て方がまだ足りない。
それから「海に飛び込んで泳いで水面に浮上する」一連の動きを(マイムというか身体を使って)やってみることになった。
先生は「東尋坊#くらいの高さ#の崖から飛び込むと想像して」と言ったのであり、「自殺の名所から飛び込め」と言ったのではないのだが、私の頭はそっちのほうへ。「東尋坊へわざわざ行く人は泳ぎにいくんじゃないよ・なー」とどうしても思う。東尋坊から飛び込むときっと水が重たくて滝つぼに落ちたみたいに深く深く沈むだろう…と思うと気持ちよくなり浮き上がれなくなりました。先生に「大丈夫ですか」と言われる始末。
つまりこのワークがうまくできなかったのだが、↑は半ば言訳で、これをやらされてみて自分が「〜の真似をする(ふりをする)」のがとてつもなく苦手だというのがわかりました。こういうの人前でやるのすっごく恥ずかしい。それでもやろうとすると身体が内側からじわじわ凍結してきてぎこちないのがわかる(水道管?)
そもそもこのムーブメントクラスはベースがパントマイムなので、こういうことをやるのは当たり前。上手な人が多いし、それ以上に恥ずかしがったりせず素直にできている人ばかり。私こういうのツライ…本当に。
「意味ある動き」をする(→演技する)のがなんかとてつもなく恥ずかしい。踊りでも歌詞を表現した振りをつけられることはあるが、別に恥ずかしくない。それは「そのまんま」ではなく、いわば感情とか感覚を暗号化したものだから…かな?
私はこういうのより、身体を床に投げ出す(倒れる)ほうが好きだ。余裕があるときはそれも怖いと思うけど、今日はむしろ床にがんがん自分をぶっつけたいような心境だった。
身を滅ぼすことができないなら、自分の頭のなかにあるものすべてくずかごにぶちまけたい。もう何も入れたくない。こういう場にさらされるとやっぱり何が嫌って自分が自分であることが嫌なんだろうなと思う。なんでこういつまでも自分をもてあますのか。
つらいやつも(つらいからこそ)何か得るところがあるだろうと思って続けますが、なにギリギリなことやってんだか私。でもなんかこの時間になって、やっとしゃっきりしてくるんだよな。収入を得られる活動である日中の仕事よりも、(情けないなりに)まだリアリティがある。
クラスの最後のほうで使った80年代テクノ風の音楽が耳について気持ち悪。自分では向こう見ずに床に倒れたつもりだったけど、帰って自分の身体を見たらそれほど痛んでない。捨て方がまだ足りない。
稽古とは床掃除も兼ねるものなり
2006年5月15日 ダンスものアユーラのコロン、ちっちゃいサイズのがあればいいのにな…と思いながらアユーラの前を通りかかったら、まさにそのちっちゃいコロンが入った「なんたらキット」(名前忘れた)があったので衝動買い。なんちゅうタイミングのよさだ。
はじめのクラスのレッスンは、クラブジャズ風の振り。こういうのが苦手だと思っていたけど、まあまあついていけてた。前より引き出しが増えたかも。後半はビョークで床を這いずり回る。こうしてわたしたちがレッスンしつつ捨て身でスタジオの掃除…。でも今日は「立てた」感じが数回かあった。完璧ではないけれど、芯の部分で身体の軸ができたような感じ。まだ少しだけど、嬉嬉。
レッスン終わって外に出たら、夜道に花の香りが強くした。薔薇かな。
はじめのクラスのレッスンは、クラブジャズ風の振り。こういうのが苦手だと思っていたけど、まあまあついていけてた。前より引き出しが増えたかも。後半はビョークで床を這いずり回る。こうしてわたしたちがレッスンしつつ捨て身でスタジオの掃除…。でも今日は「立てた」感じが数回かあった。完璧ではないけれど、芯の部分で身体の軸ができたような感じ。まだ少しだけど、嬉嬉。
レッスン終わって外に出たら、夜道に花の香りが強くした。薔薇かな。
荒野の一匹、月に吠える
2006年5月11日 ダンスもの仕事中、やるせなくなるポイントは午前と午後に各1回ずつあることを発見しました。この時間さえやり過ごせばだいじょうぶ(のはず)。
