ダンスの発表会が終わりました。終わっちゃった。ゲネ以外に通しリハもやらず、ひょえーこれで本番、大丈夫なの?とハラハラしていたが、大きなミスも怪我もなく終わったのはかなり運も手伝ったと言っていいんじゃないの。友人や一緒にレッスン受けてるダンス友が観に来てくれた。ありがとうございます。私たちの謎のナンバー含めて、それぞれに楽しんでもらえたようでよかった。
謎ナンバーは5分ちょっとあるのに実はダンスが少なくて、歩いたり転がったり壁を打ち破ったり…というわりと個人任せの要素が多いもので、先生も「イチかバチか」みたいなこと言っていたけど、まあよかったようです。効果のおかげもあって、照明さんアリガトー。
夜公演のとき、あることが起こった。それが今回の公演で私にとってはいちばん大きな意味があることかもしれない。
小道具で、各自がグラスに入れたキャンドル(電池式で炎に似せたあかりがつくようになっているもの)をもって出てくるのだが、私の正面に立った子のキャンドルがつかない。電池切れらしい。
あかりがつかないと気づいた彼女が、がくっと頭を垂れて、動揺しているように私には見えた(あとで本人に聞いたら、「キャンドルを隠そうとしていた」だけだったそうなので、まったく私の勘違いなんだけど…)。小道具が使えなくなったりするのは、舞台でままある類のアクシデントだと思う。ただ、彼女は昼の部であまりうまく踊れなかったみたいなことを言っていたので、これでがくっと崩れるとまずいなと思い、ちょっと(2エイトくらい)考えて、おせっかいだとしてもそうしたほうが舞台のこの場では絶対にいいように思えて、自分のキャンドルと彼女のを取り替えた。それであと4拍遅れたら、自分のソロに入るタイミングだったので危ないところだった。
私は「出過ぎたことをしたかもしれない」と思ったが、あとで彼女には感謝された。私はろうそくついてなくても踊れると思ったし、このことのせいかどうかはわからないけれど、夜の部のほうが思いきりできたと思う。
先生もその子が話さなかったら気づいていなかったそうだし、一緒に舞台に乗っていた人たちも気づいていないし、夜の部を観た友人たちからも何も言われなかったので気づいていないのだと思う。そもそもこれは「気づかれない」(ほうが望ましい)ことなのだ。
私は自分がとっさに動けたことが、なんかうれしいな。きちんと踊る、という以外に、こういう種類の体験が舞台でできた、というのは、自分のことだけでなく仲間に目を向けられたというのは、すごく自分にとって意味がある気がする。
でもさ、やっぱりそうは言っても気づかれる存在ではありたいけど。遠まきにされる存在でいるのはかなしい。
ここのスタジオ(いつも行ってるところとは別)は良くも悪くも家庭的で、発表会のマネージメントに手が回ってないことでいらいらしたりもした(ふつう出演者にドア係とかさせないと思う…。やったんですけど)。
そういう違和感もあってか、なんだかぽつんとしたような、取り残された気分になっている。若くてかわいい、とか、いやただ若いってだけでいいし、それに若くなくても明るければずいぶん違うのに、とか、おおぜいの人のなかにいて思う。私の存在、無駄が多いよ。自分を見てもらって当然と思える人と、自分は人に見てもらえないと思う人では生き残りやすさがずいぶん違うだろう。ああそうだ、髪を結構、切ったのに誰にも気づかれてないよー!
謎ナンバーは5分ちょっとあるのに実はダンスが少なくて、歩いたり転がったり壁を打ち破ったり…というわりと個人任せの要素が多いもので、先生も「イチかバチか」みたいなこと言っていたけど、まあよかったようです。効果のおかげもあって、照明さんアリガトー。
夜公演のとき、あることが起こった。それが今回の公演で私にとってはいちばん大きな意味があることかもしれない。
小道具で、各自がグラスに入れたキャンドル(電池式で炎に似せたあかりがつくようになっているもの)をもって出てくるのだが、私の正面に立った子のキャンドルがつかない。電池切れらしい。
あかりがつかないと気づいた彼女が、がくっと頭を垂れて、動揺しているように私には見えた(あとで本人に聞いたら、「キャンドルを隠そうとしていた」だけだったそうなので、まったく私の勘違いなんだけど…)。小道具が使えなくなったりするのは、舞台でままある類のアクシデントだと思う。ただ、彼女は昼の部であまりうまく踊れなかったみたいなことを言っていたので、これでがくっと崩れるとまずいなと思い、ちょっと(2エイトくらい)考えて、おせっかいだとしてもそうしたほうが舞台のこの場では絶対にいいように思えて、自分のキャンドルと彼女のを取り替えた。それであと4拍遅れたら、自分のソロに入るタイミングだったので危ないところだった。
私は「出過ぎたことをしたかもしれない」と思ったが、あとで彼女には感謝された。私はろうそくついてなくても踊れると思ったし、このことのせいかどうかはわからないけれど、夜の部のほうが思いきりできたと思う。
先生もその子が話さなかったら気づいていなかったそうだし、一緒に舞台に乗っていた人たちも気づいていないし、夜の部を観た友人たちからも何も言われなかったので気づいていないのだと思う。そもそもこれは「気づかれない」(ほうが望ましい)ことなのだ。
私は自分がとっさに動けたことが、なんかうれしいな。きちんと踊る、という以外に、こういう種類の体験が舞台でできた、というのは、自分のことだけでなく仲間に目を向けられたというのは、すごく自分にとって意味がある気がする。
でもさ、やっぱりそうは言っても気づかれる存在ではありたいけど。遠まきにされる存在でいるのはかなしい。
ここのスタジオ(いつも行ってるところとは別)は良くも悪くも家庭的で、発表会のマネージメントに手が回ってないことでいらいらしたりもした(ふつう出演者にドア係とかさせないと思う…。やったんですけど)。
そういう違和感もあってか、なんだかぽつんとしたような、取り残された気分になっている。若くてかわいい、とか、いやただ若いってだけでいいし、それに若くなくても明るければずいぶん違うのに、とか、おおぜいの人のなかにいて思う。私の存在、無駄が多いよ。自分を見てもらって当然と思える人と、自分は人に見てもらえないと思う人では生き残りやすさがずいぶん違うだろう。ああそうだ、髪を結構、切ったのに誰にも気づかれてないよー!
