公共の施設で一室を借りて練習。有料だけどスタジオの一時間分より安いし、一人で使っても文句言われない。CDラジカセもあるところでラッキーだった。身体動かないなと思いつつ、3時間弱このコンディションで集中できてよかった。面白い、と思えたことも。下手だけど誠実でありたいがそうなっているでしょうか。
レッスンへ行くも、がたがた。かたちだけ追っても力が入らないから、立ててない。情けないし、悲しい。ほんの1ヶ月前はこんな調子じゃなかったのに。先生に注意されることが身体で実行できない。自分ではせっかくのダンスなんだからと思ってもこれが今の身体の自然なんだろうか。この状態はここからどこへ行くの?

具合悪くても、続けていく。情けないけど、今の身体を聴きながら、へたりながらでも。少しずつ、少しずつ、しっかり立てるはず。

自分がこうしたいと思うことを選んでこの先、生きていける方法がみつかるのかどうかひどく心配だ。でももうぎりぎり。
帰りに自主練。ブレイクダンスの兄さんと市民施設の部屋を分かち合う。へたっていて集中するのが難しい。でも行けてよかった。
@光が丘IMAホール。あまりに疲れてしまったので手短に。平日の夜に鍼灸院へ行くのはよい考えではないかも。よかった人々。楠原竜也(APE)。隣席の人は首をひねっていたが、私はこういうセンス嫌いじゃない。飄々としたなかにもいろんな情感があってよかったと思う。女性ダンサーがビョークぽいとこあってイイ。中村隆彦。楽しめる。カワイイ。「フォークダンス」使うとは、こんなふうに使えるとは。よくなかった人々のよくないと思ったところ。己の力だけでやってるように見える(コンタクトしてない)。ダンサーにすごいテクニックがあるのに、キレがあるように見えないのはなぜ? 無駄な動きがあるように感じる。情緒過多。いいホールだけど、遠い…。

再開

2008年6月3日 ダンスもの
約2週ぶりでレッスンに出る。こんなにブランクがあるのはおそろしく久しぶりで複雑な気持ちだった。絶好調というわけもなく、絶不調でもない。休んでいたわりにはまぁ動けたが(しかしバランスわりぃ)、スイッチが入らない。気持ちが上がらないのがかなしい。気がかりなことのせいだろうか。焦っちゃだめなんだろうな。

ダルイ2

2008年5月24日 ダンスもの
ダンスもしてないのに、というかしてないからか、すごくだるい。どういう姿勢が楽なのか、というのもよくわからない。早くこの休業期間があけてほしい。レッスンに行きたいよう。
昨日の続きでWS(ラスト)。

1コマ目。昨日の説明が1とすると、今日は7くらい言葉で説明してくれた。しかし昨日やったところはましになったものの、振りが全然入らない、てか動きについていけてない。「質問できるレベルじゃない」状態。WS行ってこんなに壊滅的にできないのってものすごく久しぶりじゃないだろうか。

昨日も書いたけれど、このカンパニーでふだんレッスン受けているらしい子だとか、それ以外に来ている人たちも上手な人がほとんどで(しかし女ばっか。なんでだ)、みなダンサーか舞踊学科の子じゃないの、と思ったりする。

みなさんそれぞれに稽古を積んで、努力した結果なんだろうけれども、なんだか自分と違う世界の人みたい。大げさぽい。それくらい自分のできなさに呆然とする。

あんまりできなくて、自分の頭に毒薬流し込みたいような気分。って、まぁ普通じゃないけど。

私は昔から自分の意義は何かが「できる」ことだと(つまり存在自体に価値がない)思っているらしいので、何かが「できない」ことに標準以上(?)にダメージを受けるらしい…「らしい」というのは何かができないために自分を責めまくる、のは、自分のなかでもうオートマティックになっているので「普通」だの「標準」だのあるとしてもよくわからないのだ。

「そんなに責めなくてもいいんじゃない」「できなくてもいい」という言葉は今のところハラまで落ちてこない。

クラスで一緒の子がたまたまこのWSに参加してて、彼女もできてはいないんだけど、前向きでまじめな人。「掬えるところは掬うし、そうでないところはしょうがない」と言いつつ(そうなんだけどね)も「自主練で今日やったところ稽古しましょう」とか言ってる。

2コマ目のコンタクト(パンフには接触のないパートナーリングもすると書いてあって、私はそっちも期待していたのに結局、終始コンタクトだった)は、前のコマよりは関わりやすかったが、なんつーか早くダンスにもっていこうとするので、ちゃんと自分でできているのか感じられるプロセスを踏めていないから、もやもやする。

