箱女

2008年2月28日 ダンスもの
WSの続き。メインは昨日が初回だった「踊りまくる」プログラムだが、今日は基礎訓練の日。今日のほうがいろんな意味でシンプル、居やすかった(でも質は昨日と変わりないように思う)。集まりも昨日の半分ほどで、本当はこれくらいのほうが動きやすいのに、と思う。

自分で思う「腰を下げてる」位置より、さらに10センチくらい低くしないと見ている人にはそう見えない、ということ。自分で思っている身体の動きと、見え方が異なる、という課題。ほんとにそうだと思う。

自分が小さな箱に入ったつもりで、側面に身体の一部をどこかあててゆく、というワーク。以前こういうの苦手だったけど、慣れたのかな。やりづらそうにしている人を見て思う。集中して箱に入ってたら、みんな箱というよりゼリー状になってて、「違うじゃん!」と途中でいきなり飽きる(笑)。

体力的には今週やっぱりきつい。今日も腿ががくがくしてどうにかなっちゃいそうでした。

・動きと反対側の身体の面を意識する。右手を前に出していたら、後ろへひっぱられる左の背中、左手、というように。前面だけでなく、背中側にも意識をもつ。

・自分で動くという意志と、「動かされる」という感覚。

・何も考えないでがーっと身体をとにかく動かすという熱狂と「外から見る」という冷静さを同時にもつ。私は「自分を批判的に見る」ことを「外側から見る」という客観性をごっちゃにしていた。いつもつい表に出てくる前者は、「外から」どころかまったく私の内面の視点だった、ということに気づいた。

・忘れがちだが「顔の向き」も重要。たとえば動きと反対のほうへ顔を向けてみる。

・つまり視線もまた重要。目はほんとうに「ものを言う」。顔を上げることは「私はここにいます」という表明。

帰ってとんでもない時刻におにぎりとか食べてる

遠征中

2008年2月27日 ダンスもの
コンテンポラリー・ダンスのワークショップへ行く。場所は昨夜と同じ森下、日曜までびっしりと森下通いの予定。

自己紹介して、アップがてら「鬼ごっこ」をする。私はこの手の「スピードが決めて」なゲームが苦手というかトラウマ。子どもの頃、いちど鬼になってしまうと二度と抜けられなかったりとか、「自分はのろま」とインプットされているので「フルーツバスケットで3度座れなかったら、みそっかす」みたいな掟には自動的に反応していちばん先に落ちる人になる。

ルールもなかなかのみこめず(私ってばか?)、鬼になったら途方にくれて「私いいです。よくわからないので抜けます」とか思わず自ら言っちゃった。私はこういうの楽しめないというか、コワイ。今になってもそういうふうに思ってるんだなと気づきはしましたが。

WSでやることはいつも行ってるクラスとそう変わらないんだけど…場所も変わって人も変わって先生も変われば、変わる。

今日は初めてだし、寝足りてないし、書かないことにするが、気になることもあった。こういうシンプルなトレーニングは、「誰が見ていてくれるか」によってすごく違ったものになると思う。指導する人の個性に左右されるところが大きいと感じる。いつものクラスって、実はやっぱりかなりいい。そして安心して動けるというのは、先生も(この緊張感の強い私にとってはなおさら)、ものすごく貴重な存在なんだなーと改めて思いました。

立った姿勢から、10分間かけてくずれ落ちるというのをやったとき(時計は見ないので10分は自分の感覚でとる)、「朝の電車だと2駅でも座るのに私なに粘ってるんだろう」とか思いおかしくなった。こういうの好きなのでたっぷり味わってエキザクト10分。やったー。

ダンス友にも会えたけど、やはりたまらなくアウェーな気持ち。まあそれはしょうがないし、結局はそういうものだと思うけど。想像の2倍以上の人がいたし、レベル高い人も多いです。