もう2月。会社でチリチリしている私。大したストレスでないように思えるが示唆的でもあるかもしれない。夜は発表会の稽古で今日が最後。もともと練習日がそう多くとれなかったうえに、来れない人もいたり、全体の通しなんてまだやっていないし…あれやこれや心配。しかし好きな作品なので頑張ろう。思いきりやるぞ。
・といっても環境問題について話し合う会議でもなくましてやスーパーマーケットでもない。早い話がパフォーミング・アートの連続WSで今日はいつもの先生が講師なので出かけた。
・3時間のWSということはその分みっちり動くのですか、それは昨日の睡眠時間と同じですよとか思って行ったらさにあらず。前半は映像の上映などをまじえたレクチャーだったのでびっくり。先生いっぱいしゃべってた。ほんとに「先生」みたい。
・アートを語る、というよりは先生のネタ元というか創造を起動するものを軸とした話だったが、なにげにすごかったわ。まとめて聴いたのは初めてだったので。踊りだけでなく力学だの映画の技法にまで至るテーマの幅広さ(たとえばフォーサイスからキューブリックまで)からあまりに自分のベクトルと向きが違うのと、エネルギーのでかさに消化しきれない。アーティストってこういう人のことだよな、と圧倒されつつ思う。
・アーティストっていうのは単にアートに詳しい人ではなくて、自分に内発するものでアート(だけでなく世界もそうかな)を切りとっていける人だと思う。って私の思いつきで言ってるだけだけど、その切りとるツールが、その人の感覚だの生き方だのに根ざしていればいるほど、つくるものが濃く強くなるんではないだろうか。唐突だがよく「はてな」にありそうな、アートレビュー系ブログに「しゃらくさい」感じがして流してしまうのは、自分を賭けてまで切りとってはいないからだと思う。高級チョコレート詰合せみたいで、私はなんか嫌なのだ。
・なんで話はきっちり理解できてないかと思うのですが(すみません)、思ったのは「あーやっぱり追求していいんだな」ということ。人に理解されるとか受けるかどうかは置いといて、ともかく自分がいいと思うことを追求する。こだわる。おそらく身体表現に限らずなにかによって自分をさらす、ということをすると、それによっていろんなことが起きてくるが、それでも自分の立ち位置は守っとけというか。いつだかはわからないけど、そうやって「粘ったもん勝ち」じゃないのかな、と話聞いていて感じた。
・後半に動く時間があって、5人で「動きの連鎖をつくる」というのをやりました。はまるとこういうのはやはり面白い。自ら「滑り込みしたいです」とか言って、久しぶりにアザつくっている私。一年前にはこういう人ではなかったはずだ(しかも最初は「走ってきてスライディングする」とか言ったら「危ないから」とグループの面々に止められた)。私たちのグループはメンバーの妙でなんかよかったみたい。人とやると、5人でつくるグループという枠があると、そのなかで「何が足りないか」「何が多すぎるか」という観点ができるので、自分の動き方を考えやすくなる、ということを知った。
・私はこのサミット、「百戦錬磨」みたいな熟練パフォーミング・アートな人たちが来るんだろうと思ってどきどきしていたけれど、行ってみたら(いまどき東京のどこにこんな人たちが、と思うような)ういういしい、すれてなーい感じの若い子(私の年齢の半分にも満たないよ、きっと)ばかりだったので、毒々しい私としてはそれもまた身の置き所がなくどきどきしてしまいました。悪い人にひっかからないか、この子たちの今後の人生が心配、みたいな。私も人の心配どころではありませんが。しかしなんらかの表現をするなら、もうちょと濁ってみてもいいと思う。
・人はどうあれ、自分の道を追っていい。しかしそれを実現させるための「スキルの洗練」という課題は別に必須の話としてあると思う。つまり精進することだが、それは受け手に対する「誠意」なのではないかしら。
・追求する私は気持ちがあがってきたのでクーラ・シェイカーだのU2だの聴きながら帰った。本当に私の人生はどうなるのだろう。
・3時間のWSということはその分みっちり動くのですか、それは昨日の睡眠時間と同じですよとか思って行ったらさにあらず。前半は映像の上映などをまじえたレクチャーだったのでびっくり。先生いっぱいしゃべってた。ほんとに「先生」みたい。
・アートを語る、というよりは先生のネタ元というか創造を起動するものを軸とした話だったが、なにげにすごかったわ。まとめて聴いたのは初めてだったので。踊りだけでなく力学だの映画の技法にまで至るテーマの幅広さ(たとえばフォーサイスからキューブリックまで)からあまりに自分のベクトルと向きが違うのと、エネルギーのでかさに消化しきれない。アーティストってこういう人のことだよな、と圧倒されつつ思う。
・アーティストっていうのは単にアートに詳しい人ではなくて、自分に内発するものでアート(だけでなく世界もそうかな)を切りとっていける人だと思う。って私の思いつきで言ってるだけだけど、その切りとるツールが、その人の感覚だの生き方だのに根ざしていればいるほど、つくるものが濃く強くなるんではないだろうか。唐突だがよく「はてな」にありそうな、アートレビュー系ブログに「しゃらくさい」感じがして流してしまうのは、自分を賭けてまで切りとってはいないからだと思う。高級チョコレート詰合せみたいで、私はなんか嫌なのだ。
・なんで話はきっちり理解できてないかと思うのですが(すみません)、思ったのは「あーやっぱり追求していいんだな」ということ。人に理解されるとか受けるかどうかは置いといて、ともかく自分がいいと思うことを追求する。こだわる。おそらく身体表現に限らずなにかによって自分をさらす、ということをすると、それによっていろんなことが起きてくるが、それでも自分の立ち位置は守っとけというか。いつだかはわからないけど、そうやって「粘ったもん勝ち」じゃないのかな、と話聞いていて感じた。
・後半に動く時間があって、5人で「動きの連鎖をつくる」というのをやりました。はまるとこういうのはやはり面白い。自ら「滑り込みしたいです」とか言って、久しぶりにアザつくっている私。一年前にはこういう人ではなかったはずだ(しかも最初は「走ってきてスライディングする」とか言ったら「危ないから」とグループの面々に止められた)。私たちのグループはメンバーの妙でなんかよかったみたい。人とやると、5人でつくるグループという枠があると、そのなかで「何が足りないか」「何が多すぎるか」という観点ができるので、自分の動き方を考えやすくなる、ということを知った。
・私はこのサミット、「百戦錬磨」みたいな熟練パフォーミング・アートな人たちが来るんだろうと思ってどきどきしていたけれど、行ってみたら(いまどき東京のどこにこんな人たちが、と思うような)ういういしい、すれてなーい感じの若い子(私の年齢の半分にも満たないよ、きっと)ばかりだったので、毒々しい私としてはそれもまた身の置き所がなくどきどきしてしまいました。悪い人にひっかからないか、この子たちの今後の人生が心配、みたいな。私も人の心配どころではありませんが。しかしなんらかの表現をするなら、もうちょと濁ってみてもいいと思う。
・人はどうあれ、自分の道を追っていい。しかしそれを実現させるための「スキルの洗練」という課題は別に必須の話としてあると思う。つまり精進することだが、それは受け手に対する「誠意」なのではないかしら。
・追求する私は気持ちがあがってきたのでクーラ・シェイカーだのU2だの聴きながら帰った。本当に私の人生はどうなるのだろう。
