友人と美術館でパフォーマンスを観る。会社の帰りにこういう場所へ寄る予定があると嬉しい。

会場はアートコンプレックスセンター(The Artcomplex Center of Tokyo)@新宿大京町。住宅街にあるレンガ造りの建物で、地下100坪のホールに、2階に9〜25坪の展示室が5部屋。この機会まで知らなかったが昨年7月にできた「アートの複合施設」なんだそう。

でこの場所がなんだかイイ。なんつうかこういう「なんでもあり」な空気のなかにいるだけで詰まりがとれる感じ。私は美術も詳しくないけど、ボヘミアンな血が騒ぐというか高揚すると同時にゆるむっちゅうか。ギャラリーの他にカフェやショップもあって、早めに着いたのにパフォーマンスの開演ぎりぎりまでこのショップにへばりついて雑貨だの本だの見ていた。給料日前ですがステンドグラス作家さん制作のペンダントをつい買う。

それで床もありがちなPタイルではなくフローリング。ダンスのソロ公演も行われたりしているとか。こういう場所が使えたらさぞかしいいだろうなー、と妄想する。地下のホールむちゃくちゃ広いし。いや2階でも十分。

「月のめがね、月を食べるうさぎ」は「森」のインスタレーションのある部屋にて。パフォーマンス・アーティストが月のうさぎの童話を読んだり、お着替えしたり(衣装がすごくかわいかった)、せっけんもらったり(笑…お菓子かと思いました)。

「パフォーマンス」というと私は苦手意識があったりするのだが…今日はなんかよかった。アーテイスト(谷川まりさん)のつくるほわんとした空間にひきこまれた。

「パフォーマンス」ってなんなの?…といういつもの疑問。うまく言葉にできないけど人前で「立つ」意識があれば、なんでもありなんじゃないか?と今日は思った。ただ立っていられさえいればいい。そういう人の「たたずまい」を人は観に来るのではないだろうか、と彼女を見て思った。

あぁそうか、しゃべってもいいし、それも全部言わなくたっていいんだ、とか、理路整然と大きな声でしゃべらなくても、きれぎれのつぶやきでもいいんだ、とか。

このところ、踊る・動く・つくる・見せることについて「根をつめて」考えつんのめってた感があったけれど、今日のパフォーマンスを観て空き地に出たような(「森」なんだけど)、ふっと力が抜けたような感じがしました。私って元からぶんぶん動き回ってる人だっけ、あーそうだよなー、違うでしょ、そういうテンポじゃなかったはず、とか。

ほんわかしながらも、触発された…。今日は来れてよかったです。

The Artcomplex Center of Tokyo
http://www.gallerycomplex.com/
昨夜から強い雨。今日が入学式の人にはかわいそうな天気。めかしたり、荷物が多かったりするだろうから。部活の勧誘するにも気の毒(果たしてそういうの今もやってるんだろうか)。結局、一日降ったり止んだり。

去年の3末までバイトしていた会社のプレスリリースをサイトで読む。ベンチャーだから1年のあいだに様変わりすること。特許とったんだ、とか。イケイケな(外から呼んだ)社長の名前で発表されてんだけどさ、しかしそれも同僚たちや私を含めてバイトが手作業で炭鉱掘ってた長い時代があったうえででしょ、と意地悪く思う。手間はかかりましたが、でも楽しかったなー、個人的には(給料以外でも)得るところが大きかったし。同僚は元気で働いているんだろうかしら。

今日のレッスンの先生は割とよく髪型を変える人で、先週から坊主。思わず「棒高跳びとか槍投げする人みたい」と言ったら「このヘアスタイルが実は微妙にムズカシイ」と言ってた。髪型もダンサーの仕事を左右する。私は「自衛隊?」とも思ったのだがそれは言いませんでした。結構大変らしい、ボウズ。

去年の2月の発表会の写真をようやくもらう。記念撮影は寂しそうな顔、私。写真っていつもそんな顔。静止画で勝負できないからダンスやってんのかな。舞台写真のほうは全員で表情は写ってないんだけど、雰囲気があって素敵。いい瞬間を撮ってくれたと思う。好きな作品だったし、嬉しい。

調子良かったんだかどうなんだか。もっと芯をしっかりさせたい。他の場所で言われたことは、ここでもやっぱり言われる。

・足だけで運ぼうとするから、どたどたする。身体をさばくように移動する、まわる。
親族が外国の人と結婚することになり、「一族顔合わせの会」みたいなのをやっている。相手が中近東のどこかの国の人で、それっぽいレストラン@渋谷東急プラザ(しばらく行ってないけど、実際にはそんな店ないと思う)に集まっている。