今日は砂漠の骨ならぬ荒野の一匹、2週間ぶりにムーブメントのクラスへ行く。このクラスがないと青あざつくれなくて寂しい。いつものジャズダンスのレッスンにしてもそうだが、行く前から「♪」な気分でいるわけではない。私はちょっとしたことで、心と身体の連携がうまくいかなくなったりする。身体を投げ出す、ということにびびっている。それを稽古場へ行きぎりぎりになって「えーい、しょうがない、やるか!」と覚悟を決めるのだ。今日のようにあらかじめ何をやるかがわからない場合は特にそうだ。
稽古場に行ってみると、なんと先生自ら会計をしているではないですか。滅相もない。じょ、助手はどうした(いつもはいる)?!。この先生は相当にすごい人(…というのが今頃になってわかってきた私)なのに、こういうことをいとわない。気さくで誠実で、本当にいい人。
先生の手と足を盗み見る。大きくて分厚くて、すっきりとしている。使い込まれているけれど、手入れが行き届いているというような。さわってみたい。先生が手本を見せると、頭からつま先まで実質がある、というか、どこも切れずにつながっているのがわかる。ここに来ている若い子たちは、自分の身体のつながらさ加減に気づいているだろうか。ここまではいかなくとも、私もちゃんと全身つながって、すべての細胞が目覚めた身体で動けるようになりたい。
今日はわりと抜いて動き、捨てられたような気がする(必死の形相でやっているわけだけど)。身体を使う時間をもたないと、私は滞ってしまうから、「何を」だかわからないけど、あちこちの踊り場で捨ててくる。
クラスが終わったあとの煙草がうまい。それに西新宿の夜景がきれい。今夜は月も出ている。身体を動かすと、何かをふっきれたかのような爽快感が残る。
オアシスに水を求めるように、踊り場から踊り場へとさすらう一匹。いつまでもこんなでいいんだろうか。でも荒野は結局のところ一匹で行くのだ、と思う。一匹で行く者にもそれなりの褒美はあるようのではないでしょうか。帰り道、砂漠だの荒野だのを思っていたら、映画「バグダッド・カフェ」のあの曲が聴きたくなった。
今日は砂漠の骨ならぬ荒野の一匹、2週間ぶりにムーブメントのクラスへ行く。このクラスがないと青あざつくれなくて寂しい。いつものジャズダンスのレッスンにしてもそうだが、行く前から「♪」な気分でいるわけではない。私はちょっとしたことで、心と身体の連携がうまくいかなくなったりする。身体を投げ出す、ということにびびっている。それを稽古場へ行きぎりぎりになって「えーい、しょうがない、やるか!」と覚悟を決めるのだ。今日のようにあらかじめ何をやるかがわからない場合は特にそうだ。
稽古場に行ってみると、なんと先生自ら会計をしているではないですか。滅相もない。じょ、助手はどうした(いつもはいる)?!。この先生は相当にすごい人(…というのが今頃になってわかってきた私)なのに、こういうことをいとわない。気さくで誠実で、本当にいい人。
先生の手と足を盗み見る。大きくて分厚くて、すっきりとしている。使い込まれているけれど、手入れが行き届いているというような。さわってみたい。先生が手本を見せると、頭からつま先まで実質がある、というか、どこも切れずにつながっているのがわかる。ここに来ている若い子たちは、自分の身体のつながらさ加減に気づいているだろうか。ここまではいかなくとも、私もちゃんと全身つながって、すべての細胞が目覚めた身体で動けるようになりたい。
今日はわりと抜いて動き、捨てられたような気がする(必死の形相でやっているわけだけど)。身体を使う時間をもたないと、私は滞ってしまうから、「何を」だかわからないけど、あちこちの踊り場で捨ててくる。
クラスが終わったあとの煙草がうまい。それに西新宿の夜景がきれい。今夜は月も出ている。身体を動かすと、何かをふっきれたかのような爽快感が残る。
オアシスに水を求めるように、踊り場から踊り場へとさすらう一匹。いつまでもこんなでいいんだろうか。でも荒野は結局のところ一匹で行くのだ、と思う。一匹で行く者にもそれなりの褒美はあるようのではないでしょうか。帰り道、砂漠だの荒野だのを思っていたら、映画「バグダッド・カフェ」のあの曲が聴きたくなった。
去年の今頃はスタジオジプシーになっていたが、今は週に3〜4回のレッスンを確保できるという恵まれた環境にある。前にも書いたかもしれないけど書いておこう。ありがとうございます。月曜の2クラスセットは(へろへろになるけど、睡眠時間も減るけど)すごく良い。