バイトへ行きいったんうちへ帰ってレッスンへ行く。他に行くとこないのかよ?て感じですがないのです。しかし私、下手だなーっ! ほんとに。踊りが上手になったら、せめて自分で納得できるくらい上手になったらかなーり幸せになれると思う。そして人に対してもっと開くことができれば、さらに人に寛容になることができれば、いろいろ楽になるのかもしれない。ダンスは、練習しよう。人に対しては、よくわかんない。フェイタス買うの忘れた。
昼間は亀さんより非活動的に過ごす。あーでも採点のまとめはした。夜が発表会の遅練。練習はいいんだけど、というかもっと練習したいくらいだ。うちの先生は若いのに人間できた人だから「うわーっ」ってならないのかもしれない。私が「うわーっ」ってなってどうする。でもまだ衣装で練習してない人とかそもそも衣装ができてない人とかゆるすぎないか? シンジラレナイ。大してやってないのに消耗するのは人がいろんなオーラ出してたりいろんな人がいろんなこと言うからだ。全部受けとめてると身が持たないので受け流す、聞き流す、つもりだけどそれでもへんに疲れるな。やれるだけのことはやって臨みたい。
・先日行った期末試験の採点にやっと手をつける。大して量もないのに熟読してるわけでもないのに、やけに疲れる。結果BやBプラスが多く(←サービス評価)、まぁまぁかな。評価と答の分量は必ずしも比例しない。たくさん書いてあればあるほどいいというわけでもないということ。わからないなら、わからないまま素直に書いたもののほうが私は好感がもてるが、「やっつけ」みたいな、なめた回答は読むとわかる。
・余白に「(問題が起きたときにどういうところに相談すればいいか、などわかって)授業は役に立った。お世話になりました」と書いてくれた子がいた。書くことがないときは「カレーのつくり方でも書いとけ」って話もあるけど、それとは違うよね。素直に受けとっとく。よかった。ありがとう。私については「大人しくて、可愛らしい感じ」とも書いていて…それは結構、年上の人に使っていい表現でもないと思うぞ。でも私ってそうなのかしらね。苦笑い。
・年末の強烈な忘年会からほぼ一月あけて、ムーブメントのクラスへ行く。昨日から始まっていたのだが、発表会のリハがあってそれはさすがにパスするわけにもいかず出れなかった。
・何しろ久しぶりなので身体がいろんなこと忘れていて「ぷぎゃー」って感じだった。相当ぼけてるな。苦手なところとかクセをぱぱぱと指摘してもらえて嬉しい。おっしゃる通り上半身が固いのです。ばらして使えるようになるといいなー。ゆるく、ほどけるようになるといいなー。
・広くてしかも床がリノの教室で床を転がったり、ジャンプしたり、それからあれこれ動物ちっくなことをしたり、というのはここでしかできない贅沢。こういうのすごく楽しいし落ち着く。「ニュートラルな身体になれるように」って私はまさにそういうふうになりたいのだ。自在に使える器になりたい。久しぶりにクラスに通う人たちに混じって、ここは雰囲気がいいと改めて感じる。
・「臨界点を越えるように、ある日とつぜんできるようになる」ものだと先生は言う。そういう体験をしている人は、ハードルが高いとか恥ずかしいとか思わずにやってみることができるのだと。私はそういう感じに体得した感がほとんどないので、わからないけど、そうなのかな。下手だしびびるし固まるけど、変えてゆきたい。私なりにがんばろう。
・余白に「(問題が起きたときにどういうところに相談すればいいか、などわかって)授業は役に立った。お世話になりました」と書いてくれた子がいた。書くことがないときは「カレーのつくり方でも書いとけ」って話もあるけど、それとは違うよね。素直に受けとっとく。よかった。ありがとう。私については「大人しくて、可愛らしい感じ」とも書いていて…それは結構、年上の人に使っていい表現でもないと思うぞ。でも私ってそうなのかしらね。苦笑い。
・年末の強烈な忘年会からほぼ一月あけて、ムーブメントのクラスへ行く。昨日から始まっていたのだが、発表会のリハがあってそれはさすがにパスするわけにもいかず出れなかった。
・何しろ久しぶりなので身体がいろんなこと忘れていて「ぷぎゃー」って感じだった。相当ぼけてるな。苦手なところとかクセをぱぱぱと指摘してもらえて嬉しい。おっしゃる通り上半身が固いのです。ばらして使えるようになるといいなー。ゆるく、ほどけるようになるといいなー。
・広くてしかも床がリノの教室で床を転がったり、ジャンプしたり、それからあれこれ動物ちっくなことをしたり、というのはここでしかできない贅沢。こういうのすごく楽しいし落ち着く。「ニュートラルな身体になれるように」って私はまさにそういうふうになりたいのだ。自在に使える器になりたい。久しぶりにクラスに通う人たちに混じって、ここは雰囲気がいいと改めて感じる。
・「臨界点を越えるように、ある日とつぜんできるようになる」ものだと先生は言う。そういう体験をしている人は、ハードルが高いとか恥ずかしいとか思わずにやってみることができるのだと。私はそういう感じに体得した感がほとんどないので、わからないけど、そうなのかな。下手だしびびるし固まるけど、変えてゆきたい。私なりにがんばろう。
仕事のあと練習。先生は今回の発表会の演出もしていてむちゃ忙しい。「2日徹夜」ハイなのか彼はシュールに明るい。とはいえ実はまだ全員で衣装つけて練習したことがない…。まだ振り直したりしてるしなぁ。自分史上かなりギリギリかもの発表会。ぎりぎりまでがんばろう。練習後に同じスタジオの子とあれこれ話せてよかった。
2ちゃんねるのどこだったかの板に「鬱が酷くてマッシヴ・アタックしか聴いてない」という書き込みがあった。その気持ちはよくわかる。マッシヴ・アタックいつ聴いても(病めるときもますます病めるときも)気持ちに沿わないことがない。
ここで何度か書いた「リブ・ウィズ・ミー」のPV、YouTubeにありました。始めっから貼っとけよ、って感じですが。
http://www.youtube.com/watch?v=JdVr96pQ5jA
こちらは「プロテクション」。
http://www.youtube.com/watch?v=AbvsvaRyvr8
2ちゃんねるのどこだったかの板に「鬱が酷くてマッシヴ・アタックしか聴いてない」という書き込みがあった。その気持ちはよくわかる。マッシヴ・アタックいつ聴いても(病めるときもますます病めるときも)気持ちに沿わないことがない。
ここで何度か書いた「リブ・ウィズ・ミー」のPV、YouTubeにありました。始めっから貼っとけよ、って感じですが。
http://www.youtube.com/watch?v=JdVr96pQ5jA
こちらは「プロテクション」。
http://www.youtube.com/watch?v=AbvsvaRyvr8
2007年初めてのダンス
2007年1月21日 ダンスもの・ダンスコンペを観に横浜へ行く。昨夜は飲んで服薬して、スカパーでジェシカ・アルバの特集をしていたのだが、あ、「シン・シティ」だ「ファンタスティック・フォー」だと一瞬だけそれぞれ確認して寝つぶれていたので、復活してお風呂に入ったらもう明け方に近い頃だった。そんなのどうでもいいし、私のメールなんて私の存在なんてそれこそ流したっていいのに、ぎりぎりでもお返事くださるなんてなんていい人なのでしょう。出かける。
・今年初めて観たダンスが、師匠のソロ。彼はそれで審査員賞を受賞した。喜ばしい(ぱちぱち)、縁起がいいことこの上ない。当然でしょう。格が違うもの。「クラス」という意味ではなく、キャリアにしても(それに作品を観て感じるけれど)作品のつくりこみ方から他の人たちとは、頭ひとつ(だかふたつだか)抜きん出ている。
・前々から思っていたけれど、作品を観るとつくづく「理系」な人だなあと思う。思索する理系のロマンティックというか。こういうアプローチする人、他にいないでしょう。久しぶりに「放物線」を見た。というか生で見たのは初めてかも。いつもは鉛筆で言うなら4Bくらいの濃さなのに、今日はHBな感じだったのは「作品」だったからだろうか。