リフト(ORジャンプ;WS2回目でいきなりこれですか)は、「こわい」という気持ちが私は強くて、なかなか思い切れず、一緒に組んだ人に申し訳ないような気もした。

リズムで動いたりするのは、コンタクトができているという前提があるから、なのでは。上のリフトもそうだし、1コマ目もそうだが、「ふだんのレッスンでやっている」面々も多いせいか、「一見さん」のこと忘れてるんじゃね、という感じは正直言ってある。いっそ「オープンレベル」なんて書かないで「中上級」と決めちゃえばいいのに。そもそもレッスン生でほとんど埋まってるんだし、などとも意地悪く思ったりした。

コンタクトは人ととにかく接触して、押す、乗る、ということの連続。あのメニューでは「まだ30分あるの?」と終わりを願ってしまうくらい体力的にはきつかったです。

なんかもにょるけど、4時間×2日…お疲れさまでした、ホントウニ。もう忘れようっと。覚えてたければ、身体が覚えといてくれてるだろうし。アマゾン逝ってきまっす。

PS.Tim Hecker "Mirages"はホワイトノイズに色をつけたような音。アンビエントの背景に常に、ざらざらした感触のノイズがかすかに鳴っていて安心する。私にはとても好ましい音楽。

セッカチ

2008年5月17日 ダンスもの
WSへ行った。

1コマ目、呆然とするほどむつかしい振り。「テクニック」クラスなのだがレベルは「オープン」。確かに動ける子がたくさん来てるけど、もちっと説明してくれてもいいんじゃないの。誰もがここのカンパニーのスタイルになじんでるわけではないんだから。内容は「レッスン」でWSぽくない。メインテーマがないんだったら、なおさらカンパニーのメソッドとやらを説明しながらやってくれよ、と思う。次のクラスでも感じたことだが、内輪な感じがしないでもない。カンパニーの子だか稽古してる子だかを名前で呼んだりとか。内々ムードでやるなら、外部の人いれる意味あるの?

2コマ目。パートナーリングなんだけど、いつものクラスのほうがずっといい。同じようなことやるんだけれども、指導がなんだか雑ではないですか(ああ見えて、いつもいかに丁寧に見てくれていることか、とつくづく思う)。こういうやり方もあるんだろうけど、ある子と組んだときは柔道の組技よろしく力づくで押さえつけられたりとか…。コンタクトってかみあわないとそもそも面白くない。先に進むよりそういうところを見てほしかった。ここに限らず、コンタクトものやってて「通じない」相手とペアを組んでいるのはフラストレーションがたまる。

1コマ目も2コマ目も、女性講師なんだけど、なぜかどちらもせっかち。で、私の「耐えられなさ加減」は「せっかち女>せっかち男」なのだ。まぁどちらもせっかちでないにこしたことはないんだけど。女性にダンスを教わることの、自分にとっての難しさを思う。

スタジオ近くにお住まいの友人宅でごはんに呼ばれる。マリネもカレーもナンもコーヒーもぜんぶ美味。まんぷく。今日はこのごはんのためにがんばったようなものでした。感謝。

帰ってスカパー(ムービープラス)で「オール・ザット・ジャズ」(directed by ボブ・フォッシー)を観る。これは「シカゴ」の千倍いい。封切当時はお子ちゃまだったのでわかんなかったけど…死とエロスをしょったショー・ビジネス、こっちのほうがフォッシーらしく感じるし、絶対いい。元祖フォッシー・ダンサーのアン・ラインキングも出演。天才振付師フォッシーを写したと言われるジョー・ギデオン役のロイ・シャイダー、実にかっこいい。オスカーあげればよかったのに。
昼休みに駅前の銀行まで出る用事ができたついでに、博多ラーメンの店に入る。あとになってこの懐かしい感覚は、そういえば胃もたれかー。 とんこつスープおいしかったけれど、およそ一年分のブタ的なものを摂取したような気がします。

レッスンへ。先生が面白いことを言ってた。私に「信用して」と言うので「何をですか?」と訊いたら、「自分の背中や胸のあたりを(つまり体幹部分が支えてくれるから)信用して」だって。意識で回ろうと思うあまり、気が上がり力入り過ぎて肩(首のつけね)がつまる感じになってしまう、ということ。「肩じゃなくて、肩甲骨の下あたりの背中くらいまで意識を下げるといい」とも言われた。