今日は2つめのレッスンで使った曲がビョークだった。何年か前に某スタジオへ見学に行ったとき、たまたまそこの先生が使っていた曲もビョークで、そのときは「げー、むつかしそう」と思うだけで、自分も踊りたいとは思わなかった。けれども今日は、重さをもって流れる振りで、こういう曲を踊れることが自分の気持ちと合って楽しかった。でも、まだまだ先、あるいはほんのちょっと先に、自分の枠をとっぱらってもっともっと大きく動けるところがあるような感じもするのだった。
今日は2つめのレッスンで使った曲がビョークだった。何年か前に某スタジオへ見学に行ったとき、たまたまそこの先生が使っていた曲もビョークで、そのときは「げー、むつかしそう」と思うだけで、自分も踊りたいとは思わなかった。けれども今日は、重さをもって流れる振りで、こういう曲を踊れることが自分の気持ちと合って楽しかった。でも、まだまだ先、あるいはほんのちょっと先に、自分の枠をとっぱらってもっともっと大きく動けるところがあるような感じもするのだった。
日当たりがよいせいか、台所の鉢植えアイヴィが蔓々(つるつる)してきてしまった。何か巻きつくものを探しているようなんだけど…ここで繁られてもちょと困る。
レッスンに行ったら曲がフィリーソウルの何か(カバーもの)だった。振りは入ったけど、ターンがやっぱりひけてしまう。
「次でターン(ピルエット)」と思うと、無意識に慌ててしまい、身体が固くなってしまう(肩があがるなど)。ピルエットというのは片足爪先立ちの状態で回るのだが、私は本当はこれが「怖い」。How-toは頭に入っているはずなのに、怖いと思いながら練習を続けていると、なおうまくいかない。考えていてもできないから、でもやるんだけど。
床に倒れてみたりするワークも私は怖いと感じるので、転ぶことが怖いのだろうか。転んで痛い思いをすることが? 大人になってからはほとんど転んでない。転んで痛い思いをしたとしても、それはずっとずっと前(子どもの頃)のはず。
「怖い」という感情にとらわれないようにしているつもりで、寸前でやっぱりきゅっと怖くなる。この「怖さ」をどうしたらいいのだろうか。どうもしなくていいのだろうか。
ダブルで焦るから、シングル(一回転)を確実にできるように、きれいに上に立てるよう、重点的にやってみようか…。
レッスンに行ったら曲がフィリーソウルの何か(カバーもの)だった。振りは入ったけど、ターンがやっぱりひけてしまう。
「次でターン(ピルエット)」と思うと、無意識に慌ててしまい、身体が固くなってしまう(肩があがるなど)。ピルエットというのは片足爪先立ちの状態で回るのだが、私は本当はこれが「怖い」。How-toは頭に入っているはずなのに、怖いと思いながら練習を続けていると、なおうまくいかない。考えていてもできないから、でもやるんだけど。
床に倒れてみたりするワークも私は怖いと感じるので、転ぶことが怖いのだろうか。転んで痛い思いをすることが? 大人になってからはほとんど転んでない。転んで痛い思いをしたとしても、それはずっとずっと前(子どもの頃)のはず。
「怖い」という感情にとらわれないようにしているつもりで、寸前でやっぱりきゅっと怖くなる。この「怖さ」をどうしたらいいのだろうか。どうもしなくていいのだろうか。
ダブルで焦るから、シングル(一回転)を確実にできるように、きれいに上に立てるよう、重点的にやってみようか…。
早く寝たほうがいいけれど思いついたことを書いとく。
2006年5月1日 ダンスもの身体を動かす場があって嬉しいのは、身体が目覚めるということと、時によってはいつもとは違う思考回路が開ける、ということがある。
何年か前にポエトリー・リーディング(@某カフェ)に行ったとき、男の子の書く詩にラップっぽいのが多かったのが印象的だった。言葉が音楽に憧れてる、と思った。でも片思いではだめなのよね、とも。
前回のムーブメントクラスについて書いた日記に、「動きとは無関係に品のいい音楽がかかっているのが冷淡でイカス!」というようなことを書いたが、それは皮肉ではない。