大勢賑やかで、ざっくばらんな雰囲気。テーブルにいっぱい料理があって、ひとつだけ(フライみたいなのが)残った皿をウエイトレスが下げようとしたら、隣のテーブルのやっぱり中近東ぽい人が「食べないならそれください」なんて貰っている。デキャンタになにか植物の新芽がいっぱい入ったきれいな液体が入っていて、眺めていたら「若芽のビール」だと教えられる。「お姉さんにも一杯」と勧められたところで目が覚めた。

いとこが結婚するのは本当(相手は日本人)。でも誰かが結婚することによって、こういうふうに血縁じゃなくても、あたたかい家族ができるならそれは私には突破口だなあ、とあとで思った。

この前のメンクリで、会社の健診結果を見せたら「貧血気味」ということで、症状も別になかったので自覚していなかったが鉄剤を処方してくれた。のみ始めたら、なんかいい気がする。今日ちょっと元気じゃない? 増えたのはアモキサンだが、朝夜だとあまりに眠いので今日は夜だけにしてみる。

久しぶりにBDCへコンテ(ンポラリー・ダンス)のレッスン受けに行った。あまりに久しぶりで会員証切れていたけど、(再入会かと思ったら)更新の二千数百円で済んでよかった。

レイハラカミちっくな音楽で脱力系ストレッチ。レイハラカミはこういうふうに聴くのがいちばんいいんじゃね、と思いつつも、これを書きながら家でもレイハラカミ聴いている("lust")。

クロスフロアも気持ちよかったです。ただ振りがちょっと残念な感じでした。今回たまたまかもしれないけど(本人自ら「モダンダンスみたい」とか言ってるのはどうなの?)。

私は継続的にコンテのレッスンを受けてる人ではないので、構えて行ってみたら、思ったより難なくついていけてほっとした。ひょっとしてもうちっと上のレベル受けてみてもいいのかも♪…と思えたのも嬉しい。

ダンスって縫い目が大きい、と思った。マイムの細かさに比べればざっくりしてること。今日も手先を使った振りがあって(よくあるけど)、本当は身体のパーツの訓練もしなきゃいけないだろうに、ダンスのレッスンって案外そういうことしない。だから振りを入れてもいまいち空気感が定まらないというか、もにょる感じがするのかと思った。

ひとり

2008年4月3日 ダンスもの
クラスが始まる前の時間に、じっとしてられなくて、動き回る。「落ち着いて座っていられない人」というのを思いついて、座っては立ち、座っては立ちというのをいろんなパターンで繰り返してそれは面白かったんだけど。

うろうろしてると、怒りが内側にあるのを感じる。わけわからない怒りを抱えて動いているのは私だけ?と思うとまた焦れる。身体を痛めつけるくらい、動きたいと思う。でもうまくいかなかった。気が上がるばかり。虚しい。

コンタクトで組んだ人とは意思疎通できず。私はそうは押してないのに、すぐ床に入る。立て直そうとしても、その子はなぜだか床に下りるのだ。そういうふうにしたかったんだろうけど、それではコンタクトにならない。通じないまま、すごく組みづらかった。

来月のスケジュールが出てないので、予想はしてたけれど、このクラス4月が終わるとしばらく休みに入るんだそうだ。しばらく、っていつまでだか不明。

先生が舞台に入るからで、去年もこういうことはあった。だけどさ、こういうふうにぷつりと切れると、やはりがっくりする。それに慣れない。せっかくペースをつくっても、先生都合で長期の休みに入ってしまうというのは…。

優秀なダンサーだからこそ作品の制作や舞台があって、指導がその犠牲になるのは仕方ないことなんだろうけど、なんか力が奪われる。私が勝手に思い入れてるだけだけど、ダメージ少なくない。こんなクラス他にないのに、どうしよう。悲しくて定期的にちゃんと教えてくれる師匠を別に探そうか、とまで思ってしまう。

だかがダンス、たかがレッスンですが。私がいちばん集中してるのはこういうことだから、他に何もないんだもん。ここが揺らぐときびしい。

ひとり。結局ひとり。ついていっても、置いていかれる。放っておかれる。みなどこかへ行ってしまうの。落ち着いて受け入れてもらえるところ、ないの。呼吸が浅い、わたし。まったく痛々しいったら。