もっと楽〜に。力抜いてらくーに。

自分のあたまで何とかしようとし過ぎる、身体を信じないから、意識だけで突っ走る。すごーく思い当たる。内心にやりとしてしまった。身体って意識よりずっと賢く融通がきいて、(自分で思っているより)たのもしかったりする。

「おなかまわりがすごく安定してきた」とも先生に言われる。嬉しい。ダンスに関しては、いい方向にいってる、かな。
土曜のレッスンの先生は3番目のお子さんが生まれたばかり。「むちゃくちゃ可愛い」とすごく嬉しそうだった。一方、私は振りを踊るも「カタイ」と言われる。表現には厳しい先生。

踊りが上達することが、なぜかしらますます切実な望みになっていること。ダンスしていて、集中する時間にはなっていても、「楽しい」って最後に思ったのいつだっただろう?ということ。

なぜだ。こういうところから、気持ちの部分から力が入り過ぎちゃうんだろうか。

●質のいい「軸」をつくること。

●一緒にふられないで、あくまで軸はしっかり立てたまま(保ったまま)回ること。キレのあるピルエット。

うしろ髪

2008年4月29日 ダンスもの
昨夜は帰りほぼ終電だったがいつもより空いていた。帰って洗濯だのお風呂だの日記だので寝たのが結局、明け方近く。翌日休みでほんと助かる。

家でお昼にひやむぎをゆでて食べた。去年の夏、失業していた頃はひやむぎとそばをもっぱら昼食にしていて、そのことを思い出す。夜もおにぎり程度で肉・魚を食べてた記憶がない。よく身体と頭がもってたよな。

レッスンへ。発表会のことはまだ悩んでいて、人間関係のもろもろがめんどくさいし、やめよっかなと思っていたら…先生が候補で出してきた曲がビョークのWanderlust。私はこの曲がむちゃくちゃ好きで、気持ちが大いに引き戻されるがどうする?

そのレッスンに新しい人が来ていた。頭おだんごにして、細くてスタイルよし。見るからにバレエやモダンダンスを長くやっている風情で、身体も柔らかいし、脚もがっと上がったり。

私もそういう基礎は身につけておくべきなのだがそれはおいといて…私はやっぱり彼女みたいに出身がわかる感じのいでたちや、「私はこれからうつくしいことをします」と宣言するような踊りの姿勢や動きの質はつまらない、と思った。ダンスの一歩からいきなりうつくしい世界になるのでなく、日常や等身大の自分の延長としてのダンス。私はそうありたい。

うつくしいことだけ表すのでなく、きたないこと暗いこと、ぶかっこうなことも表せる身体がいいと思う。何より、何も予期させない「気配を消した身体」がいいと思う。いつもの通りなにげなく立っていて、動いてみると「…あれってダンスだよね」と観る人が思うような、そういう人に私はなってみたい。

unsaid

2008年4月28日 ダンスもの
クラスへ行く。私は実人生では「預ける」ことできないけど、ダンス枠では人に身体を預けたり、預かったり、前よりできるようになってる…と気づく。それはそれでいいんじゃないの。

面白いことに、ダンス(コンタクトとか)ではちゃんと人に預けないとうまくいかない。預けないと動きが流れない、という素敵な仕組みになっている。

えー、先週も飲み会はやりましたが、先生の「飲みたいから」発言でやっぱり今日も飲みに行くことに。10人足らずでこじんまりと。明日、休みですしね。何より今日からあと、このクラスは休みに入ってしまうから。

去年、やっぱり先生の舞台都合で休みに入ったとき欠落感が大きかったので、今年は心の準備と対策を図る。なんだか魔法学校の夏休み、みたいな気もしてきた(ハリーポッターか)。

そしたら飲み会の席で先生が「クラスが休みに入ってしまうのは寂しいですね」と言う。それを言うのは私たちのほうなのに。先生には(客演などではなく)名前を冠した舞台が待っているのに。

私はスタジオでインストラクターたちが「レッスン以外の仕事」のため安易にレッスンを休講(代講)にするのを見てきているので、「教える(しかもレベルはさまざまな人たち相手)」という労多くして功少なし、っぽい仕事を先生自ら楽しみ大事にしてくれているのに改めてほろりとする。

しかし話が思わぬ方向へ流れてしみじみ感もふっとぶ。なんの脈絡もなくある女性が「自分の娘を20年以上監禁し、性的虐待を加え、7人もの子どもを生ませたというオーストリアでの事件」の話を持ち出した(余談だけど彼女みたいな、屈託なく明るくてKYな人って苦手。しかも年上)。