・というように誠にめで鯛イベントだったのに、浮かない気持ちなのはなぜだろう? ひとつには他があんまり面白くなかったから。あまりに面白くないので、自分のほうに非があるような気さえする。そもそも私はコンテンポラリー・ダンスがわからないんじゃないか、とか。コンテというとどうして同じようなノイズ系だの現代音楽だの「ありがち」な音なのか、とかどうして小難しそうな人たちが集まるのか、とか。ジャズダンスのコンペだったら批評家だの作家だの、文化人な人が審査するなんてことないだろう。そういこといちいち気にしちゃいけないですか。
・相当に身体能力がある人でも(予選通過してきてるわけだからそういう人たちなんだけど…)観てて飽きてきたりするのはなぜだろう、と考える。審査するあいだ、前日までの作品がビデオ上映され観ていたんだけど…なんつうか(これまた)「ありがち」な感じ。きれいだったりスタイリッシュだったり、狙ってるところはわかるのだが、そういうのは他にもありますよね、というか。他の誰かの替わりができるダンスというか。自分でできないくせに、すごい辛らつだな、私。グループ部門は特にそういう感じがした。デパ地下みたい。みなほどほどに美味しく見場のいいお惣菜を売っている、というような。凄くへんなものとか見たことのないようなものを売っている店がない。コンテンポラリー・ダンスは何でもありだけど、自由なぶんムズカシイと私には思える。
・ソロ部門のほうが見ごたえがあり、特に日本人女性ダンサーのOさんとKさんは映像でも迫力があってぜひ生で観てみたかった。この二人も受賞しておかしくないと思ったけれど選ばれず、外国人ダンサーたちへ行ったのは政治的な理由もあるのかな。穿った見方だろうか。主催者側のカラーが強い気もした。イベントというよりは「文化事業」なのですね。
・ああー、なんか打ちのめされモード。素直に祝えてなくてごめんなさい。
・毒を吐きまくりで、私ひどい。せまい。都心に帰って夜稽古に出たが、「自分キライ」が強まっているとなおさらやってて楽しくない。コンプレックスから解放されるというケリなのだがそんなふうに思えないよ。電車のなかでのみこんだ錠剤が胸のあたりにとどまっていて熱い。
・今年初めて観たダンスが、師匠のソロ。彼はそれで審査員賞を受賞した。喜ばしい(ぱちぱち)、縁起がいいことこの上ない。当然でしょう。格が違うもの。「クラス」という意味ではなく、キャリアにしても(それに作品を観て感じるけれど)作品のつくりこみ方から他の人たちとは、頭ひとつ(だかふたつだか)抜きん出ている。
・前々から思っていたけれど、作品を観るとつくづく「理系」な人だなあと思う。思索する理系のロマンティックというか。こういうアプローチする人、他にいないでしょう。久しぶりに「放物線」を見た。というか生で見たのは初めてかも。いつもは鉛筆で言うなら4Bくらいの濃さなのに、今日はHBな感じだったのは「作品」だったからだろうか。
・というように誠にめで鯛イベントだったのに、浮かない気持ちなのはなぜだろう? ひとつには他があんまり面白くなかったから。あまりに面白くないので、自分のほうに非があるような気さえする。そもそも私はコンテンポラリー・ダンスがわからないんじゃないか、とか。コンテというとどうして同じようなノイズ系だの現代音楽だの「ありがち」な音なのか、とかどうして小難しそうな人たちが集まるのか、とか。ジャズダンスのコンペだったら批評家だの作家だの、文化人な人が審査するなんてことないだろう。そういこといちいち気にしちゃいけないですか。
・相当に身体能力がある人でも(予選通過してきてるわけだからそういう人たちなんだけど…)観てて飽きてきたりするのはなぜだろう、と考える。審査するあいだ、前日までの作品がビデオ上映され観ていたんだけど…なんつうか(これまた)「ありがち」な感じ。きれいだったりスタイリッシュだったり、狙ってるところはわかるのだが、そういうのは他にもありますよね、というか。他の誰かの替わりができるダンスというか。自分でできないくせに、すごい辛らつだな、私。グループ部門は特にそういう感じがした。デパ地下みたい。みなほどほどに美味しく見場のいいお惣菜を売っている、というような。凄くへんなものとか見たことのないようなものを売っている店がない。コンテンポラリー・ダンスは何でもありだけど、自由なぶんムズカシイと私には思える。
・ソロ部門のほうが見ごたえがあり、特に日本人女性ダンサーのOさんとKさんは映像でも迫力があってぜひ生で観てみたかった。この二人も受賞しておかしくないと思ったけれど選ばれず、外国人ダンサーたちへ行ったのは政治的な理由もあるのかな。穿った見方だろうか。主催者側のカラーが強い気もした。イベントというよりは「文化事業」なのですね。
・ああー、なんか打ちのめされモード。素直に祝えてなくてごめんなさい。
・毒を吐きまくりで、私ひどい。せまい。都心に帰って夜稽古に出たが、「自分キライ」が強まっているとなおさらやってて楽しくない。コンプレックスから解放されるというケリなのだがそんなふうに思えないよ。電車のなかでのみこんだ錠剤が胸のあたりにとどまっていて熱い。
コピー案をボツられた件で怒りのメールを送って以来、先方から音沙汰がない。その事務所はメールを常用してはいないので、まだ読んでいないのかもしれないけど…でも日にちたってるし、読んだだろう。思わぬところからクレームがきて、みな石になってしまったのかしら。「謝れ」ではなく「説明して」と書いたのに梨のつぶて。
会社の帰り、発表会の稽古。「動きを考えてみて」と各自言われていたソロパートをつけてもらう。振りのネタになる動きを考えるだけでもよかったが、私は結局、振りをつくって決めてしまった。というか考えているうちに流れが決まってきてしまったのだ。先生に見てもらう。ほぼ自分の振りでOK…本当ですか?! 光栄ですがフクザツ。大きい舞台で自分のつくった振りで2・8+4踊れるのは嬉しいんだけど、自分のやって、人の振りを見てるとなんか私って生真面目だなあとか思うし、本当にこれでいいんだろうか、先生に「使いにくいやつ」とか思われてないだろうか、などなどあれこれ考える。
ある人が「ひとりひとり振りつくってもらえるなんて、カスタムメイドみたいで贅沢」と言っていた。確かにそうだ。私もつくってもらったほうがよかったのかー。でも自分のを試したい気持ちが勝ってしまったー。いいのか悪いのか、よくわからん。
以前とは踊るきもちが変わってきたなと感じる。ひとりでも踊れる、というか立てるのが前提になっているというか。それは実生活でもそうなんだけど。それはおそらく必要なことでもあるんだろうけど、これからは人と「一緒に動く(いる)」「関わる」というほうに振り子を振ることも意識したほうがいいんだろうな。
会社の帰り、発表会の稽古。「動きを考えてみて」と各自言われていたソロパートをつけてもらう。振りのネタになる動きを考えるだけでもよかったが、私は結局、振りをつくって決めてしまった。というか考えているうちに流れが決まってきてしまったのだ。先生に見てもらう。ほぼ自分の振りでOK…本当ですか?! 光栄ですがフクザツ。大きい舞台で自分のつくった振りで2・8+4踊れるのは嬉しいんだけど、自分のやって、人の振りを見てるとなんか私って生真面目だなあとか思うし、本当にこれでいいんだろうか、先生に「使いにくいやつ」とか思われてないだろうか、などなどあれこれ考える。
ある人が「ひとりひとり振りつくってもらえるなんて、カスタムメイドみたいで贅沢」と言っていた。確かにそうだ。私もつくってもらったほうがよかったのかー。でも自分のを試したい気持ちが勝ってしまったー。いいのか悪いのか、よくわからん。