2 hours

2008年3月27日 ダンスもの
・今日のクラスでIsley Brothersがずっとかかっていたのでちょっと驚いた。いい曲がいろいろあるけど、特に"That Lady"がクールだ。ここで自分の好きな曲を聴くなんて、そしてこうフツーにファンキーな音楽がかかるなんていまだかつてないことである。

・電車のなかとか、昼休みとか、音楽を聴きながら振りを考えたりしている。それを実際に試せる場所が案外なくて、クラスが始まる前にあれこれやってみたりしていた。別になんの使い道もないんだけど、考える。

・このごろ、音楽にもダンスにも依存気味。

・コンタクト(BがAの肩に手をかけ、AがBを導いて動かす)のとき先生と組む。この「肩・手」バージョンは、手をつないで動かされるより(Bの立場で)難しい。どういう身体の向きならついていけるのか考えなければならないのと、肩から入る情報のほうがわかりにくい(見えない)から。従とはいえ手つなぎバージョンよりpassiveでいられない。

・そんで淡々とお散歩するわけでなく、あれこれ考えて動き回らなければなりません。先生には「(Aのパートのとき)歩き方がどたどたして、自分でコントロールできてない感じがする。もっとなめらかなラインで導びいてほしい」とか、言われた。

・「なめらかなライン(動き)で」というのは発想としてすごくよくわかる。どたどたすると、それはノイズだから余計な情報が(Bの側に)伝わることになる。他にも今日はいろいろ言ってもらったんだけど、ダンスってやること多い! のでつい足さばきがおろそかになってしまったり、ここはできてもあそこはお留守、みたいになっていた。

・見てもらえる、言ってもらえる…というのはありがたいし、嬉しい(それもなんかわざわざ呼んで言ってくれたんだよね)。

・このようにわたくしはエネルギーのほとんど(と言っていいくらい)をこのクラス(であり、ダンス的なこと)に費やしております。しかしこの濃密な2時間は、わたしの残りの生活にどうリンクしているというのでしょう。見えない。それを思うとつくづく悲しくなります。

・自分の存在が人に見えてないとか、つまりひとりぼっちであるとか、ここからもう何も開けていく気がしないとか、そんな感じがこのところずっとある。こういうのはクスリ効かないでしょう。いつもうっすら悲しい。そういうときどうすればいいんだろう。
レッスンへ行く。昨日の「はにゃ?」ていう感じの振り写しに比べて、踊るのが単純に楽しい。気持ちいい。身体だけでいられるというか。スタジオは広くてのびのび動けるし。

昨日もらった振りは「素材」だったんだなと思う。土曜の先生が言っていたように、受け取ってから自分なりの工夫をするところがミソなのにそこまで及ばなかったことが心残りだ。あぁなんかもったいない。

今日の振りもなんも考えず言われたとおりにやっておしまい、じゃなくてまだその先があるはず。自分をどっかへ置いときながらも考えること。でも楽しかったなー。

局所的

2008年3月24日 ダンスもの
クラスで振りをがんがん進める。ここの先生は音に合わせないというか音楽無関係につくる人なので、いまだに戸惑う。一応、音楽は流しているのだが、音を聴いていると「音に流されるな」と言われるし。何に裏打ちされた動きの流れなんだろう?ということがわからない。「振りを覚えてめでたしめでたし」というコーナーではないですよね。自分でニュアンスやアクセントをつくってよかったのだろうが、そこまで時間も足らずに消化不良な感じ。もっと時間をかけてあれこれ練りたかった。

わたしこういうことばかり(だけ)、近視眼的に考えていますよね。シリアスになり過ぎ? でもこれがよすがなのです。
「あなたのことを心配しているし、支えになりたいと思っている」と言われて安心できないというかむしろ逆なのはナゼ?

なんかすごく自分たちの都合でごり押しされてる気がするんだけど、言っても通じない。自分たちの不安を解消したいがために、やってんでしょ。昔からそうだけどさ。

「過去のことは忘れて未来をポジティブに考えたらどうか」と父が(あきらかに不機嫌そうに)言う。政治家みたいですね。ったくてめえはよ。そうゆう聞こえのいい「前向き」な言い方で私を全否定するわけだ。言ってること全然わかんないし、不愉快。そう言ったけど、これも通じない。