彼女がその鬼畜な父のことを「うそっ、信じられなーい」みたいに言うので、私は思わず(やや)吐き捨てるように「7人じゃなくてもそういうことする人いますよ」と言ってしまった。私には臨床家としての体験はないけれど、性的虐待が一般に思われているほど「非日常」でないと自分なりに理解しているし、いかにも「あちら側」の問題みたいに扱いたくない。

まぁ私の言い方もなんだけどさ…。場がどよっとなり、話がいきなりそっち方向へ。ここで言うことになるとは思っていなかったけれど、自分の拒食症と、女教師として心理学を教えていたことを流れで話す。

頭が急に嗜癖モード全開になってたので、余計なことしゃべってないかちょと心配。虐待の概論とか語ってたよ…(誰も訊いてないっちゅーのに)。

でもやはり話したことよりは話さなかったことのほうが多くて、やはり話さなくてよかったと思うこともあれば、「こういう言い方でこれは伝えればよかった」と思うこともあったり、でもあの場でとっさに言葉が出なかったということは、やはり余計な助言は不必要だということなんだと思う。

話されなかった自分のこと。私は回復してもいないし、救われてもいない。そのことに気づく人もいない(ような気がすること)。そして、表現に値するものもその術ももたないということが悲しい。

まっすぐ

2008年4月27日 ダンスもの
地元の雑貨屋さんで予定外の買物。アマゾンでもまた買っちゃったし。いま厳しいからまぁしょうがないか、と思うことにする。読むもの、聴くもの揃ったので連休はインドア。風邪もひいたし、あれこれなんか胸苦しい。

「天使にラブソングを2」をスカパーで観たが、1よりいいと思った。ハイスクールの生徒で歌の上手い子が多くて、なかでもローリン・ヒル(!)は際立ってる。

音楽のように踊りたい。こちゃこちゃひねらないで、ただ自分を放り出して流れにのせるだけ。歌声は腹の底から出てくる。こういうまっすぐなエネルギーのまんま、ダンスしたいと切実に思う。
先生は「雨男」で(“婉曲的な表現”とかではなく評判通り本当にそういう人らしい…とこの頃わかってきました)、期待に応えて今日も雨降る。今年の4月は本当に雨ばかり、そしてその雨が例年に比べ精神的にネガティブにくる。自分から自分へ、昼夜とメール出す。

ひじから出血。左側は昨日のWSでつくった傷、今日のは右でTシャツの袖が飛び散った血でプチ・キルビルみたい。なんでそんなことになるかというと、肩とひじを使って身体を運ぶ練習をするからです(床でクロールする要領)。そして私は両ひじに穴あけてまで、これをどうしようというのか。

穴はバンドエイドでふさぐ。(いきなり)生理にもなったのであちこちから出血。なまなましくて失礼。でもこういうイメージ嫌いじゃない。

やってもやってもうまくならない、ということが私にはなぜだか、相当つらい。小さいときからダンスやってるわけじゃないし、それで生業をたてているわけでもないし、ど素人なのに。やってもやっても、人に見せるべきものにならない、と感じる、それがつらい。なぜこれが私にはこうもcrucialなのか?

しかし「レッスン」「クラス」をこんだけ受けていて、くったくなく踊ってる時間が実はないことに気づく。音楽にのって、ただ気持ちよく踊れる、っていう時間がなくない?おかしい。「表現」とかじゃなく、ただ普通に、ものすごく踊りたい。

今日はクラスのあとに飲み会もあって、楽しくなくはなかったけど、「人を羨んでも・人と比べてもしょうがない」という心境にはなかなかなれないんでした。

「クラスが始まった頃からずっと来ていて、すごい」ってある人に言われた。「私、ヒマだから」と答える。それも本当。生きてると気を紛らわせずにはいられなくて、強力に忘れさせてくれるものほど歓迎するから、というのが正解(のひとつ)。

そんで、なんで生きてるんだろう、私?

頭に脳みそじゃなくて、布きれでも詰まってるんじゃないだろうか、と思うほどよい刺激がしみこんでこない。

お疲れWS

2008年4月23日 ダンスもの
舞踏+コンテダンサーのワークショップへ行く。おとといメンタル絶不調に陥ったのでキャンセルしようかと悩んだが、申し込んじゃったらそれはNGだと。おおいに葛藤し緊張しつつ行く。3時間ありますし。

行けば行ったで何か得られるものはあるでしょ、とも思った。なくはなかったけど、とうとう気持ちが乗り切れず、身体もあたたまらないまま終わってしまった。

講師はすごく身体の効く人なんだけど、まじめなんだかふざけてんだかって感じられる態度に、つきあいきれなかった。「食えないジジイ」ったらなんですが。悪い人じゃないだろうけれども。