いつものダンスのレッスンだと、音楽があって動き(振り)があるので、身体が音楽によりそう、というか、身体が音楽になれれば上出来なのだが、どうしても「音楽あっての身体」ということになる。
身体にも身体の音楽だとか流れというものがある(と思う)ので、音楽より先に身体があっていいはずだし、主=従という以外の音楽=身体関係もあるはずだと思う。そういう意味で、音楽も身体も勝手に存在している(ようでいながら、たまに幸せなすれ違いがあったりするような)ムーブメントクラスの在り方は面白いと思うのだ。
身体の音楽には―「感情」という旋律が含まれるのであり、そこで言葉と身体は出会うのではないかしら。
私は、自分の身体の流れをブロックさせるものと、言葉の流れをブロックさせるものの正体は同じだと思う。身体をほどきつつ言葉もほどきつつ、同じように自由にしてあげたい。
5月からスタジオのプログラムが変更になり、「ターン&ジャンプ」のかわりに「ジャズ」のクラスになった。この先生(女性)がちょっとスイマーぽく筋肉質の、かっこいい方。初回は出てみて、クラブジャズっぽいのだったら来週はやめよう(2コマ連続はきついから)…と思っていたのだが、今日のコンテンポラリーぽいのから、幅広く振りをつけてくれそう。しかも表現重視でさばさばと男らしい教え方!なんだか惚れたわ。しばらくついていってみよう。
そのレッスンの後も別の先生(男性)によるレッスンを受けた。スタジオの鏡は熱気で曇り、床は汗でぬれている。なんてスポ魂のわたしたち。そして帰ってフェイタス貼りまくりの私。
何年か前にポエトリー・リーディング(@某カフェ)に行ったとき、男の子の書く詩にラップっぽいのが多かったのが印象的だった。言葉が音楽に憧れてる、と思った。でも片思いではだめなのよね、とも。
前回のムーブメントクラスについて書いた日記に、「動きとは無関係に品のいい音楽がかかっているのが冷淡でイカス!」というようなことを書いたが、それは皮肉ではない。
いつものダンスのレッスンだと、音楽があって動き(振り)があるので、身体が音楽によりそう、というか、身体が音楽になれれば上出来なのだが、どうしても「音楽あっての身体」ということになる。
身体にも身体の音楽だとか流れというものがある(と思う)ので、音楽より先に身体があっていいはずだし、主=従という以外の音楽=身体関係もあるはずだと思う。そういう意味で、音楽も身体も勝手に存在している(ようでいながら、たまに幸せなすれ違いがあったりするような)ムーブメントクラスの在り方は面白いと思うのだ。
身体の音楽には―「感情」という旋律が含まれるのであり、そこで言葉と身体は出会うのではないかしら。
私は、自分の身体の流れをブロックさせるものと、言葉の流れをブロックさせるものの正体は同じだと思う。身体をほどきつつ言葉もほどきつつ、同じように自由にしてあげたい。
5月からスタジオのプログラムが変更になり、「ターン&ジャンプ」のかわりに「ジャズ」のクラスになった。この先生(女性)がちょっとスイマーぽく筋肉質の、かっこいい方。初回は出てみて、クラブジャズっぽいのだったら来週はやめよう(2コマ連続はきついから)…と思っていたのだが、今日のコンテンポラリーぽいのから、幅広く振りをつけてくれそう。しかも表現重視でさばさばと男らしい教え方!なんだか惚れたわ。しばらくついていってみよう。
そのレッスンの後も別の先生(男性)によるレッスンを受けた。スタジオの鏡は熱気で曇り、床は汗でぬれている。なんてスポ魂のわたしたち。そして帰ってフェイタス貼りまくりの私。
レッスンに向かいながら、またその帰りにふと思ったこと。
一年前の今ごろは、長年通ったレッスンがクローズしてしまい心もとない気持ちだったが、今は幸いにしてかなり恵まれたダンス環境にあると思う。素直に嬉しく、ありがたい。
できないことも、しりごみしていることもまだまだ多いけれど、自分の身体を投げ出したり、自分の身体に意識を向け、探ったりしながら、動く場所をあちらこちらに与えられていることに感謝します。そして私が踊りを続け、生活の中心にすることを支えてくれているすべてに、巡りあわせに感謝します。ずっと長いあいだ痛めつけ、顧みないできたのに、ついてきてくれるわたしの身体に感謝します。ほんとうにありがとう。これからも一緒にやっていこうね。