以前とは踊るきもちが変わってきたなと感じる。ひとりでも踊れる、というか立てるのが前提になっているというか。それは実生活でもそうなんだけど。それはおそらく必要なことでもあるんだろうけど、これからは人と「一緒に動く(いる)」「関わる」というほうに振り子を振ることも意識したほうがいいんだろうな。
夜、発表会の稽古でホールのリハーサル室を使わせてもらう。大道具とかを搬入するのに使うようながらんと大きなエレベーターで「これでいいのかしら」と不安に思いつつ上がった(正解)。曲の前半は各自のソロなのだが、先生はそのパートをまずは自由につくってみてと言う。2・8+4(ツー・エイト・フォー)、つまり2小節プラス4拍分を振付ける。つくったものがそのまま使われるわけではなくて、「こういうことがやりたいです」の図解みたいなものなのだが、それでもまた振付する機会がもらえて嬉しい。あれこれ考えて寝るのが遅くなる。どうでもいいけど今日はなぜか食べたいものが食べられない日。お昼の担担麺→パスタとなり(店のランチ時間に間に合わなかった)、レッスン前のマクドナルド→ドトール(混んでた)となった。
今日からバイト先の会社は仕事初め。しかし恐れていたほど作業はなかった。お正月休みに人々はそれほどインターネットしなかったんでしょうか。夜、発表会の稽古。二人組みになってコンタクトインプロ風にあれこれするパートがあるのだが…やっぱり苦手。女性同士(相手が男性ならなおさら)でも距離が近かったり身体が触れたりすると私は固まる。平気ですよ〜という振りをしてやってても、中身が固まる。私に触れると相手がそれに気づくだろうな、と思って固まる。くすん。どうすればいいの。緊張で背中が張ったよ。いちど先生に持ち上げられてみたら天井に届きそうな勢いだった。
昨夜は冷え込んだ(それでも駅前の温度表示でみたら4℃だった)が、今日は晴れて過ごしやすい。暖かさに助けられてガラス拭きや洗濯などだだだーと済ます。いつのまにか増えてしまったものたち、なるたけ片付ける。またしてもちょっとだけ翻訳とコピー直し作業する。やることは残っているのですが、今年の大晦日はなんだかほっとした感じ。
今年は収入が入るという意味でのお仕事は「ぼー」とした感じだったが、踊りについてはたくさん恵みがありました。年初にあったワークショップで思いがけない感触を得た(ふだんの自分が消えて、何か<作品>の単なる一部になる、ということのはっとするような感動。「こういうの忘れていた…」という感じ)ことから、「今年は踊りをがつがつやってみようか」と決めて少しずつ実行に移していったら、自分なりに見える結果が得られたと思うし、幸せな出会いがたくさんあった。じゅうぶんな手応えがあったと思う。恵まれている、幸せなことです。ありがとうございます。
予想もしていなかったが、人に見てもらう機会も何度か得られた。前にも書いたけれど、自分の踊りが人に見せてもいいものだと思えたことが、自分には大きいことだった。自分のしてることって自己セラピーというか、必死過ぎるもので、見せることによって人が何かそこからもらってくれたりするようなものだと思わなかったし、(言葉にすると大げさなんだけど)なんかこう自分にglamorousな部分がないと、あえて人に見せるようなもんじゃない気がしてたから。やっぱりうまく説明できないけど、「わたし踊り続けてていい?」「わたしが踊ってていいんですか?」とずっと思いながらやってたから。イベントを見に来てくれた友人にもまずそれを確認してしまったくらい。
それに、つくる機会も。まだまだ全然あれですが…。つくるということは面白いことでした。つくる前は知らなかったことだけれど、つくるという行為が日常に入ると、そこでスジが通るというか、そのことが「信仰」みたいになってその他の部分がぼけぼけでも自分を立てていられるのです(実際にはそっちに集中し過ぎてまあ使えない人になってはいたんだけど)。ひとりでいることが気にならない、というより、やはりつくって見てもらうことによって、自分が自分らしい部分で人と関わることができるのだと思う。見てもらうことによって、別に賞賛とかされなくても、ただ晒すということそれ自体がそういうものではないかと思う。
もうちょっとがんばろう。
今年もおつきあいくださいましてありがとうございました。心からお礼申し上げます。どうぞよいお年を。
今年は収入が入るという意味でのお仕事は「ぼー」とした感じだったが、踊りについてはたくさん恵みがありました。年初にあったワークショップで思いがけない感触を得た(ふだんの自分が消えて、何か<作品>の単なる一部になる、ということのはっとするような感動。「こういうの忘れていた…」という感じ)ことから、「今年は踊りをがつがつやってみようか」と決めて少しずつ実行に移していったら、自分なりに見える結果が得られたと思うし、幸せな出会いがたくさんあった。じゅうぶんな手応えがあったと思う。恵まれている、幸せなことです。ありがとうございます。
予想もしていなかったが、人に見てもらう機会も何度か得られた。前にも書いたけれど、自分の踊りが人に見せてもいいものだと思えたことが、自分には大きいことだった。自分のしてることって自己セラピーというか、必死過ぎるもので、見せることによって人が何かそこからもらってくれたりするようなものだと思わなかったし、(言葉にすると大げさなんだけど)なんかこう自分にglamorousな部分がないと、あえて人に見せるようなもんじゃない気がしてたから。やっぱりうまく説明できないけど、「わたし踊り続けてていい?」「わたしが踊ってていいんですか?」とずっと思いながらやってたから。イベントを見に来てくれた友人にもまずそれを確認してしまったくらい。
それに、つくる機会も。まだまだ全然あれですが…。つくるということは面白いことでした。つくる前は知らなかったことだけれど、つくるという行為が日常に入ると、そこでスジが通るというか、そのことが「信仰」みたいになってその他の部分がぼけぼけでも自分を立てていられるのです(実際にはそっちに集中し過ぎてまあ使えない人になってはいたんだけど)。ひとりでいることが気にならない、というより、やはりつくって見てもらうことによって、自分が自分らしい部分で人と関わることができるのだと思う。見てもらうことによって、別に賞賛とかされなくても、ただ晒すということそれ自体がそういうものではないかと思う。
もうちょっとがんばろう。
今年もおつきあいくださいましてありがとうございました。心からお礼申し上げます。どうぞよいお年を。
今日が仕事納め(…会社はそうなのだが私はそうではない)ではあるが、たいした作業もなくマネージャーが3年間溜めに溜めた不要な書類のホチキスをはずしシュレッダーにかける、ことで主に日中を過ごす。あとデスクまわりの掃除。会社の帰りに実家にちょと寄る。しばこ熱烈歓迎。それから発表会の遅練。先日の発表会とは2名を除いて違うメンバーだが、またここにもなんちゅーか濃そうな人たち(笑)が集まる。いちばん疲れている時間帯のはずだがいちばん集中する。というか集中しないとできないし。あげあげな振り(考えるだに恐ろしい)ではないので、深夜に近い時間でも気持ちがついていけるのが何より。しかし1回目の稽古ではできたような気がしていたが、自分あんまりできてない、固い。他の人はこの若師匠について長い人ばかりなので、まあしょうがないけれどもがんばる。私にも私のできることが、いや私にしかできないことがあるでしょう。家に帰ったら日を越していたけれど、今年はこんなに押し迫ってまで踊れて幸せ。
・なんとも言えない雰囲気のなか、各自で芸を持ち寄る忘年会があったのですが、早い話が私はぼろぼろでした。ものすごく緊張したというのもあるけど、それ以前に作品の成り立ちというか、つくる自分の「余裕の無さ」というのを痛感した。