以前よりは「感覚にフォーカスして動く」のできるようになったみたい。今日はいつもより軸とれた感じするし。でも私はやっぱり舞踏のメソッドは苦手。とっつきにくい。硬直させたり、転がったり、気持ちは高揚してないのに身体は疲れた。

異様な感じがしたのは、受講者の9割が女性だったこと。私は無骨な内容(思ったよりダンス寄りなエキササイズ)で、参加者もごつい人たちが多いのかと思っていた。それが男子はひとりだよ。残りは外国人女性ふたりと、あとは「大学の舞踊学科を卒業して、作品つくったりしてます」みたいな若い女の子たち。らしいきれいな身体してる(娘っ子ばっかりだから、講師が悪ノリしてたのかもしれないなぁ)

なんで? 女性のカンパニーが主催だから? 私としてはもっと参加者のプロフィールがばらけてたほうがリラックスできていいんだけど(知り合いもいなかった)。このWSは今週通しでやってて、私は今日だけの単発参加だけど、自己紹介で「キャリア」(ダンス歴)とか話させてたらしい。今日も「今日からの人」に聞いてたけど、なぜか私の番でスルー。キャリアらしいものはないので別にいいけど。

私はダンスを男性に教わるほうがよくて、それはなぜかよくわからないけどそうなのだ。男性ダンサーにとってのダンスと、女性ダンサーにとってのダンスは違うのだろうし、後者には私にとって「なまなましい」何かが含まれてる気がする。相性の合う女性の先生も(どっかに)いるのだろうとは思う。

帰り、中央線の車内で「相田みつを」のお言葉を流していた。こんなのやってたっけ? モニターをグーで壊したくなった(やりませんが)。

(プロというか批評の対象になるものとして)ぬるいダンスとぬるいテキスト、どちらがむかつくかと言えば悩むところだ。
昼休みに聞いた話。きわめて優秀な女性社員(この会社の女性はみな「優秀」から「きわめて優秀」のレンジのどこかに属する。私以外)Aさんは部会がベリーダンスのショーもあるトルコ料理店で行われると知り、「女性蔑視」だと意見したそうだ。場所は変更になり、中華料理屋になったんだとか。

バッカじゃねえの。なにその大雑把な感性。なんでベリーダンスが女性蔑視なわけ?ダンサーに失礼だろうが。おまけによそさまの文化を知りもしないで何を偉そうに。場所変えちゃうほうもどうかと思うよ。

クラスに行く。はじめにいつもやる、床に寝た状態で深く呼吸する、というやつ。先生が言う。(息を吐くときに)「床に身体を預けるような気持ちで」。

毎度やってることなんだけど、この言葉耳から入って、自分のなかで、何かにぶち当たった。

今まで、誰かに自分を預けられたことなど、あっただろうか。これから、預けられるようなこと、あるんだろうか。

自分を「預ける」ってどういうことなのか、私にはわかりません。

私に手渡された、荷物。これまでの、これからの、荷物荷物荷物。私、丈夫だから、いろんな人がいろんなもの置いてく。

捨てたい、もう荷物ごと自分捨てたい。消えても誰もわかんないだろうし。

私という番組、終了。強制終了。さー。

死ぬ間際、このクラスのこときっと思い出すと思った。自衛隊の訓練ちっくに思えなくもないエキササイズ、ノスタルジックな音楽。

こういうこと(今やってること)、私、墓場にもってくだけなんだろうか、と思ったら、むなしくなった。生理前でもないのに、こんなじゃたまらん。うちの墓には入りたくないなぁ。

こんなこと思ってても、いつものとおり私は動いてるわけだから、誰にもわからない。

このクラスでよくやるジャンプ。高く跳ぶためでなく、身体を投げ出す練習。みんなのを見ていて、人って重いんだなと思った。身体はたぶん、軽い。存在が重い。跳ぼうとしなくていいのに、何かしようとしなくていいのに、と思った。

私はその時点でやる気なかったから、高く跳ぶ気も出ない。でも(皮肉なことに)なんかいつもより、できた気がする。今日はジャンプできない、注意されてもしょうがないな、と思いつつ、身体に任せていただけ。身体がやりたいようにやっていた。「なんで死ねないんだよっ、死なせてくださいよっ」って身体放ってた。