一年前の今ごろは、長年通ったレッスンがクローズしてしまい心もとない気持ちだったが、今は幸いにしてかなり恵まれたダンス環境にあると思う。素直に嬉しく、ありがたい。
できないことも、しりごみしていることもまだまだ多いけれど、自分の身体を投げ出したり、自分の身体に意識を向け、探ったりしながら、動く場所をあちらこちらに与えられていることに感謝します。そして私が踊りを続け、生活の中心にすることを支えてくれているすべてに、巡りあわせに感謝します。ずっと長いあいだ痛めつけ、顧みないできたのに、ついてきてくれるわたしの身体に感謝します。ほんとうにありがとう。これからも一緒にやっていこうね。
もっと、自分の捨て方
2006年4月20日 ダンスものムーブメントのクラス、すごーくおもしろい。あちこち赤黒くなりましたが。今日はわりと自分が抜けた感があるせいか、楽しかった。身体を動かすとはいえ、いつも受けているようなレッスンとは違うし、何をやらされるんだろう?と毎回どきどきではあるけど、いろいろ思うこと、気づくことがあって刺激になる。それらをメモメモ:
*・*・*・*・*
私たちは殺害現場に残された素敵な死体の人型(チョークで型どってあるようなやつ)のように床に転がった。ただ寝転がっているだけではなく、ひじとか肩とか、あるポイントを決めてそこを軸にしてうつぶせになったり、仰向けになったりする。どたどた裏返っているうちに、「あるポイントに力を入れる」ということは、「それ以外の身体の部分は力を抜く」ということであるのにはっと気づいた。今まで私はあるポイントに力を入れようとして、他の部分にもっと力を入れていたような。抜いたらちょっと気が楽になりやりやすくなった。
*・*・*・*・*
なんだか身体と気持ちが先週と違う感じになった。自分の身体というのは「子ども」。考える大人の(日常の)自分ではなく、その子どもに任せて動く。動きやすい。軽い。自分が抜けるというのはこういうモードなのかな。この先にニュートラルがあるような気がする。いい感じだった。
*・*・*・*・*
このクラスは静かにきっつい腹筋をやってるときも、歩いているときも、跳んでいるときも、バックグラウンドに「ジェットストリーム」だとか「ミッドナイト・ジャズ」みたいな品のいい音楽があくまで動きとは#無関係#に流れている。そのあまりの「関係なさ」がむしろ薄情でなんかいいんですけど。
*・*・*・*・*
この先生は動きが無形文化財的にすごいのに(「のに」というか「に加えて」?)、言うことがおもしろ過ぎる。今週、割り当てられた教室が前とは違って蛍光灯でぱーっと白っぽく明るくなって雰囲気変わったのを「カルチャーセンターみたいですね」だって。言い得て妙。「腕のところがいーっとなる(張る)」とか。擬音がおもしろい。メモメモ。
*・*・*・*・*
私の情報処理機能はしょぼい。すぐ量に圧倒される。実は本も大して読んでいないし。「演劇」は情報の量が多すぎると感じる。特に文字情報(つまりセリフ)が多すぎて私には処理しきれない。苦手だ。「ダンス」は情報の量として質として、自分に合ってると思う。
あくまで私の今日の思いつきで、表現のジャンルをフィクションにあてはめるとこんな感じ。
演劇→あくまで散文。
ダンス→韻文。ときに散文になりたい韻文。
マイム→韻文がかった散文。
前に大好きカンパニー「ローザス」の作品で、男女が会話するように踊るアダージオを(フィルムで)観た。かっこよかった。私が好きなのは(狙っているところは)、「散文がかった韻文」なんだと思う。
*・*・*・*・*
クラスには、アクターとかダンサーとか、表現職についているか目指している感じの若い子が多くて、若いというだけでも大変なのに、その職で食っていこうとすると、いろいろぐちゃぐちゃと大変なんだろうなあと思う。中年も中年なりに大変ですけど。
*・*・*・*・*
次回は連休明けになってしまうそうで、くすん。少し慣れてきたのに。私は情の入らないテクニカルな文章はそれはそれで好きだ。少し翻訳しよう。
