先生復帰。今日は外国の人々も参加していて千客万来。なんだか疲れた。ここには深く考えないで来るのがいいのだと思ふ。
やってもやっても…て感じですが。でも好きでやってる道だから。最近やたらサプリメントの広告が多いような気がするのは気のせい?そんなの飲むだけで身体が変わったら簡単過ぎて気持ち悪い、と私は感じる。何か「しない」の?生活習慣変えるとか。クスリで身体能力上がったら楽だけれどもやっぱりつまらない。
BMレッスン行ったあと、友人たちの作品発表を観に行く。昨年、自分も機会を頂いた枠。彼女たちの作品はそれぞれ身体(動き)がきれいだったり、シンプルなつくりながらアイディアが光っていたり、その人らしさがよく出ていたり、素敵だった。

友人たち以外の作品について思ったのは―これ前にも書いた気がするけれどー作り手側の感じ方と観客側のそれはかなり異なる、ということ。

早い話が、観ていて全体に「盛り込み過ぎ」な気がした。音、振り、演技、衣装、美術、人数…といった構成要素を足し上げた全体として過剰になってしまう。

足せば足すほど大きくなる、のではなくエネルギーとしては弱くなるように感じる。

気持ちはわかる。無音とか、いわゆる「ダンス」でない、何もしていないかのような時間をつくりたくない、とか、あれもこれもしたくなる気持ちはわかる。

たぶん削ぎ落とすほうが勇気が要る。それでも「隙(すき)」というか「行間」を入れたほうがいいのだろうし、説明要素を入れ過ぎないほうがいい(特に音を説明的に使うのはよくない)。作り手が思うより作りこまないほうが、観る人をひきこむのではないだろうか。構成要素が多すぎてはだめ、重すぎる時間(≠充実)にしてはいけないのだと思う。

会場で偶然、クラス友に再会。帰りに居酒屋で今日のダンスの話とかマニアックに楽しく過ごす。今週は飲みが多い。

実家にて

2011年9月2日
片付け。夜、友人と食事。
今さらですがこんなの持ってたのを発見(自分の持ち物を自分で知らないっていうのは…)。なかなかいいではないですかー。

団体名は仮称です(タイトル↑)。左隣が演劇なのはいいとして、右隣が大人のフラダンスグループ。音はボリュームMAXでかけるわ、なんか楽器を持ち込んでるわ、しかもおばちゃんたち稽古中でもしゃべくってるわですんごくウルサイ。

「あ、帰った」と思って喜んだのもつかの間、午後の後半はキッズのフラだった。楽器はないものの、子どもも大人も踊ったりしゃべったりはしゃいだり叱ったりですんごいエネルギー。でまた音量MAX。「パイナップルプリンセス~♪」とか明るく歌うハワイアンに私のうつくしくあやしいアンビエントは完敗した。民族音楽強いわ。
無事終了~!今日は5分間energyワークをしてから、長めに即興。それぞれ集中が深く、とってもよかったと思ふ。面白かった。

ネタを考える(とはいえ、ほとんどヨソ様からの頂き物…)のは実際かなり悩ましかったが、参加者がそれぞれにワークを通して何かを発見したり(今日は「初めて自分らしく踊れた気がする」と言った人も)、それぞれの作品づくりに役立ててくれたりする様子を聞くのはとても嬉しいことだった。

自分の選曲でインプロってもらう…というのが夢(ちっさいけど)だったのですが、それも叶ったし。限られた少人数の場であるにせよ「教える」(というのもおこがましいけど)役をつとめるのは自分にとっても「教えられる」ことが多かった。みんなを見ている時間が長いので、私もいろいろ発見が。豊かで有意義な体験をさせてもらったと思う。自分にダンスの指導ができる、とは思ってもいなかったので、もちろん、ささやかな自信にもなった。