ジャンプのこつは跳ぼうとがんばらないこと。こつ、がわかってきたとして、このクラス今月でまたお休みになっちゃうんだよな。

人の存在は重いです。うつくしい動きとは、自分の「考え」でなく、ただ「身体」に運ばれているように見える、spontaneousな動きではないだろうか。

帰りも雨。どんより感をもてあまして、帰るに帰れず、雨のなか、クラスの会場に隣接した公園で一服することにした。へたっていたせいか、先生(私が知る限り常にフィジカルな人)に「疲れた? 大丈夫?」と笑いながら言われるが、そういう軸じゃないんだって、いらっ…。「大丈夫ですっ」と答えてひとり残る。「死にたいですっ」とは、まさか言えないしね。

雨のなか、暗い公園でタバコ吸ってたら、泣けてきた。しばらく泣いても誰も来ない。そもそも生物がいないよここ。

傘さしてるのに、髪が濡れてるのはどうしてだろう。
電話したり↑書いたりお風呂に入ったり浮かれたままぼーとしてたら、すっかり遅くなり2時間くらいしか寝れてない。ひゃー今日もつかしら、と思ったがわりかし元気。

久しぶりに晴れ、気持ちのよい日。空気の流れない社内はもともと苦手で、オフィスビルにはさまれた広い中庭にて一人おにぎりランチ。きれい過ぎる空間が合わない。昼休みに結構、人が出てるので密閉されたオフィスに窮屈な思いをしている人は少なくないのかも。

昨日の振付はいい。今まで振りをもらったことはあったが、単に動き方を覚えてほしいのか、ニュアンスはつけずにフラットにやってほしいのか、なんだかよくわからず不完全燃焼のまま終わってたが、昨日は没頭した。こんな振付があるんですね。かなり理想。この先生、すごい。

物語や場面が立ち上がってくるなんて。振りのバックグラウンドの説明は何もないから、自分が感じているだけだけど、動いているとここはああしたいとかこうしたいとか、物語や場面のヒントが見えたりする(ので動きやすいし、楽しい)。

振りがビジュアルというのはすごいことだと思う。ダンスに限らず、テキストでも、読んだだけで絵が見えてくる、そういうのは文句なくいい作品。

もらった振りが、自分でも動きを考える刺激になったり。中庭で弛みながらあれこれ考える。身体はイタイ(これだけがっつり踊るんだったら、前半筋トレじゃなくてストレッチじゃないの…?って今日になって思った)

レッスンへ行ったが、まあ今日はあらかじめへろへろ。この先生の振付も好きなんだけど、なぜそうくるくる回るのですか、流れてはいるんだけど必然性が薄いっちゅーか、今日はそんな感じだった。

駅の券売機の前で堂々と強烈に抱き合う若いカップル。「他所でやってくれ」と言うのはまさにこういう場合でしょう。それがパフォーマンスなら面白くないぞ。それに、じゃま。
WSスピーカー辞退の件でようやく責任者と電話で話す。詳しくは書かないが、なんだかうちの母との会話みたい。自分の直感に従って正解、と納得する。

後味の悪い電話だったが、そんなこともうどうでもよくて、というのは会社帰りに行ったいつものクラスがあまりにもよかったからです。

このムーブメントのクラスでは、フィジカルなトレーニングが中心でテーマがあって動くことはあっても振りを教わる機会のほうが少ない。今日は時間の半分、1時間くらいかけて、じっくり振り写し。ニュアンスもいろいろ説明してくれる。

久しぶりに汗びっしょりになるほど動いて、今は身体じゅうが痛い(打ちつけたくないほうのひざをどこかの時点で打った)が、やってるときはそんなこと忘れてた。

私には決して易しくないし、長い。でも面白い。練習すればするほど振りのよさをしみじみ感じる。先生が渡してくれる動きのニュアンス、に加えて、自分でもああしたいとかこうしたいとか、思える。

先生が自分の振りは「男性的」と言っていて、まぁそれはそうなんだけれど、今日のは割とニュートラルで、かわいい感じがした。振りのあちこちでストーリーとか場面とか立ち上がってくるような、私にとってはそういう振りだった(作品の一部だったそう)。

ひょっとして初めて振りをもらったときって、「かたち」よりニュアンスをとるほうが先なんじゃないだろうか?ふと思いついて訊いてみたら、ニュアンスが先、動きの質感(こういう言葉じゃなかったかもしれないけど)、動きのダイナミズムみたいなものをとらえるほうが大事、だという。

ダンサーって擬音語を使って説明する人が割と多くて、その言葉の選び方がそれぞれユニークで、しかもよく伝わるのが面白いと思う。「ぶぅん」とか「ちゅるん」とか(私はいまいちな例しか思いつかないんだけど)。余談。