親とのこーゆーコミュニケーションで今までいかに力が奪われてきたことか。今は言い返せるだけましだけど、よけい孤独がつのるし疲労するのでやめてください。

頭にナベかぶったまま、自己正当化、自己弁護。自分のしてることに気づいてくれ。

世間的には私のほうがタチが悪いってことになるのかもしれないさ。愛情がないとか言ってるわけじゃない。いわゆる家族の問題って愛と言う名のもとに潜行するわけでしょ。

ものすごく寂しい、って言ってんのに。先がおそろしく心配、自分にはちっともいいとこないんじゃないかとか、とにかく寂しくて心細いです。

レッスンへ行く。「できてるんだから、目線をしっかり、自信をもって」と言われる。わかっていてもつい…。

音楽が鼓舞してくれないときに、いかに自分で踊りをつかまえて気持ちをつくっていくか。難しいけれどもそういう面白さ。

★すごく大事なこと:
どんな人のどんな振付でも、「ここはこうしたい」とか、自分で工夫できるところをみつける。そうして自分のものにしてゆく。カタチの再現に終わらせず、自分でふくらませるということ。
実家に寄ったので言いたいことを言ってきた…つもり。でも通じた感がない。後味もよくない。泣かれたし。泣きたいのはこっち。

「いつもあなたのことを気にかけていることは信じて」と言われる。でもわたしのポイントはそこじゃないというか…それは何度言われても響いてこないので違うんだろう。

別に今になって親からどう遇されるかという問題より、わたしには実家にいた頃、とにかくひとりで病んでいたなという思い出のほうが強烈だから。

わたしは自分の家族をつくりたいです。

この道は自分ひとりが歩いているのではないと思うけれども、家族とあれこれあった先行く人たちは、家族との和解をどうしているのでしょう?

一日中、結局アメ。でも大家さんの庭にウグイスが来ていたのを見つけた。

雨のなかクラスへ行く。どよーんとしてたのでレディオヘッドの15stepsをiPodnanoで二回聴く。

腕を大きく使って動く、というエキササイズ。「腕を動かす」というほうに気がとられがちだが、キモは「腕に導かれて身体(体幹部分であり、脚)を動かす」ところにある。

…というのをいつもは腕にとらわれてなかなか自由に動けないのだが、今日はちょっとよくなった気がする。

人のを見ているときは「ああしよう、こうしよう」と思うし、うちに帰ってからもアイディアが出るのだが、なかなかその場で実際に再現するのは難しいものだ。

久しぶりに身体を大きく動かして、きつかったけど気持ちよかった。こういうのまたやりたい。今度はひねったり、ねじったり、回転する動きにつなげられるように。

けもの道

2008年3月18日 ダンスもの
先週は先生が体調不良でお休み、久しぶりにジャズの…というかまともなダンスのレッスンへ。昨日のもWSもダンスだけどね。今日はなんかちょっといいんじゃないですか。別になんもほめられはしませんが。

昨日のクラスを考える。やはり無難なところからは何も生まれない、と私は思う。テクニックはあるにこしたことはないんだろうが、それに逃げてもたぶんつまらなくなる。練習は淡々と。なおかつ虎視眈々と。

帰ったら頼まれ原稿の校正刷りができたと連絡があり、時間もないというので急いでチェック。他の人はお任せだろうけど、私が前にこれをすっとばされてぎゃんぎゃん怒ったことがあり、タイトなスケジュールのなか気を遣って見せてくれたのでしょう。電話くれた子はデザイナーさんのところにいて、今日は帰れないのかも。お疲れさまです。別に文字が2文字でっぱっていたって間違った情報が伝わるわけではないが、そういうノイズは私は気になるし、意識してはじけるものはできるだけ除こうと思う。
アドバンスクラスへ行く。今日は振りを中心にやったけど、満足に出来ず。そのあとちょろっとやった即興もうまく入れなかった。とらわれた。悔しい。なんかできないことばかり気になって、世の無常だな。私だけができてないわけじゃなくて、でもできてる人もいて、身体がちゃんと使える人は先生もそのように見てくれるのが羨ましい。率直に言って、私も踊る人として認められたい。自分にもいいところあるんだろうか?しかし自分の今いるところからやってくしかないだろうと、へたなのになー、他にやること私はないしさー、通っている。
土曜日の朝一という素敵な時間帯のワークショップ。眠いです、が会社ほどではありません。森下へ。

「間(ま)について」というテーマ。昨年末のクリエーションで、さんざんこれを言われて気になっていた。踊る人はカウントとってるぶんには考えないんじゃないかと思うが、マイムの人たちはコンマ何秒かって勢いで(自分のカンで)これをとり、最大限の狙っていた(みたい)。