身体動かしてもほどけない、混沌とした感じがなお残る。無価値感。「私は受け入れられない」というのは思い込みなのかもしれない、しれないけど、どうしたらいいのか、勝手に列車がその線路に入っていってしまう。

「大変でしたか、身体大丈夫ですか」と兼スタッフの女性に訊かれた(ちょっとむっとした)。いえ、月曜のほうがよっぽど大変でした。

私は自分の「踊ろうとする」意識、「何かしよう」とする意識はいやらしいと思う。

・観る人の予想を裏切る軌道をつくる

・頭の位置を変えてゆく(上げる・下げる・傾ける・うつむく…など)
「空白に落ちた男」リターンズ(@ベニサンピット)。ダンスの公演で1ヶ月以上あいだをあけて2回目を観られるとはなんて贅沢…。

2度足を運んでいるのは、ひとえに首藤康之さんの観察記録(?)のためです。かっこいいんだけど、前回はひとりエッジが立ってて、なんとなくあの場に対してどことなく違和感があるような感じがしたのがどうなったか。

最初のシーンとか、振付すこし変えたのでは。そういう洗練はあるんだけれども、全体に私は初めて観たときのほうが緊張感があって、インパクトも強かったように思う。あくまで個人的な理由なのだろうが、予想に反して前回のほうが面白く感じられた。…っていうのは気落ちすることでもある。

観ていて思ったのだが、私にとってこの作品は「意味が勝ち過ぎる」のではないかということ。2度観て、イメージだったのがストーリーの断片として、自分のなかでつながるようになってしまった。わかりやすく、はなるのだが、作品の出来不出来と関係なく、ダンスに「意味」がつきすぎると私には重いのだ。

感覚だけで芯をつくるのも難しいしそこだけに頼るのはリスキーに思える。どうすりゃいいの。

この方たちの作品において、「誰もしゃべらない」という原則は、観る者である私にとって安心できることなのだが、「言葉的なもの」は確かに存在する。それをどうとらえるか、というところで動く者としても「うーーん」となってしまう。私自身もこうして言葉に頼っているわけだが、散文よりは―せっかく身体を使ってやっていることなのだから―瞬間の韻文のほうに惹かれる。私にとっては後者のほうが動きの動機になりやすい。

あと、すごく具体的なことだが前より一列前になっただけなのに、舞台装置がぐっと見やすくようになった。場所と人の意味がかたちをなしてくると、私にとって、そこは「不思議な場所」では実はなくなってきてしまう。

この作品を楽しんで観ている(であろう)人たち、こういうスタイルが好きで観に来ている(であろう)人たちのなかで、こんなこと気づくのはなんだか心細いことですよ。へこむ。

ひとつあけた隣りの席にクラスの子が偶然、来ていて話す。ロビーで昨夜の先生と出くわす。こんにちは。なんだか今日は先生と会うような気がしていた。でもへこむ。

話を戻す。首藤さんは肩の力が抜けたよう。一同になじんだ感ある。前回は素の部分で戸惑っているような気がしたところにぐっときたのだが、今回は役を上手にこなしているみたいで、strangerぽくなかった。それがちょっと寂しい。ソロは振付変わってなくて、やっぱりバレエ。でも前回ほど「すごく浮いてる、変だ」とは感じなかった。この人はこれで、バレエダンサーでいいんだと思った(私が「いいんだ」なんて言うのもおこがましいですが)。

最前列なんて「踊り子さんに手を触れないでください」の席。そのすぐ後ろの列でよく見えたせいなのか…、動きも実は前のときほどは精緻に感じられなかったのです(それでもやっていることはすごくユニークなんだけど)。

今日の私の気分の問題かもしれないけれど、動きになんかこうグルーヴというか「音楽」がないのが物足りない。5人いるうち、ダンサーふたりにばかり目がいった。

梶原暁子さんはやっぱりキュート。全身が。ソロちょっとニュアンスが前と違うかもしれない(記憶違いでなければ)。なんでもなさげーにひざついてくるりんと回ったり、すごいです。