・緊張した、というのは他の人たちも言ってたし、「ぼろぼろでした」と言ったら「そうでしたか?」と言う人もいたんだけどさ。うまくできていたら、気分がよかったかというとそういう話でもなくて、なんというかかれらと自分の立ち位置のそもそもの違いみたいなものをすごく感じた。自分だけ流刑みたいな。なんか私、すごくコメントしづらい、痛々しいことをしたような気がする。
・前にも書いたと思うけど、このクラスの人たちってすごくバイタリティがあって濃いというか…テンション高いというか、これって普通なの? 鉛筆で言ったらかれらが3Bくらい、私はFくらい。若いっていいなぁ…っていうだけじゃないとは思うんだけど。
・かれらに屈託がない、わけでもないだろうけど、私がごちゃごちゃ考え過ぎるのか、それにしてもかれらは若くて人生に期待も当然しようが、私は43でこの人生から離れたくてしょうがない。
・この集まりを「すごく面白かった」と何人もの人が言ってたけれど、私には面白いだけではすまない感じがあった。疲れました。なんていうか…受けとめきれないというか。人の存在というか表現することの発するノイズみたいなものをどうしても吸い取ってしまう。私もガーガーバリバリとノイズを出していたんだけど。私は人を信用しなさ過ぎるのかな。冷たいんだろうな。ノイズがなくて、「いい」と素直に受けとめられたものって師匠ともうひとり(女性)くらいだったもの。
・どんどん下がっていくんですけど。私はダンスがしたくてやってるんじゃなくて、ダンスしてると時間が稼げるからだ。だから不必要に重い。こういう生き方をしている限り私の芸風は「必死」で、もちろん必死だからいいというわけではない。そんなもの根本的に人に見せていいんだろうか。2月の公演終わったら終わろうとか、そういう考えはどうしてもあるし。
・ゆるくていい、とか言ってたわりに、自分の番になると「着替える」とか言って本気な師匠。彼はものすごかったです。そして皆から携帯のカメラフラッシュを浴びまくっていて、「いつも写真なんて撮らないじゃない」と憮然としてたのがおかしかった(「それは帽子マジック」とか女の子に言われてた)。
・どうする私、もう時間もない、とオープンクエスチョンが投げられたまま終わってしまった。私が何しても私の含まれる世界は変わらないのね、というような、何かに似た印象。つらい。うちに帰ってテレビをつける気にもならず、ひたすらマッシヴ・アタックを流している。
・緊張した、というのは他の人たちも言ってたし、「ぼろぼろでした」と言ったら「そうでしたか?」と言う人もいたんだけどさ。うまくできていたら、気分がよかったかというとそういう話でもなくて、なんというかかれらと自分の立ち位置のそもそもの違いみたいなものをすごく感じた。自分だけ流刑みたいな。なんか私、すごくコメントしづらい、痛々しいことをしたような気がする。
・前にも書いたと思うけど、このクラスの人たちってすごくバイタリティがあって濃いというか…テンション高いというか、これって普通なの? 鉛筆で言ったらかれらが3Bくらい、私はFくらい。若いっていいなぁ…っていうだけじゃないとは思うんだけど。
・かれらに屈託がない、わけでもないだろうけど、私がごちゃごちゃ考え過ぎるのか、それにしてもかれらは若くて人生に期待も当然しようが、私は43でこの人生から離れたくてしょうがない。
・この集まりを「すごく面白かった」と何人もの人が言ってたけれど、私には面白いだけではすまない感じがあった。疲れました。なんていうか…受けとめきれないというか。人の存在というか表現することの発するノイズみたいなものをどうしても吸い取ってしまう。私もガーガーバリバリとノイズを出していたんだけど。私は人を信用しなさ過ぎるのかな。冷たいんだろうな。ノイズがなくて、「いい」と素直に受けとめられたものって師匠ともうひとり(女性)くらいだったもの。
・どんどん下がっていくんですけど。私はダンスがしたくてやってるんじゃなくて、ダンスしてると時間が稼げるからだ。だから不必要に重い。こういう生き方をしている限り私の芸風は「必死」で、もちろん必死だからいいというわけではない。そんなもの根本的に人に見せていいんだろうか。2月の公演終わったら終わろうとか、そういう考えはどうしてもあるし。
・ゆるくていい、とか言ってたわりに、自分の番になると「着替える」とか言って本気な師匠。彼はものすごかったです。そして皆から携帯のカメラフラッシュを浴びまくっていて、「いつも写真なんて撮らないじゃない」と憮然としてたのがおかしかった(「それは帽子マジック」とか女の子に言われてた)。
・どうする私、もう時間もない、とオープンクエスチョンが投げられたまま終わってしまった。私が何しても私の含まれる世界は変わらないのね、というような、何かに似た印象。つらい。うちに帰ってテレビをつける気にもならず、ひたすらマッシヴ・アタックを流している。
・身体がたぶん疲れているんだと思う。ダンスで忙しいのは仕事で忙しいのほどうつにはならないが、それでもいつもの暗いものがひたひたとそばに近寄って来ているような感じがする。会社でおそろしく眠いし人とのコミュニケーションが億劫。この人は…というかみんな自分の言いたいことわーっと言っちゃって、私のことなんて気にしてないよな、そういうの受けとめるの疲れちゃったよとか思ってしまう。
・ムーブメントのクラスへ行ったら、なぜか今日はコンテンポラリーがかっていて、リリースするやつとか、コンタクトインプロとか自分の苦手なメニューばっかり。今日はコンタクトも合わなくて来た時点からつまづいてんだけど、すごく自分がawkwardな気がする。
・それから床や空間に線を描くっていうのをやったんだけど、そういう遊び心のある、人と関わるやつが私はこれまた性格的に苦手でじたばたする。人のを見ていると、若い人たちが見違えるようにうまくなって、のびのびやっているので感心すると同時に驚く。ああーかれらは本当に伸びる時期なんだなと、それに比べてこの私は(略)。
・明るくオープンな人がダンスには向いているんじゃないかしら。この前、ふと思い出したんだけど、すごく昔にジャズの先生にand/or2年前の発表会でストリートダンスの先生に「あなたは性格が暗い」と言われたことある。それは知ってます。幼稚園の頃から悩んでるけど直らないんです。発表会に出るからといって直せるもんでもない。明るい人しか踊ってはいけないの? このあたりが私にはずっとつきまとう。
・あさって、このクラスの忘年会で先日イベントでやった踊りを披露する(誰でも5分はネタを持ち寄らねばならない決まり)ことにしちゃったんだけど、今になって押し寄せる後悔。観る人が観れば「スイカの弱点とクセ」がまるわかりな踊りになってるだろうから、痛々しいことになってんじゃないのかなー。ものすごい弱気。しかしどうであれ踊りを続けるのなら「晒す」ことはプロセスには含まれきてしまうんだと思う。
・24日はなんもイベントのない私を友人カップルがご自宅でのクリスマス会に誘ってくれていたのだが、若旦那からメールが来て日曜夜に発表会の稽古とのこと。すみやかにお呼ばれはデリートされてしまった。こないだ終わったばかりというのに、今度は2月に先生のホームであるスタジオが主催する発表会に参加することにしてしまったのだった。疲れてんだけど、この前の発表会、思った以上に得るものあったし、先生の振付グーだし、まったく別の理由として今年の1-3のうつが相当、酷かったからこのままだとこの先怖いことになりそうで手を打っておきたかったのだ。
・家に帰ったら部屋のあかりがちかちかしてツインピークス状態。これ自分で取り替えられるのー?