このWSはコンタクト・インプロ(CI)の国際フェスの一環として行われるので、公用語が英語(外国人講師や参加者もいる)。日本人の講師の方は謙遜していたけど、上手(聞きやすく、自然に通る英語)だと思った。

そういえば「英語を話すことのセンセーション」って今はないなぁ、とふと思う。すごく前、英語を話すことに高揚感があって、日本語ではわざわざ言わないようなこともわざわざ言ったりしていたことがあった。今は日本語で話さないようなことは、英語でも話さないと思う。今でも会話力はぜんぜんビジネスレベルじゃないという自覚はあるが、そのへんの向学心はナイ。

この「間」を英語でなんというのか? WSではずっと“MA”って言ってました(笑)。英辞郎では"betweenness"ってあるけど、そのまんま。emptinessとかvoidじゃないか、という意見もでたが、それでは「間」の豊かさを表現するには足りない気がする。balance、と言った人もいた。それは悪くない線かもしれない。二者間の見えないバランス。

私が今の時点で理解している(舞台における)「間」というのは、観る人に起きていることを「わからせる」ためにあるもの。動く側はストーリーがわかっているので、急ぎすぎてしまい、観る人がついてこれないことがあるので間をつくる。あるいは起きていることをハイライトするためのもの。

でも、じゃあそれをどのくらいの距離で、何秒間やったらいいか、というのはあらかじめ計測できたりしない。その場の気配でその場で決めて、動くものなのではないか。

「気配、て何ていうのかしら」という話も出て、その場ではわからなかった。やっぱり辞書ひいたら、hintとかsignになるんだろうか? でもこれでもちょっと語感が強いような気もする。

上で書いたように「間」には時間と距離、両方の意味がある。このWSではどちらかというと、前者にフォーカスしたワークが多かったように感じた。ペアになって動きつつ、あいだの距離を変えてみたり(でも関係性は保つ)。

私は思い切ってフランス人の男性と組んでみた。言葉は通じなくても、エチュードの共有ができて、面白かった。でもそのあとその人は抜けちゃって、まさか私と組んだからではないと思うけれども、まぁお疲れだったのでしょう。

相手を替えて、タタミ2畳くらいのスペースでペアが正座など座った姿勢のバリエーションで動く、というのをやった。相手の動きに応じて、言ってみれば将棋みたいに自分も動く。方向を変えたり、並びを変えたり、テンポを変えたり…やってることはごくわずかなのだが、観ていると静かにドラマティックで面白い。

このミニマムなワークはとても面白かった。この頃「何か(というのは「踊り的な何か」)をしようとしなくてもいいんじゃないだろうか」「もっと待ってもいいんじゃないか」という方へ関心が向かっているので。

動いてないわけじゃないけど、全体に静かなWSでした。あ、そういや和風だったかも。

参加者のなかには「できる」感じの人々もいて、動きに目が行った。CIの人々は「ジャム」というのをやります。昨晩、そして今晩もあるそうで、これは音楽でいうジャムセッションみたいに自由参加でインプロするもの。こういういうことが、じゅうぶん楽しめるくらいできるようになるといいなぁと思う。

「間」というテーマもよかった(続きをやってほしい)が、今日つくづく感じたのはパートナーリングは面白い、ということでした。人と一緒に動けて、そのバリエーションが広がったらもっと面白くなると思う。

そのあと、いつものレッスンへ。ターンは思い切りが悪く(こわいから)、いまひとつ正しい位置に立ちきれてないような。上達してんだかな。こっちはこっちで、やることやんないと。ほんとに頑固な身体。
一日いいところなし。日中の行き詰まり感がかなりある。会社に行っててもこれなので、やばい。頭をかきむしっています。

自分の考え方ひとつ、なんだろうけれどこうも考えが変わらないと絶望に近寄る。一生、気を紛らせて生きていかないとしのげないのだろうか、と思うとどうしようもなく重い。閉塞感。自己否定感。このところの日常、かなり厳しくてどうしようかと本気で考える。

クラスでマイムの「壁」をする。そこから動きに発展させる、という流れ。これは(というか、マイム一般にそうなんだけど)難しいので苦手意識が先に立ってしまい、自由度がせっかくあがっても動けない。落ち込む。私ひとりができてないわけではないんだけど、ずっと通ってるのにこれだからな、いいとこなくて消化不良、かなり下がったまま帰る。