最後に出てきて挨拶で、首藤さんの笑顔を見るとほっとする。

ダンスについてあるいは去年あたりからの生活全般について私自身が考え込み気味というか、狭いところからなかなか出てこれない。そろそろ出たい。出て風を通したい。

終演後、付近にお住まいの友人カップルとごはん。というかごちそうになる。血縁でなくても友人に育てられること多し。感謝。
関西で作品をつくっていた先生が戻ってきて、1ヶ月半ぶりにクラス再開。

ブランク後はいつもそうだし、増設された月曜は「アドバンスド・クラス」だそうなのでなおさら緊張する。

会社のあとにこういうことをしないで、ふつうにおうちに帰って、心の平安を得られていたらどんなにいいだろう。

敬愛する先生ですが、年末のクリエーション&ショーイング以来、私に「純度の高いヤクを打って、そのままどっかへ行っちゃった人」というイメージもあるのでちょびっつ憎も実はあります。

それほどあれは強烈にぶっとんだ体験だった(らりってただけではなく、あるいはらりってたからこそ学んだことも本当に多い)。去年は幸せなことに、素人の私にもひとさまに見て頂く機会が続き、私はほどよく日々のいろいろを飛ばすことができた(その舞台のはざまをメンクリの先生は心配した)。

貴重な作品づくりとパフォーマンスの機会を与えてくれた人を恨むなんて筋違いもいいとこ。それに発表や制作の場は自分で見つけていくものだ。

とは思うものの、プロの人に比して私は制作の辛くて甘い美酒に酔い続けるわけにもいかないわけで。酔っ払いって、キライ。酔い続けていられるものなら、それが許されるなら、しらふでなんかいたくないさ。

クラスの内容はフィジカルにしんどかったです。それはいい。

久しぶりに会った先生はテンション高い、つか気が上がってた。なんだか私はいらついた。これは一体どんな種類の治療なんだ、とつくづく思う。

なんだか怒りのエネルギーでやってたなー、私。あと、ビョーク入ってました(笑)。まじめな話、なんかビョークのイメージもつとひとりで立ちやすい感じがするというか、立ち向かいやすい。彼女ならこんなこと何でもないだろうと。

きっついメニューではあったが、なんとなく気持ちおさまらず。帰りの電車のなかで「いつもこの時間帯に出てるレッスンへ行こう」と決める。残り3,40分だけどいいですかというスタジオ受付の子に「いいです!」と言い、先生にも「とんでもない時間から来ましたね」と言われつつ出る。

はしごレッスンするつもりは(当初)なかったけれど、振りを踊って、気持ちが落ち着いた。あのまま帰らなくてよかったなと思う。

テンションにはつき合わないけど、訓練はする。

「1回目がこの勢いで、あとが心配」ってみんな言ってたけど、私は初回だからこそ、あの高さだったんじゃないかと思う。先生も今かなり「やりきった感」に満ち溢れてるだろうからなー、それにいろいろ言ってたけどみんなを置いてフルスロットルで突っ走っちゃう人でもないでしょう。

いつものレッスンが完璧、というのではなく、だからこのクラスを含め別のところにも行ったりする。どこも「自分にぴったり」なわけない。

自分がやっていることを、自分の生活のなかでどう落ち着かせていくか、自分で考えていくことなんだろう。仕事ではないからこそ、そういう自由もあるのだっけ。
前にもここに書いたことあるけれども…「コーラス・ライン」(映画版)。公開当時、映画館で観た回数は10をくだらないと思う。会社帰りに通ったものです。その頃、サントラを借りてカセットテープ(ひゃー)に録音したのを聴いていたのだが、このたびアマゾンでCDを買う。曲を聴いていると、映画のシーンがおのずと浮かんできて、なんだか元気になってきたわ。自分のダンス的野望は今や別のところにあるとしても、原点はここ!と思う。ベタですが。