*・*・*・*・*
私たちは殺害現場に残された素敵な死体の人型(チョークで型どってあるようなやつ)のように床に転がった。ただ寝転がっているだけではなく、ひじとか肩とか、あるポイントを決めてそこを軸にしてうつぶせになったり、仰向けになったりする。どたどた裏返っているうちに、「あるポイントに力を入れる」ということは、「それ以外の身体の部分は力を抜く」ということであるのにはっと気づいた。今まで私はあるポイントに力を入れようとして、他の部分にもっと力を入れていたような。抜いたらちょっと気が楽になりやりやすくなった。
*・*・*・*・*
なんだか身体と気持ちが先週と違う感じになった。自分の身体というのは「子ども」。考える大人の(日常の)自分ではなく、その子どもに任せて動く。動きやすい。軽い。自分が抜けるというのはこういうモードなのかな。この先にニュートラルがあるような気がする。いい感じだった。
*・*・*・*・*
このクラスは静かにきっつい腹筋をやってるときも、歩いているときも、跳んでいるときも、バックグラウンドに「ジェットストリーム」だとか「ミッドナイト・ジャズ」みたいな品のいい音楽があくまで動きとは#無関係#に流れている。そのあまりの「関係なさ」がむしろ薄情でなんかいいんですけど。
*・*・*・*・*
この先生は動きが無形文化財的にすごいのに(「のに」というか「に加えて」?)、言うことがおもしろ過ぎる。今週、割り当てられた教室が前とは違って蛍光灯でぱーっと白っぽく明るくなって雰囲気変わったのを「カルチャーセンターみたいですね」だって。言い得て妙。「腕のところがいーっとなる(張る)」とか。擬音がおもしろい。メモメモ。
*・*・*・*・*
私の情報処理機能はしょぼい。すぐ量に圧倒される。実は本も大して読んでいないし。「演劇」は情報の量が多すぎると感じる。特に文字情報(つまりセリフ)が多すぎて私には処理しきれない。苦手だ。「ダンス」は情報の量として質として、自分に合ってると思う。
あくまで私の今日の思いつきで、表現のジャンルをフィクションにあてはめるとこんな感じ。
演劇→あくまで散文。
ダンス→韻文。ときに散文になりたい韻文。
マイム→韻文がかった散文。
前に大好きカンパニー「ローザス」の作品で、男女が会話するように踊るアダージオを(フィルムで)観た。かっこよかった。私が好きなのは(狙っているところは)、「散文がかった韻文」なんだと思う。
*・*・*・*・*
クラスには、アクターとかダンサーとか、表現職についているか目指している感じの若い子が多くて、若いというだけでも大変なのに、その職で食っていこうとすると、いろいろぐちゃぐちゃと大変なんだろうなあと思う。中年も中年なりに大変ですけど。
*・*・*・*・*
次回は連休明けになってしまうそうで、くすん。少し慣れてきたのに。私は情の入らないテクニカルな文章はそれはそれで好きだ。少し翻訳しよう。
レッスン2つ。力み過ぎ、焦りまくり…で熱意はあるものの、安定した動きにつながらない。緊張しいでびびりやすい身体の私は人一倍どころでなく人百倍やらないとだめなのかー。私の身体にもどっかいいところあるのかな。
その後の自分の捨て方
2006年4月13日 ダンスものムーブメントクラスの2回目。小学校だった建物をそのまま活用している施設(芸能花伝舎)せいか、なんだか「部活」みたい。
私たちは素敵な死体…じゃなくて、浜辺に打ち寄せられた大量発生のウミウシみたいに身体をぺたりぺたりと転がしながら移動したりしました。それから、「バーチャル犬の散歩」でとんでもない方向にひっぱられる、というのをやり、その応用をいろいろやり最後は「走って、ある場所でけつまずく。何につまずいたのか振り向いて見る。自分をつまずかせたブツを拾って一息つく。それからいろんな方向へひっぱられまくって、自分で最後を決めてはける」というピースをやりました。
こういうのは(身体の限られた一部だけを動かすようなを地道なエキササイズも含めて)できるようになると、踊りにものすごく役立つだろうな〜と憧れる。こんなに自分の身体(と意識)が使えたらどんなにいいだろうか…。 でもできないんだよな。そのかたちができない、というより、身体も心も緊張する自分にじたばたした。