インターミッション。
何かができなくても人は生きていていいのではないでしょうか。そんな尊い考えは私から一千万光年も離れています。

「マイムは95%できてないと見えない」と先生は言う。そしてなおかつ「テクニックを見せるものではない」。テクだけだとできていても「で?」って感じ。+その人のもつ何かがあって立てるんだろうけど、その「なにかしら」にだけ頼るわけにもいかないし。天賦の才があるならともかく、才も美貌もない私はなかなか上達しなくても覚えが悪くても、練習するのです。でも、練習してどうなるの、私は。私なんかさ。一行目に戻る。

書庫開放

2008年3月10日 ダンスもの
心穏やかに休日を過ごせればいいのに。ぐちゃっとしたまま会社へ行き、帰る。なんでこんなことしてるんだろう、と思いながらムーブメントのクラスへ。下手だし、性格暗いしさ…とか、ぐるぐる。コンタクトインプロのエチュードをする。こういうのは面白い。身体使えてないんだけど、身体を使ってすることの今までのあれやこれや記憶と体験が、案外どこかに蓄えられているような気もする。自分だけの図書室みたいに。好みの本ばかり、自分なりに集めて並べたそれは、人に見せてもいいのかもしれない。

「日本の女性ダンサーの欠点は軽いこと(そういう人が多い)。ちゃんと足を踏めてない。重みをかける、という意識をもつ」

「自分のやりたいことはもっと態度でアピールする。相手の出方を見過ぎない」
実力のある旬なダンサーが日本全国「踊りに行くぜ!!」な一年がかりのプロジェクトに出演した49組のなかから4組が選出されたベスト・オブ・ベスト(と、理解していました)。本日チケット完売だそう。以下、出演順に。

KENTARO!!(東京) HipHop出身の若手コンテ・ダンサー。早わかり20字解説。構成が?だなと思いつつも、動きがぐー。キレがあるし、しなやか。前に観たときより良くなったと思う。音感もすごくいい人。振付をもうちょっとがんばってほしい、けどなんかこの人は好感もてます。

KIKIKIKIKIKI(京都)この人たちすげー。好きとは言わないけど、すげー。肉色食虫植物みたい。あまり長時間観たくはない感じだが、身体が自在に動いて達者なこと。すごく効く身体なのに、ふくよか体型のダンサーの方は、わざと太っているんだろうか? デビッド・リンチをさらに壊した感じ?「前衛」という言葉が浮かぶ。こういうの好きな人いるだろうな。テクニックがあっても、これくらいやらないと頭ひとつ抜きん出る、ところまでいかないんだろうか。振付家(きたまり)のソロはなかなかよかった。ひょっとすると世界に通用するインパクトかも。

プロジェクト大山(東京) レビューで書かれているほど、私はいいとは思えなかった。ユニークとも思えない(こういうの他にあると思う)し、何より気になるのは意識が伴ってない感じがすること。ダンサーがただ振りをこなしているだけ、な感じ。難しいことをしているのに中途半端でもったいない。これだけ動いていながら醸し出されるものがこんだけってどうなの。悪い意味で学生っぽい。

白舞寺(台湾) エネルギーがある。民謡みたいな音楽に、ごくごくシンプルな動きの繰り返し。それを憑かれたように踊っている。目新しいことも凝ったこともしてないのに、ひきつけられる。結局、いちばんシンプルなこれがいちばん面白かった。ある意味これまでの3組をひっくり返すかのような、踊りの原点みたいな踊り。「ダンスってこれでいいんだよね」と私はちょっと観ていて安心した。映像を使うのは一昔前な古さがどうしてもあるのと、ちょっと長いと思った。後半はなくてもいいんじゃないだろうか。

しかしなんだか疲れる企画。抜け感がないのはなんでだろう? コンペっぽいから? KENTARO!!以外、みな女だからかもしれない。よくわからない。

今週は疲れた。先週よりも。気がふさぐことしばしば。
週2回になったクラスへ行く。年末のクリエーションで一緒だった子に再会。

後半で「ブラインドウォーク」をする。ペアになってひとりが目を閉じ、もうひとりが手をつないで誘導するというもの。慣れた場所で障害物はないし照明もついているし、これは何度もやったことがあるのだが、こわい。

目が見えないまま動かされていると、まわりが不確かで危険な場所に思える。手はつながれているのに、たったひとりでそこにいるように思える。

私が存在しているのは実際こんなところなのかもしれない。私にとって生きるってこういうことなのかもしれない。暴力に満ちた静かな場所。これが自分の日常、と思うと暗い月面のような場所でも足を前に出せる。