「ジャズダンス」とひとくちに言ってもいろいろで、そしてブロードウェイ・スタイルって今は流行らないのかもしれないけど…文句なくこれはいいです。Very 80’s でも、色あせない。きらきらしてる。ダンサーもみな素敵。

こうゆうスタイルのダンス、この頃やってないけどレッスン出てみたいなー。ショービズ志す方からジャズダンスって何?と思う方まで、ぜひ観てみてほしいです。

…っていう、お勧めレビューの話だけじゃなくて、こういう感覚って改めて大事にしたほうがいいんじゃないか、とふと思う。なんだか長いあいだ、あえて捨ててたような気もする。ダンスについてのみならず、生活一般において自分にとっての「きらきら」とか「わくわく」はちゃんと持ってたほうがいいんじゃないだろうか? 年齢がどうだとか、人にどう思われるかとか関係なく。ベクトルの向きとして、磁石として。

http://www.amazon.co.jp/Chorus-Line-O-S-T-Original-Soundtrack/dp/B0000261M5/ref=pd_sim_m_title_1
先生が「なんかない?」と寄ってきた。「なんか」とは音楽のことである。またレッスン前にCDをどっかに置いてきたんだって。んもー。ストレッチ用に"Adapt or Die: Ten Years of Remixes"(EBTG)をアイポッドナノつないで貸す。スタジオで聴くトレイシー・ソーン素敵ですが、自分の持ち出し音だと思うとなんか気恥ずかしいというか緊張した。

・(ターンのときも、ジャンプのときも、バットマンのときも)プリエをしっかり踏んで、足をアウトに開いて進む(身体も伴って支える)。
・両脚のつけ根をそれぞれ外側に引き合うように。
・つけ根を立てる。
・足でしっかり床をつかむ(せっかく裸足なのですし)。

これら基本中の基本が、身体に心に入りきっていない自分が情けない。何万回と聞いているのに。

ダンスで気持ちが紛れるが、そこで自分を量りすぎて狭く不自由になっているのでは。何もしなくても、できなくても、存在に自信がもてればなあ。自分を赦すことができればな。
夜のレッスンへ行ってみたら、うわんと人が増えていたので驚いた。て言っても7人だけど。いつもは2,3人なので。昨日、別のスタジオ主催のパフォーマンスに先生が出演すると聞いていたので、そこで何か(派手なことを)やらかしたのかと思ったら、特に何もないと言う。でも良いことだ。いい先生だから、生徒が増えるのは純粋に嬉しい。テーマパーク・ダンサーの人やら、アフリカン・ダンスの男の子やら。人が増えると活気がでるね。狭いスタジオなので場所のやりくりもあるけれど。私も来週からWSが入ったり、レッスンのスケジュールが変わったり、珍しく「模様替え」です。
コンタクト・インプロWS3回目。やっぱり3ヶ月くらいかけてじっくりやりたいな、という気持ち。楽しかったけれど不全感もある。全3回、よく通いました>自分。

創成期の頃のパフォーマンスをビデオで観た。相手(の重さ)を使ってあれこれするからうつくしいのであって、己の力だけでやってるとつまらない。前にジャム(いわば飛び入りセッション)を観たときも、コンテとかバレエをきちっとやってそうな感じの人々がくるくる相手を動かして自分も動いているんだけど、何か感動が薄い感じがしたのはそういうことだったのかと思う。

コンタクトのキモではないかもしれないが、今回いちばん印象に残ったのは「視線の大切さ」ということでした。例えばリフトをするときでも、目線が落ちてると上がらない。案外、忘れがちだけれどこれは重要。

夜はレッスンへ(いつもの)。動いていたのに眠気とうつ気が強かった連休。
ダンス以外およそ生体反応のない私。

ダンス(WS)も、落ち気味。今日は朝から悲しい・寂しい気持ちにつきまとわれてはいたのですが。WSの「和気藹々」「楽しいなー」みたいな雰囲気が苦手。別に合わせる必要はないし、淡々とした人たちもいるのだが、過剰反応気味に自分にこにこしてたりして疲れる。小学生の頃の「積極的に自分から声をかけてお友だちをつくりましょう」というプレッシャーがよみがえるかのよう。大人だから自由にしていて、いいはずだよね。