・ムーブメントのクラスへ行ったら、なぜか今日はコンテンポラリーがかっていて、リリースするやつとか、コンタクトインプロとか自分の苦手なメニューばっかり。今日はコンタクトも合わなくて来た時点からつまづいてんだけど、すごく自分がawkwardな気がする。
・それから床や空間に線を描くっていうのをやったんだけど、そういう遊び心のある、人と関わるやつが私はこれまた性格的に苦手でじたばたする。人のを見ていると、若い人たちが見違えるようにうまくなって、のびのびやっているので感心すると同時に驚く。ああーかれらは本当に伸びる時期なんだなと、それに比べてこの私は(略)。
・明るくオープンな人がダンスには向いているんじゃないかしら。この前、ふと思い出したんだけど、すごく昔にジャズの先生にand/or2年前の発表会でストリートダンスの先生に「あなたは性格が暗い」と言われたことある。それは知ってます。幼稚園の頃から悩んでるけど直らないんです。発表会に出るからといって直せるもんでもない。明るい人しか踊ってはいけないの? このあたりが私にはずっとつきまとう。
・あさって、このクラスの忘年会で先日イベントでやった踊りを披露する(誰でも5分はネタを持ち寄らねばならない決まり)ことにしちゃったんだけど、今になって押し寄せる後悔。観る人が観れば「スイカの弱点とクセ」がまるわかりな踊りになってるだろうから、痛々しいことになってんじゃないのかなー。ものすごい弱気。しかしどうであれ踊りを続けるのなら「晒す」ことはプロセスには含まれきてしまうんだと思う。
・24日はなんもイベントのない私を友人カップルがご自宅でのクリスマス会に誘ってくれていたのだが、若旦那からメールが来て日曜夜に発表会の稽古とのこと。すみやかにお呼ばれはデリートされてしまった。こないだ終わったばかりというのに、今度は2月に先生のホームであるスタジオが主催する発表会に参加することにしてしまったのだった。疲れてんだけど、この前の発表会、思った以上に得るものあったし、先生の振付グーだし、まったく別の理由として今年の1-3のうつが相当、酷かったからこのままだとこの先怖いことになりそうで手を打っておきたかったのだ。
・家に帰ったら部屋のあかりがちかちかしてツインピークス状態。これ自分で取り替えられるのー?
巫女さん最後のお務め
2006年12月17日 ダンスもの発表会2日目。一曲とフィナーレに出るだけなので、仕度をしてしまえば暇といえば暇。なのでせっせとアップする。先生に言われたから、というより、楽屋で座って待っている気になれなくて動いている。私は袖とか楽屋の廊下とか、そういう場所が好きで(ネズミみたい)、そこで舞台の演目の音を聴いていると自然とストレッチしたり踊ったりしたくなる。かつての私はそういう人ではなく、楽屋で直さなくてもいい化粧直しをして時間をつぶし、舞台前に「アップする」という発想もなかった。廊下では他のナンバーの人たちがやはりアップしたり練習したりしている。SOUL&LOCKINGのかっこいい姐さんたちと並んで、おなじようなかっこでストレッチするのはなんかいい。出の前に先生をまじえてミーティングするチームもある。他チームのミーティング、耳に入ってきてしまうんだけど、「おっ」とか「ほぉー」とか思うようなことを先生たちが言っている。あるヒップホップの先生(男)がみんなに「俺のナンバーに出てくれてありがとう」と言っていたのには感動した。
3ステージ目で踊っているとき、「仕事化してるかも」と思った。冷静に踊れているということでもあるが、落ち着き過ぎてもいけない。楽公演(夜)がそれまででいちばん気持ちが入った。今まであまりそういうことを思ったことはないのだが、「これでこの巫女さんの踊りともお別れ」と思ったら泣きそうになってしまった。舞台の端から端まで、踊りながらたたたーと横切っていくのは(しかも前列で)、風を切ってとても気持ちよかった。「かたちでなくやれた」と思うところが何ヶ所かある(はじめからそうやれよ…って感じですが)。初めてこの作品のなかでかたちにとらわれることから離れられた…。自分の手ごたえとしてはこれがいちばん大きい収穫。フィナーレも含めて、悔いなく〆ることができて本当によかった。
楽は師匠も観てくださっていて、昨夜、今日の昼公演と来れなかったので「どうなってるかと思ったけど、(今まででいちばん)よかった」と労ってくださる。師匠と巫女ダンサーズ一同で美酒を味わう。師匠は「プロがやってもこの感じはでないので、ありがとう」と。あれこれダンスの話。私が「お客さんを取ろう(こっちに向けさせよう)と戦闘的な気持ちになる」と言ったら、ある子が「取ろうとしなくても今日はお客さんのほうが『なんだなんだ?』と私たちのほうを観ているのが感じられた」と言うので、「へえー」と思う。自分の人間関係のとり方のクセが出ている。見ているようでちゃんと見れて(感じられて)いなかったり、人に対して冷淡だったり。先生は他のあるナンバーのひとり(女の子)がいい踊りをしていると注目していたそうだ。そのナンバーは全員うまいのに、なかでも抜きん出て(プロに)目をとめてもらえるなんてすごい。羨まし過ぎる。さらにあれこれダンスの話。それぞれ考えることは違ってもダンス馬鹿な人たち。情念多すぎ・自分大好きの人も、(ついていけないけど)悪気はまったくないので憎めない。
練習は長期間におよんだが、平和を訴えるこの曲とストイックな振りは自分とコンフリクトすることなく、踊りに取り組むことができた。こんなにクリアで素敵な作品に参加させてもらえて幸せです。ありがとうございます。ストリートダンスの曲や動きもけして嫌いではないのだが、今の私には数ヶ月もストリートダンスの発想で取り組むのは難しいでしょう。
今日も友人たちが来てくれて、お花や祝ワインを頂き、また「よかった」「きれいだった」と言ってくださる。さらに「また舞台があったら呼んで」とまで言ってくれるのはすごくありがたいし、嬉しい(発表会は「観て頂く」ようなものだと思うので)。本当にありがとう。でも自分のなかではまだ実感がなく、もっと届く力のある踊りができるようになりたい、と思う。もっとまだまだ、何事もなかったかのようにさあ次へ。
3ステージ目で踊っているとき、「仕事化してるかも」と思った。冷静に踊れているということでもあるが、落ち着き過ぎてもいけない。楽公演(夜)がそれまででいちばん気持ちが入った。今まであまりそういうことを思ったことはないのだが、「これでこの巫女さんの踊りともお別れ」と思ったら泣きそうになってしまった。舞台の端から端まで、踊りながらたたたーと横切っていくのは(しかも前列で)、風を切ってとても気持ちよかった。「かたちでなくやれた」と思うところが何ヶ所かある(はじめからそうやれよ…って感じですが)。初めてこの作品のなかでかたちにとらわれることから離れられた…。自分の手ごたえとしてはこれがいちばん大きい収穫。フィナーレも含めて、悔いなく〆ることができて本当によかった。
楽は師匠も観てくださっていて、昨夜、今日の昼公演と来れなかったので「どうなってるかと思ったけど、(今まででいちばん)よかった」と労ってくださる。師匠と巫女ダンサーズ一同で美酒を味わう。師匠は「プロがやってもこの感じはでないので、ありがとう」と。あれこれダンスの話。私が「お客さんを取ろう(こっちに向けさせよう)と戦闘的な気持ちになる」と言ったら、ある子が「取ろうとしなくても今日はお客さんのほうが『なんだなんだ?』と私たちのほうを観ているのが感じられた」と言うので、「へえー」と思う。自分の人間関係のとり方のクセが出ている。見ているようでちゃんと見れて(感じられて)いなかったり、人に対して冷淡だったり。先生は他のあるナンバーのひとり(女の子)がいい踊りをしていると注目していたそうだ。そのナンバーは全員うまいのに、なかでも抜きん出て(プロに)目をとめてもらえるなんてすごい。羨まし過ぎる。さらにあれこれダンスの話。それぞれ考えることは違ってもダンス馬鹿な人たち。情念多すぎ・自分大好きの人も、(ついていけないけど)悪気はまったくないので憎めない。
練習は長期間におよんだが、平和を訴えるこの曲とストイックな振りは自分とコンフリクトすることなく、踊りに取り組むことができた。こんなにクリアで素敵な作品に参加させてもらえて幸せです。ありがとうございます。ストリートダンスの曲や動きもけして嫌いではないのだが、今の私には数ヶ月もストリートダンスの発想で取り組むのは難しいでしょう。
今日も友人たちが来てくれて、お花や祝ワインを頂き、また「よかった」「きれいだった」と言ってくださる。さらに「また舞台があったら呼んで」とまで言ってくれるのはすごくありがたいし、嬉しい(発表会は「観て頂く」ようなものだと思うので)。本当にありがとう。でも自分のなかではまだ実感がなく、もっと届く力のある踊りができるようになりたい、と思う。もっとまだまだ、何事もなかったかのようにさあ次へ。
OK, let’s go!