ここから動きをコンタクト・インプロ風につくっていくのだが、それはやはりハードルが高くて、特に今日みたいにペアの相手が相手を感じる前に自分で動いてしまったりすると(そういう人は発信もわかりにくい)何をやってるんだかはっきりしなくなってくる。もっと丁寧にやればよかった。なんだか動き足りない。

気になる人たちのうつくしい音楽を聴きながら帰る。聴いていると研ぎ澄まされたり、癒されたりする。久しぶりに近くまで来る音に会った。今さらですがレディオヘッドに感染しました。
月曜クラスに行く。先生が具合悪そうなので驚く。声がらがらだし。2年近く通ってて、こういう声は初めて聞いた。「花粉症」って言ってたけれどそれだけではないでしょ。先週のいきおいを思うと別人のようだ。それでも元気だけどね、ふだん人の5倍くらい元気だから。仕事が忙し過ぎて疲れがたまったのでは、と思うけれどもそれを認めるのもイヤなんだろうなぁ、とか思う。しょげてるっぽく見えて、なんだか気の毒。

コンタクトインプロの練習。ペアの相手は初対面だったが、「そこは乗らないで」「体重もっとかけて」とか割とはっきり言ってくる。こういうこと躊躇なく言うのは「腕に覚えのある人」が多い気がする。ダンス経験の長い人(みんながみんなそうではないし、別に経験なくても主張する人はいる)。クセのある子だな、と思って身構えたが、しばらくやってるうちに、良くしようとしてるから口に出すんだな、と思えた。私には組みやすい相手。やっぱりクセのある子かもしれないけれど。
WS最終日はショーイングということになっていて、ご近所の友人が見に来てくれると言う。別に作品をつくって見せるわけでもない地味なイベント(?)だから、お客様が彼女ひとりだったら申し訳ないなと思っていたら、10数名の方々が来てくださっていた。何に使うのかしらないけれど、いかにも高そうなレンズ付き一眼もったカメラマンまで。

「見る人」がいると、身体が開きやすくなるし、動きの流れを考えやすくなるように思う。緊張もするけれど、だから見てもらえるのはありがたいです。ショーイングといっても、これまでの稽古でやったことを見せてるだけなんだけど、自分も含めてみんなだいぶ感じが違っていたのではないでしょうか。

最後にそれぞれの感想を話していたとき、私は「内にこもってみえるのが嫌なので、とにかく我を忘れて『動きまくる』という時間ではかえって冷静に考えてしまい、あまり没入できず、混沌としたまま帰ることのほうが多かった。ペアだったり、今日の最後にみんなで動いたときのほうがヒントをもらえたり、自分という枠から抜け出せるのでやりやすかった」と言った。

ソロはソロで、ひとりで立たなくちゃいけないけど、こんなに人がいるなかでは出会うことはうつくしい。最後のワークでは、まねしたり、まねされたり、ちょっかいだしたり…ということで動きのエッセンスをもらうことが私には面白かったのでした。

「かたちがすごく見える。悪い意味でなく、意志があるからそのかたちが強い表現に見える。自分のスタイルがありますね」というようなことを先生に言われる。(よくわかんないけど)「このかたちを運ばないと死んじゃう」とか、そういう意気がないと、「あの人なにやってんの」になっちゃいますし。私は「内面の感覚で動く」っていうのが苦手だし、出自がジャズなのでかたち志向になるのかもしれない。先生の言葉は、いやちょっとサービスだろうけど、ほっとした。

自分のやりたいことって、振付ものと、こういう即興の中間にあるようなことなんじゃないか、とふと思った。ジャズダンス、コンテ、即興のなんかミクスチャーみたいな。「内面の感覚を大事にする(らしい)」即興だの舞踏だのの場では、自分が音なりかたちから動きをつくることにひけ目を感じたりすることに今回、気づいた。genuineじゃない、とか、イロモノぽいとか。でも、それが、ついやってしまうようなことが自分の「スタイル」で、やりたいことなのだろう。

何にせよ、自分にとっての必然の糸を紡いで動きにしてゆく。それでいいのだと思う。

「好きなこと」なのだから、焦らずゆっくりやっていってみよう。

友人からは春らしいお菓子の差し入れを頂きました。混沌とする経験でもありましたが、教えてもらったこと、気づいたこともあり、やはり「出てよかった」。体力的には結構きついWS(精神的にはライトの部類)、通してまぁがんばったかな。

混沌孤独

2008年3月1日 ダンスもの
3月ですがWSの続き。今日は2コマ(4時間半くらい)、でもその長さを感じなかった。

基礎が本番につながらないことがままあるから、基礎訓練のAプロと経験者対象のBプロがあまり変わらない内容につくっているのだそうだ。ただ訓練に終わる基礎は意味がないということ。