それに「コンタクト」っちゅうくらいだから、ほとんど初対面の人たちと身体を合わせてずっとペアワークというのも緊張することでもあり。

ひとりが「机」のかたちになり、もうひとりがそこを後ろ回り、前回り、横回りというのをやる。先生は軽々とデモしてくれるのだが、こういう技ものって難しい。慣れだろうか。ある程度は続けてやらないと…なんだろうな。

・#視線は大事# 視線もダンスの重要な一部。視線を意識的に定めると、動きが見やすくなる。ラインが見えやすくなる。

・至近距離・ミドルレンジ・ロングレンジと定める視点の距離を使い分ける。

・人の背中を使って、回転するときも、進行方向にきちんと視線をもってゆくと回りやすい。身体が移動する方向をちゃんと見る。

寒稽古

2008年2月9日 ダンスもの
不調の湯沸かし器を交換してもらう。「午前中」と指定したら、9時1分にガス会社の人がピンポン。8時半に起きといてよかった。

新品になっても「1回で点火する」という素晴らしい当たり前の事実に慣れず、まだ古い機種のスイッチがあったあたりを恐る恐る押そうとしたりしている。

レッスンで。「身体柔らかいんだから、この柔らかさを踊りで出せるといいのに」と言われる。前にも言われた。思うところありあり。「ダンス」という時空間に滑り込むとき、自分の抱える「緊張」がついてくる。わたしが世界をもっと信じられるようになれば。踊りも変わるんじゃないか。

この連休はコンタクト・インプロのワークショップへ行くのです。1回目の今日はゲームっぽくあれこれ。

「100%の主張と、100%の協調」

「自分の重さを相手にプレゼントする」

「押す、回転(ターン)する、すべらせる、元に戻る」

WSのあとにリハがあったようで、去年の早春、WSとショーイングで一緒だったカンパニーメンバーさんと久しぶりに出会い話す。人柄のいい素敵な方で好き好き。再会できて嬉しい。

終わって外に出たら、けっこうなぼた雪が降っててしかも積もってもいる。うわー。体感としては雪が降る前のほうが気温はぐっと低かったような。家の近所の道路なんて、私のつける足跡しかないくらい、まっさらなところもあった。東京人の感傷だが、雪が降ると世界が少し美しく見える。
月曜の先生が他のスタジオでもレッスンを始めたので行く。

そのスタジオのHPから派手っぽいところを想像していたら、違った。スタジオはひとつだけ、ぴかぴかではないけれど、よく使い込まれた落ち着く感じで好ましい。鏡も大きいし、照明もほどよい明るさ(ふだんが暗すぎ)。いつものところより、少し広くて、天井が高いぶん開放感がある。寝っころがったときに、古いしっくいの天井に配管がむき出しになってるのを見るのが好き。使いやすい、と感じる。

昔からある、ジャズダンスのためのスタジオってこうだったな、と思う。なつかしい。の前に、バーもある。スタジオにはバーがあるものだってすっかり忘れていたよ。

発表会が近いとかで、みなさんリハで忙しく、レッスンに来たのは私を入れて3人で贅沢に場所を使った。昨日より何ミリか、進歩したかも。

久しぶりに他のスタジオに行って、「ダンスする人って多いなー」と改めて思う。ここにも踊る阿呆の方々(笑)。しかしダンスといえども、動機も野望もさまざまだ。たとえば長年やってて、テクニックがあっても作品をつくることに興味がない人もいるし、始めたばかりでも作りに走る人もいる。