前にも書いたかもしれないが、私はダンスやパフォーマンスにもっとも向いていないタイプだと思う。自意識過剰だから、自分が人目に晒されるというだけでパニックになるし、身体がきゅっと固くなるし、視野が狭くなる。「見られること」を意識しなければ、できるようなことでも、できなくなってしまったりする。
「書く」ことも、自分を「さ ら す」ことになるのは同じ。なのに、人前で自分を晒して動く(踊る)ことにあわあわしてしまうのは、書くことよりも動くことのほうがずっと無防備で、自分が丸見えになってしまうような気がするからだ。書くほうは、まだコントロールがきく。そのコントロールもききすぎるとうつくしくなくなるのではあるが…。
ああめんどくさい。しかし、頭が重たい(考え過ぎる)からこそ、自分で自分を損ないがちであるからこそ、身体を動かすことが私には必要。
なんか今日はこういう、根っからの自分の重たさを感じてへこんだ。悔しい。いっつもこんなだ。もっともっと身軽になりたい。要らないものまだまだ持ってる。何も考えられなくなるくらい、がんがん身体を使い倒したい。
いつまでもこんなこと言ってる。でも「捨てなさい!」と叱咤するのは違うような気がする。自分を急かして、慌てさせている人はずっと前から自分の内にいる。自分で自分に落ちつきを与える。そのほうが軽くなるのかもしれない。のびのびと動きやすくなるのかもしれない。
もういいかげんに、どどーんとした身体表現者になりたいよ。いつか生まれ変わって人間になったら、こんどは最初から踊り子でお願いします。素面で生きていくのは大変だ・なー。
私たちは素敵な死体…じゃなくて、浜辺に打ち寄せられた大量発生のウミウシみたいに身体をぺたりぺたりと転がしながら移動したりしました。それから、「バーチャル犬の散歩」でとんでもない方向にひっぱられる、というのをやり、その応用をいろいろやり最後は「走って、ある場所でけつまずく。何につまずいたのか振り向いて見る。自分をつまずかせたブツを拾って一息つく。それからいろんな方向へひっぱられまくって、自分で最後を決めてはける」というピースをやりました。
こういうのは(身体の限られた一部だけを動かすようなを地道なエキササイズも含めて)できるようになると、踊りにものすごく役立つだろうな〜と憧れる。こんなに自分の身体(と意識)が使えたらどんなにいいだろうか…。 でもできないんだよな。そのかたちができない、というより、身体も心も緊張する自分にじたばたした。
前にも書いたかもしれないが、私はダンスやパフォーマンスにもっとも向いていないタイプだと思う。自意識過剰だから、自分が人目に晒されるというだけでパニックになるし、身体がきゅっと固くなるし、視野が狭くなる。「見られること」を意識しなければ、できるようなことでも、できなくなってしまったりする。
「書く」ことも、自分を「さ ら す」ことになるのは同じ。なのに、人前で自分を晒して動く(踊る)ことにあわあわしてしまうのは、書くことよりも動くことのほうがずっと無防備で、自分が丸見えになってしまうような気がするからだ。書くほうは、まだコントロールがきく。そのコントロールもききすぎるとうつくしくなくなるのではあるが…。
ああめんどくさい。しかし、頭が重たい(考え過ぎる)からこそ、自分で自分を損ないがちであるからこそ、身体を動かすことが私には必要。
なんか今日はこういう、根っからの自分の重たさを感じてへこんだ。悔しい。いっつもこんなだ。もっともっと身軽になりたい。要らないものまだまだ持ってる。何も考えられなくなるくらい、がんがん身体を使い倒したい。
いつまでもこんなこと言ってる。でも「捨てなさい!」と叱咤するのは違うような気がする。自分を急かして、慌てさせている人はずっと前から自分の内にいる。自分で自分に落ちつきを与える。そのほうが軽くなるのかもしれない。のびのびと動きやすくなるのかもしれない。
もういいかげんに、どどーんとした身体表現者になりたいよ。いつか生まれ変わって人間になったら、こんどは最初から踊り子でお願いします。素面で生きていくのは大変だ・なー。