よつんばいになった状態から、時間をかけて立ち上がることを2人組になって、ひとりがリーダーになりもう一方は相手のまねをする、というワーク。動きを途中で忘れたつもりで止まって、ゆっくりプロセスを感じて大事に動く。自分の身体が「もの」になったつもりで動かす、という指示。自分が何かの機械(フォークリフトとか)になったつもりで、重たく身体を運んでみるのは新鮮だった。

相手の子がセンスよくて、いい流れでできたように思う。人のを見ていても、止まったりゆっくり動く時間って豊かで美しい、と思う。

でも、なんでもゆっくりやればいいというわけでもないように感じた。好みの問題かもしれないが、よつんばいの人が重心を上にあげて立つ、というテーマの動き以外のことに時間かけても「だれる」ように見ていて感じた。必然性が薄いということかも。

私はこのワークのキモは「ゆっくり、止まる」という「動きを抑える」ことにあると思ったのだが、なんとなくミラーリングなら何でもいいぽくなってる。先生もそれでよし、としてるみたいだけど、なんだかもにょる。

「動きまくる」時間で、今日も混沌に陥る。足りないんだろうか。ダンスっていったい何なんだ。

踊りたい人、踊れる人はいっぱいいる。自分だめに思えてくる。まるごとだめに思えてくる。お先このまんま箱の中、て感じ。今すごく寂しいきもち。この「自分だめ」になだれこむ仕組みていうのはどういう病気なんだ。
会社のあとにWS通い、もはや夜勤のよう。連日だと単純に寝る時間が減るので困ります。激眠い。ネガティブにも落ちやすい。

とはいえこういうことに集中する時間をもてるのは幸せだ。考えたくないことを考えないですむから。気がまぎれるから。

スタミナないと思う<自分。基本的に身体を動かしまくるワークショップなのだが、疲れてくるとすぐごまかしてるし。

それも「ひとりでするワーク」が多い。今日はじめてペアになって、一方が小さな空間に入ったつもりでじっくり動き、片方は相手の動きのどこかを盗んで自分の動きに発展させる、というもの。相手とかかわりをもちながら動くのは案外むずかしくていろいろあったりするが、今日は相手と「ペアルック」でなく、でもつながりのある感じはもてたように思う。動きのヒントをもらえて楽しかった。

これを全体二つに分けてやったのだが、自分が見ていたらある人がいみじくも言ったように「ばらけて」しまっていた。縛りを超えすぎたというか、パートナーとの関わりが見えなくなってて、何やってるのかわからない感じ。

自分のことは棚に上げますが、もっと待っていいのだと思う。動かねばならない、のではないのだから。ずっと立ってるわけにもいかないけど、プロセスが流れるのを感じつつ待ちつつやってもいいのでは、と見ていて思いました。

去年の、ソロをつくるWSで、先生が「私たちはただでさえ何かやりたい人たちなんだから、何もしないでもいいくらい(のつもりでやって)」と言っていたのを思い出した。

見ていて思うのは(自分も含めてだろうけど)「内にこもる」人が多いということ。こもってると、なぜかしら―自己完結ぽくなるからなのか―惹きつけられない。外側から動かされる感覚、とか↑のペアワークとか、そもそもこうならないために練習してるんではないだろうか?

よそのWSに出てみると、ひょっとして自分けっこう貯金があるのかも、と思う。前にやったことがある、という体験の貯え。動きのアイディアは前より増えた。でも、自分がやりたいことが本当に実現できているかということが私の課題。自分でこう見えてほしい、ということと、見る人の見え方がずれていないかどうか。ずれをなくす。身体の使い方うまくなりたい。基本ですが。身体の中心から、動きを出せるようになりたい。そうすると動きの説得力も増すのだと思う。

見ていると「上手な人には上手な人の悩みがあるんだろうな」と思う。テクがある=面白い、でもないし。ダンスっていったい何が見る者をひきつけるのだろう?考えるとわからない。

年末のクリエーションで先生が「チームのなかに、誰かひとりでも『これが絶対いい』とか『かっこいい』と言うやつがいると、なぜかよくなるんだよね」って言っていた。自分にとっての「いい」をしっかりもっとくことだろうか。根拠レスでもいいから。

私にとってのダンスは「内省の表出」とかではなくて、外のエネルギーで動かされるものです。そのエネルギーとは、やはり音楽。

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