新しい場所で、新しく会った人たちのなかでレッスンするのっていいと思った。忘れていた刺激。ここはいいかもしれない。

先生からあとで「お疲れさま、今日はどうも」のメール。律儀な人だ。
“へそ下”のことなり。つまり下腹。レッスンで「おなかを引き上げて」って言われると(耳タコ)、胃の辺りを思い浮かべて「うっ」てしめていた私。息苦しい。

そうじゃなくて“おなか”とはいわゆる丹田のことではないかと思い当たる。先生に言ったら「2年くらい前からずっと言ってますよね」と呆れられる。気づくの遅い、遅すぎる。けどさ、一般人がおなかって思い浮かべるのそこじゃないか? 冷たいその言い方は。でもとりあえずへそ上は忘れろ。

図書館で草刈民代著「バレエ漬け」を借りて読んだ。案外、面白くない。有名バレエダンサーでローラン・プティに抜擢されて、ハリウッドも目をつけた映画に出演してその監督と結婚しちゃったりした人なのに。幅広の帯みたいな部分に彼女の写真が入っていたようだが、図書館バージョンにそれはなくてごくシンプルなつくり。口絵もない。こういう装丁は文章の上手い人にこそ許されるものでは。意地悪い言い方すれば。
レッスン前に実家へ寄ったら、誕生日祝いのケーキを買ってくれていた。昔の日本の「洋菓子」みたいな素直な味のショートケーキ。それにちょこっと生活費も援助していただいたりして、ありがとうございます。

レッスンで振りを踊ったとき「うまくなった。音をちゃんと聴いてる感じがする。大人の表現」と先生に言われた。えっ、そ、そうですか? ぱァァ…って感じ(ちびまる子ちゃん風)。こんなこと今まで言われたことないよ。じわーっと喜びが広がる。テクニックが上手でも音を聴いて踊っていない人というのは、うまく見えないのだそうだ。

今日の振りはもともとデュオのものだそうで、「相手に腕をひっぱられたから」「肩をおされたから」などと動きのきっかけが他者にあるという想定はコンタクト・インプロ風で私には入りやすい。

自分のセンターをうんと小さくとる(胴体、とか腰とかでなく、小さい点に)。そうするとオフにする可動域が広がる。

こんなに好きで集中できることがあるのは、幸せだと感じる。それに教えてもらえるところがたくさんあって、そのなかから先生を選べる環境にあるというのは恵まれていると思う。ほんとうに。
「空白に落ちた男」@ベニサン・ピットを観る(作・演出 小野寺修二/主演 首藤康之/出演 梶原暁子 藤田桃子 丸山和彰)。

“世界的ダンサー”首藤康之はかっこいい。立って歩いているだけで、後姿ですらかっこいい。日本人離れしたスタイルのよさ。カリスマ性がある。眼福とはこのこと。

やたらドアがあったり、ひきだしが階段になったり、天井にも机と椅子があったり、思いがけないところが開いたり…とだまし絵のような凝った舞台装置。机も椅子も「もちろん」するする動きます。

すごく面白いし、精度が高い(ついこういう言い方をしてしまう)。楽しめる。でも良くも悪くも首藤さんに目が行ってしまう、問題は彼だなあと思う。

これは私の感じでしかないが、首藤さんの動きは他の人と質が違う。できていない、とか、上手すぎるとかそういうことでもない。例えばコンタクト・インプロっぽいからみをするときなんだか動きにくそうに見える。かと思うとユニゾンの一瞬に「はっ」とするようなキレがあったり。でもそういうとき、他の人は別にキレはないのだ。

おそらくご本人が振付けたと思われるソロが、ものすごーくバレエだった。ずっと机にはりついてて…でもその気持ちはわかる(笑)。バレエの辞書にはきっと「机を動かす」とかそういう言葉はないのでしょう。

で、その首藤ソロの部分が作品のなかで浮いてる(その前の女性コンテ・ダンサーのソロはとてもチャーミングでよかった)。私ごときが言うのもなんですが、ここもっと小野寺氏が手を入れればよかったんじゃないか。いっそ振付けちゃえば。