つまり(止まった)かたち、じゃなくて、動きが音楽だとしたら強弱とかテンポとか、休符とか、音符を再現するだけでなく「どう奏でるか」いうニュアンスをいかにつかまえて(あるいは自分でアレンジして)表現するか、がキモ。

ダンスは流れ。けれども流れてるだけ(って流れをつくるのも大変なんだけど)「ダンスやってる人なんですね」っていうのがわかるだけになるというか、破綻はないんだけど、まったり。

流れを切って見せられる人。私もそういう人はいいと思います。流れなんだけど、その流れのなかにいかに角(カド)を立てるか。

私がこういうことに夢中になっても、別にダンサーになれるとか、誰かの作品に貢献できるとか、じゃないし、現実的にはどうにもならないんだけど(せつない)…でも自分が集中するのはこういうこと、というのがやっててわかりました。

私はそもそも身体を使うことや感覚をとらえるのが苦手で、早い話が下手だけど、それでも続けていると、ひとつひとつ扉をあけて、奥へ奥へと(おそるおそる)進んでいっているような気がします。

しかし…ここまで教えてもらえるようになるとは。これだけまとまった振りを渡してくれて、ニュアンスも説明してくれて…このクラスが始まった当初のことを考えると。

私は振りのなかでできるところもあれば、つい忘れるところ、もたるところ、ブサイクになるところ、ある。先生も(動きを見れるように)入ってくれてたんだけれども、まがりなりにも一緒に踊るとかって…なんだかもろもろ感慨深くて、感動していた。

先生たちと一緒の方向へあえて帰って、いろいろ訊いたりしてみた。「感慨深いです」とはなんか言えなかったんだよね。その場の雰囲気で。でも今日のクラスはその言葉に尽きる。いろいろ思うまま、音楽も聴かずに帰る。

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小学生の頃、それこそヘビロテで執拗に読んでいた「アリス」(と「ムーミン」)。たぶんこの2シリーズは終わりなきリピートだろう(っていうのもちょっとはずかしいが)。ちょうど今日も読んでいて、(今さらですが)気づいたが、「アリス」に出てくるたべものにおいしいものがない(「不思議の国」のほうで「わたしをお飲み」っていう液体はプリンとか、いくつかおいしいものの味がする、珍しい例外だったと思う)。

ビスケットとか、パンとかのどに詰まりそうなくらい乾いているし、そもそも骨付き肉が挨拶したりとか、たべると身体が伸び縮みするとかっていうのは…。たべものがたべものの働きをしていないというのは(これが「夢物語」だというのとは別に)興味深いと思う。へんに深読みするのもなんだが。
水曜に行ったパフォーマンスがよかったので、日曜に同じアートコンプレックスで行われるイベントにも行くことにする。とはいえ遅寝してたり落ち込んでたりで出足が遅れ、途中参加になって気がひけてた。

駅に着くと、友人に呼びかけられる。えっ?と思ったら、ちょうどアクション・パフォーマンスでアーティスト+参加する人が街に出てきてたところだった。アーティストは某メガバンクATMの前で寝てお写真を撮ったり、絵も描く方。

駅でのパフォーマンスに参加する人、という呼びかけに手をあげた。やってみたくなったので。券売機の前で横たわる、というパフォーマンスで、それを「目撃する人」は写真を撮ったりする。寝る人のほうは4人。人前でしかも地面に寝っころがったりすることに不思議と抵抗がないのだった。

ディレクションは「親族が亡くなって、これから故郷に帰るという心持ちで(風呂敷に包んだ額にみたてたものを抱えて寝る)」ということだったのだが、私としては「死体になる」気でいて、その考えにわくわくした。

事前の注意にあったように、駅の人はこういうことにうるさい。目を閉じて寝ること2,3分、駅員に「お客様、だいじょうぶですか」と激しく声をかけられる。それが「心配している」というトーンではなく、「なにやってんだいったい?」という、怒ってるぽい声音。ま当然ですよね。素知らぬ顔で起きて、場をぬける。

おかしかった。こういうのかなり好きかもしれない。反社会的行為? かもね。でもなんかいいよこれ…とおおいに刺激を受ける。

この日は、数人のパフォーマンスアーティストが次から次へと出演するイベントで、ホタテ貝の貝がらでSOSを床に描く人あり(save our ship, save our soul)、映像の前で塩をまき、自ら塩に埋もれる人あり、とさまざまだった。