2006年12月16日 ダンスもの発表会2日公演の初日。終わって、Come on! フェイタス!って感じ。いろんな人々の手を借りた舞台で踊れるのは幸せです。ゲネを見た先生に「固い。アップするように」と言われたので、廊下で身体を動かす。プリエ、ロールアップ、ついでに振付直し中の曲も考えながら動きまくる。その合間に楽屋で女の子たちを手伝って頭におだんごをいくつもつくってヘアピンでとめる。あるいはまたヘアピンを急いで抜いて髪をたらす。私はスーパーハードジェルで固めるだけなので簡単なのだ。私たち巫女の踊りは終わりから3番目。舞台袖は緊張するという人もいるが、私はここが大好き。舞台にのる人だけが味わえる景色と緊張感だ。ここで待っていると、次第に気分は戦闘態勢に入る。なんの闘いだかよくわかりませんが、とにかく入るのだ。舞台にイントレ(階段)が仕込まれているので、その裏手で順番を待ちながら他の人のナンバー(ヒップホップとか)でふんふんと身体を動かす。巫女たちお互い手を握ったり肩をさわって、「さあいくよ」の気合を入れて出る。昼夜2回の公演で、それぞれ細かい失敗はあったけどだんだん気持ちが入るようになった。巫女の踊り(曲は元ちとせ「死んだ女の子」)は、観に来てくれた人たちには好評だったよう。ほとんどストリート系ナンバーのなかにあって、確かに目立つし、照明効果もよかったそうだ。友人からすごく嬉しい言葉をもらう。私はほんとに自分の踊り、自信がないので、自分のことじゃないみたいですけど。
今朝のゲネで撮った自分たちのナンバーのビデオを見せてもらい「かたちはきれいだけど、もっとひとつ先へ行きたい。迫ってくるものがあるようになりたい」と先生に言ったら、「無駄な力が抜けるようになって、まわりの環境を感じられるようになると違ってくる」と先生は仰る。イントラのナンバーと、生徒のナンバーの違いは、身体の使い方やそのあたりの意識なんじゃないかと思う。踊る人はごまんといる。そのなかで抜きん出たい。せっかく踊るのなら、自分だけが楽しい、じゃなくてその先へ行きたい。
今朝のゲネで撮った自分たちのナンバーのビデオを見せてもらい「かたちはきれいだけど、もっとひとつ先へ行きたい。迫ってくるものがあるようになりたい」と先生に言ったら、「無駄な力が抜けるようになって、まわりの環境を感じられるようになると違ってくる」と先生は仰る。イントラのナンバーと、生徒のナンバーの違いは、身体の使い方やそのあたりの意識なんじゃないかと思う。踊る人はごまんといる。そのなかで抜きん出たい。せっかく踊るのなら、自分だけが楽しい、じゃなくてその先へ行きたい。
自己ツッコミ。昨日「ダンスが私にとってただ楽しいだけのものだったときなんてあっただろうか?」なんて書いたけれど、楽しいだけの「瞬間」は確かにあったよ。かんがえすぎ。今日、劇場でリハーサル。全員のフィナーレ、ぐちゃぐちゃ。若い子たち見ると「もっとびしっとやれ、さっさとはけろよ」って思いながらも言わないけど、そういうオーラは出てるだろうな。一緒のチームの「情念多すぎ」さんがフィナーレ衣装に自前のスカーフだのアクセサリーだのつけて、髪飾りもつけて思いっきり手をかけてるんだけど…。私は人の趣味やセンスは自分と合わなくても傍観できると思っていたが、彼女に関してはなんかダメだ。悪いけど。近くにいるとうつりそうな気がしてしまう。過剰なのはいいんだけど、そこに少女趣味が入るのがツライ。彼女を見ると、昔の黒電話についてるようなレースのついた電話器カバーを思い出します。そんなこたぁおいといて…照明や効果が入ると、どのナンバーも三割り増しよく見える。そしてそこで踊るのは気持ちいいです。がんばろう。
・バイト先の総務・経理に同世代の女性たちがいる。そのひとりがけがをしてしまったらしく、私に「年とると脚にくるわよ」と言う。「一緒にしないでよ」と私は思った。私には彼女に約束されているような生活も将来はないし、別な理由で傷んでいるけれど、その代償も私の身体にはある。
・ムーブメントのクラスへ行く。あれこれやりながら、砂漠にぽつんとある井戸でひとり水を汲んでいるみたい、と思う。「踊る」とか「つくる」ってそういうことなんじゃないの、と思うが、そんなの私だけ? 私の性格というか荒涼とした現実のせいなのかもしれない。なんかどこの踊り場に行っても「ひとりだ」と思うのは変わらないし。
・ダンスが私にとってただ楽しいだけのものだったときなんてあっただろうか? 気づいてみたら「寝食忘れて」に近い状態になってるんだけど、現実をないがしろにする理由はある。帰れる場所が欲しい。
・ムーブメントのクラスへ行く。あれこれやりながら、砂漠にぽつんとある井戸でひとり水を汲んでいるみたい、と思う。「踊る」とか「つくる」ってそういうことなんじゃないの、と思うが、そんなの私だけ? 私の性格というか荒涼とした現実のせいなのかもしれない。なんかどこの踊り場に行っても「ひとりだ」と思うのは変わらないし。
・ダンスが私にとってただ楽しいだけのものだったときなんてあっただろうか? 気づいてみたら「寝食忘れて」に近い状態になってるんだけど、現実をないがしろにする理由はある。帰れる場所が欲しい。
会社帰りに自宅近くのコミセンに集まる。発表会まであとは前日のドレリハ、当日のゲネプロを残すのみなので、練習は今日が最後です。都心からメンバーそれぞれ出てくることになるのであまり時間もなく、2回通して衣装チェックして、全員揃ったころ先生も到着して最後に1回通して踊る。若先生(私より15才近く年下)は「いいんじゃないの」と一言。はぁーそうですか。それぞれに細かいアドバイス。時間が来て、コミセン職員の凄まじい撤収パワーにより急いで着替えて帰りの仕度。これからが本番だけど、終わりが近づいていると思うと寂しいものがあるね。