完成度の高いこの作品で私がやっぱりいちばんひっかかるのは、主演の首藤康之の使い方。なんかあともう一歩、もったいないという気がしてならない。首藤さん抜きで、「こういうカンパニーの作品」として観るなら文句なかったと思う。首藤氏は「異分野への挑戦をいとわない」人ということだが、彼がいかに優れた身体能力の持ち主でもマイム・ベースの作品にすっと染まるわけでなく、その辺のぶつかりよう、違和感をもっと強調してもよかったんでは。もっと彼を翻弄しちゃってもよかったんではと思います。

観ていて同時に思ったのは、このような作品スタイルって―極端に言えば―作品が要求する身体(表現)能力さえあれば、出演者はchangeableではないかということ。穿った見方かもしれないが、私がどっかひっかかるのはその辺なんだろうか。

個性より能力。いや、というより能力によってつくられる個性。そういうストイシズムかもしれない。人は記号でいいのかというと、「いい」と思う。というか、それもあり。存在は良し、一方で個性はときにうるさい。演じる側には厳しい話だと思う。

そういう枠のなかで、首藤さんのスター性をどうするか、その辺が落ち着いてない気がした。あぁでもこれほどの人でも戸惑うんだ、というのを(勝手に)感じられたのはなんか嬉しかったです。首藤さん好きっ(笑)。

音楽はcoba。音楽のつけ方もいっつも気になる。塩味ついているのにさらに塩かける、みたいな。こういうのは自分の側のさじ加減がわかっていないと(コントロールできないと)大変ださいことになると思う。うまく説明つけられないけれど、こういうやり方(音楽のあて方)こそ生半可にまねすると失敗するんだと思う。

私は気になったとこばかり書きましたが、空間も動きもプロの仕事、密度の濃い作品と思います。あの振付ったら。実はすっごく期待していたの。観てよかった。

踊れることも、作品をかたちにできることも羨ましい。今は何より羨ましいかもしれない。渇望している。
レッスンへ。フロア集中振り。「フロアの練習したいです!」と先週言ったのは私ですが、なんかこう一人格闘技みたいになってた。ぜんぜんエレガントじゃないみたい。もうちょっと流れたいものです。一曲ですらないのに(そのごく一部)疲れることったら。帰って高価なフェイタス様を2枚も貼りました。先生は暗に「家でプリエ毎日やってね(少しでも毎日やると違う)」と、言ってました。はぁ。そうですね。

年末に衝動買いだのー、出費が多くて届いたクレジット明細を見てすこし悲しい気持ちになる。もう一通は、宛名で「先生」呼ばわりしていて、何かと思えば昨年春まで非常勤講師をしていた短大から卒業パーティのご連絡だった。今年度は一ミリも教えてないですよ。何かの間違いかな。かつての先生は今や心理学から遠く離れてコンサル会社でバイトしております。
シアターTVで水と油「不時着」を観る。思わず「きれい」「すげー」とか言ってしまう。むちゃくちゃ精緻。

「スタイリッシュなことをやりたいのね」と思わせる程度のものは世にままある。そういうのは「説明」の域を出ていないので見ていてもにょる、というかなんか疲れる。「泣く子も黙るスタイリッシュ」というのは、なかなかない。やはり詰めていかないと、完成度を高めないと決まらないのだと思う。スタイリッシュは水面下の水かきが大変なのだ。

この精度だと、なるほど正統で端整な音楽とも合うわけだ。隙がない。かっこいい。クラシックで踊れる人はクラシックで踊ればいいさー。羨ましい。

私自身は、このところ機動力なくて精気も元気も欠けてるよ。もっと踊りたい。もっともっと動けるようになりたい。

MY NAME IS...

2008年1月12日 ダンスもの
かなり前に買ってうっちゃっておいたもの。が、今聴きたいのはこのような音なのだった。無駄な音、余計な情緒の一切ないこれはいい。オリジナル79年発売とは思えない洗練。若者の主張をがなり立てるように歌われても困りますがそんなじゃないですし。Go PUNK!