アートのはしご。友人とささっとお茶して、ひとりダンスを観に行く。

「ざわめきの4月」(@セッションハウス)は、女性だけのカンパニーであるマドモアゼル・シネマが、ダンサーそれぞれパートナー(女性・男性)を連れてきて同伴出演、というもの。デュオ集になるのかな、と思ったらそうでもなく全体としてのまとまりのなかにふたりのシーンがあるという感じ。

原案・構成の伊藤直子さんがパンフに“男と女はいるだけで「物語」”と書いておられるのはいろんな意味でなるほど、と思う。

デュエットが多いので、コンタクトの見せ場がたくさん。やっぱり「かかわりをもって踊る」って面白い、とぐぃーっと惹きつけられるように観る。納得のコンタクトもあれば、ちょっと薄いんじゃ、と思う場面も…観ながらいろいろ考える。

しかし「みかんコンタクト」とか「巻尺コンタクト」とかよく考えるよね(このカンパニー、口に何かくわえるのって多い気がする)。

男子ならではのダイナミックな動きの質感、ダンサーの脚、足の甲、足の裏(マニアックだな)など、最前列だったので正しく使いこまれた、うつくしい身体を堪能しました。

いつも思うことは…「いわゆるダンスっぽい動き」って面白くないのではないか、ということ。そういう視点で観てもいたんだけど。あまりうまく説明はできないが、観ていて「いまの足、動き、ああいうやつってちょっと…」と思う。なんだろうね? カギカッコに入った「ダンス」っぽくしたくはない、と自分でも思ってやってはいるんだけど、まぁやってしまったりする。

ラスト近くのデュエット―ユニゾン―デュエット―ソロみたいなスピード感ある流れが、すごくよかった。ドキドキ過ぎない、ドキドキのある素敵な作品だったと思う。盛り沢山で楽しかったし。

今日はどちらのパフォーマンスも私には「意味」が多過ぎず、大いに刺激されてよかった。ダンスが中心の円になるとしても、自分はドラマ寄りというよりパフォーマンスのほうがなじむのかもしれない。
雨降るなか2万人だかを歩かせた中央線。私はその影響は受けなかったが山手線が止まったとばっちりを受け、地下鉄使って遠回りし遅れて出勤。しかし今日は二度寝してやばかったのでカバーされたともいえよう。

会社の帰り、クラスへ行く。先月、二次会へ呼んでくれた友人が来た。その日以来、久しぶりに会う。もともとこのクラスは先生を含めて、式やパーティに呼ばれた人がいくらかいるんだけど、「花嫁」が来てその日の像が再び結ばれたというか。小さくフラッシュバック。さすがに過呼吸にはならなかったけど、なんだかあっちこっちでうっすら苦しいイメージを感じる。

(でもそれは私自身の問題で、彼女はすごくいい子。今日も一緒に帰ったし)

うまくのらない。人数少なくて今日は「個人攻撃DAY」だそうで、あれこれ注意される。ありがたや、と思うものの気合入らず。

コンタクト、難しい。考えも身体もまわらない。経験が足りなくて、まだ「回路」が開けるに至っていない。

前にも書いたが、「この素敵な私を見て」「このかっこいい私を見て」「このうつくしい私を見て」etc.というどんなジャンルのダンスにもある罠(あるいはどんなジャンルの表現にもあるのかもしれない)。

自分はそういうところにいたくないと思うし、そういうのを目指しているように見えるダンスには違和感を感じるようになった、というかそういうダンスがいったい何なのかわからなくなった。「先生の完璧コピーして、“かっこいい記号”になればいいわけ? それの行き着く先はどこなのさ?」

それってなにかを「表現」することにならないんじゃないの。「自分」ってフィルター、ただの器じゃないのか。

↑なこと言いながら、心の底では自分のこと認めて、「いい」と言って、かっこいいと思って欲しいと渇望しているくせに。

こんな年齢になった今でも実は、見てて欲しい、構って欲しい、かわいいと言って欲しい、愛して欲しい、飢えた子ども。ほんとうの子どものとき、それは言えなかった。

自分は「この素敵な私を見て」を捨てきれるほど潔くもないし、健やかでもなく、強くない。つい「このきれいな私…」方向へ流されるし、逃げる。

友人がまさに私が理想とするようなダンサーの話をしてて、私は「その人は捨て身というか、エゴを捨ててるんだと思う」って言った。

動く人として、踊る人として、単に人として身軽になりたいだけなのに。

その「だけ」が遠い、存在の耐えられない重さ。

どんなに手を伸ばしても「ダンス」も「愛情」も私から遥か遠くにあって届かない気がしたまま終わる。

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