レッスンへ行く。「振りは入っているのに(印象が)薄いから、いちいち"マイ・ネーム・イズ..."って言うみたいにやってみて」と言われてやってみた。あー私、薄いのか。やってみた。目の前に人はいないけど、鏡に向かって「こうなんだよ!」とがんがん言い聞かせるように。めちゃくちゃ良くなったと言われる。前に出る、ということ。間違わないように、が気になってしまうが、強く出すということ。この先生は「今年は毎回のレッスンを大事にやっていきたい」と言っていた。舞台だから、じゃなくて、#レッスンでも#それをすること。かたちのなぞりじゃなくて、エネルギー。

ダンスはかたちじゃない。ダンスは「ベクトル」であり、「流れ」。

やっぱこっちが活路だなあ。もっともっと踊りたいし、踊れるようになりたい。
新年会その3、ジャズダンス編。メンバーのひとりが経営するカフェにて、おいしい手料理やパンを味わいつつ発表会の映像を観る。昨年秋の発表会のDVDを初めて観た。もっとがんばればよかった、と思う。ビデオに撮って研究して練習して、踊り込めばよかった。作品自体の面白さに甘えていた。硬いな、私。上半身こちこち。きこきこ。なんでこう、お人形さんみたいなんだ。キャラはいいと言われる。それでもしかし、身体使えてないなー、と気になる。じたばたする。

“何をするにも身体を使え”

っていうこと。「ダンス」なんだから。

一方で、もっと(この作品に限らず)踊るということ自体を屈託なく楽しめるといいのかしら、とも思う。できてないところばかり見えてしまいがちだけれど、そうぎゅうぎゅうしめつけずに。みんなもよくて、自分もいい、というふうになれるといいんだろうか。自分に手厳しいから、人にもやっぱり内心で厳しい。今日は喋るボリュームが大きく多い人のなか、ひっこもり気味だった。ダンスってなんなんだろう、と考え黙してしまうことの多いこの頃。楽しかったんだけどね。
明日のレッスンに行けないので、今日から始まったばかりのレッスン(ジャズ)に行ってみる。この女の先生、苦手。なんだか大味というか、進め方が雑な感じする。内股になってるのが気になる、としきりに言われる。今まで他の先生に言われたことないけど、そうなんだろうか。それこそ気になる。振りも難しくないのに、音がとれなくて焦る。せっかくのレッスンなのに、すっきりしない。あー、わたし下手くそ。ちっとも身体使えてないよ、やだやだ…ということろで大いにへこむ。

これから

2008年1月5日 ダンスもの
年始に来ていた妹が「(私が)すごく疲れた顔をしていて、何かあったのかと思ったけど訊くに訊けなかった」と言ってたんだそうだ。その場で言ってよ、母も妹も。自覚なかったけど疲れているんだろうか。

今年最初のレッスン。真っ当な(?)ダンスのレッスン久しぶりな気がする。軸力をつける、余計な力を抜く…がまず今年の課題だと決める。

私は「楽しく踊りたい」より、上達したい気持ちのほうが強い。ダンス市場にもさまざまな需要と供給があるが、ゆるい(自分が楽しければいい)場とか人って好きじゃない。そういうとこ、力入りすぎてるのかもしれないけど。

年末のショーイング、ああいうの好き、と今になってつくづく思う。ディレクションする先生の考えるキモとは違うかもしれないが、椅子にすわったり、椅子から落ちたり、椅子を動かしたりという「動作」が、大きな枠で「ダンス」になるという…そのことが私には発見であり、「ああー!」と大いに腑に落ちることなのだった。その「体得」感はやってみなければわからなかったことだと思う。自分の好きなダンスのかたち、がわかって、それを具体化するひとつの方法を教えてもらったという、このことをとっても、貴重な体験と思う。

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