今日は私もフルに楽しめた。満足。7月に代講を始めたばかりの頃は緊張ばかりしていたし、火曜の夜を拘束されるのはちと負担でもあったけど、結局、教えるということは自分にとって楽しいことだった。楽しかった、それがいちばん。ひと夏のおつきあい、ありがとうございました。
マーケティング研究会か何か。Young successful consultantの先生を囲む独立希望の若者たち、みたいな。こっちは蚊取り線香を借りて練習。

ゲリラ雨

2011年8月26日
立ってる地盤がゆるすぎる。「6台のピアノ」をクールな演奏で聴きたかったがみつからないので、「6台のマリンバ」を買う。具合が悪いとクスリ代が高くなる。メンクリの帰り雨に降られ、しばらく待ったが止まないからカサをやむなく買った。だるい、でも行ったほうがいいだろうなと思った稽古、なんか頭でっかち気味のワークに頭がウニになりそうになってみた…という一日(理屈はわかるけど身体が伴ってない気が。が、お弟子君もがんばっているのでしょう。私も発展途上だしな)。
水彩画みたい。自分ではこういう線でつくれないけど、素敵。自分なりにちょっとがんばろう。

ていうか…ヘタでも一生懸命やろう。ひたむきにやろう、と思いました。

え、鏡…

2011年8月24日 ダンスもの
稽古場に借りた部屋に鏡があった。区の施設ですごく珍しい。引き戸がついていたので初めわからなかったが、開けてみたら大きくしかもピカピカにきれいな鏡だった。これはとてつもなく助かる!はかどった。今日の幸せ。

隣の部屋は「舞踊」って書いてあったのに「演劇」じゃん、ていうのも鏡のせいで今日はどうでもよかった。負けない、と思ってやりました。先日は隣の部屋がバリ舞踊か何かで、そちらの音楽がうちのよりよほど良くてめげました(区の施設には防音壁などない)。

英会話の40分に使うエネルギーは、私にとってはダンスのレッスン2時間くらいに匹敵する。ドラッグの話でアツくなる自分。なぜこの人はアディクションについてやたら詳しいのか?と訝しがってるかもしれない先生。
ダンスにおける。「エネルギーの変化」をテーマにワークをしてみましたが、なかなか難しかったす。しかし「やり切る」ことの意義はよくわかった。やり切ってる人はそれだけで目をひきつけるパワーがある。なんかもうそれだけで「参りました」っていう。まさにエネルギー。

ついついいろんなことをやってしまうが、ひとつのことをやり切る、やり続けるっていうのはシンプルだけど強いな。継続は力なり、というクリシェをつい言ってしまう。やり切ったその先に新しいものが生まれる、のかも。

昨夜、自分でも忘れてた20代の再現みたいなやけにリアルできっつい夢をみた。あれでは辛かろうよ。

2セット

2011年8月22日 ダンスもの
先週、休んだレッスンs(ジャズ+コンテ)に行けました。嬉しい。ジャズの先生と「夏風邪はなかなか治らないですね」と話し合う。今することは今しかできないこと。そう思ったらなんか納得した。
自分でつくるときも、つい意味にすがりついてしまう(チキンだから)。が、意味はつけると重くなる、と見ていて思った@友人の発表会。

ダンスは意味から自由であり得る表現なのだから、勇気をもって無意味でいい。力のある作品ならば、観る側がイマジネーションを働かせて遊ぶことができる。無意味でも見せる力はもてるし、面白い。

友人出演の作品は意味からの離れ具合がクールでよかったし、他にいいと思った作品は振りそのものが面白かったり、身体に迫力があったり…要するに単純にダンスがよかったもの。

でもそれ以外はなぜか「おなかいっぱい」な感じの作品が多く、ダンスにおける「思わせぶり」はださいです、とか、やたらドラマティックな音楽を使うのはやめようよ、とか思った。「いわゆるコンテンポラリー」にまとまってる作品は完成度は高いのでしょうが、「わかったから、もういいです…」という気に個人的にはなった。なんかわくわくしない。

過剰にせずシンプルでいいんじゃないの、と思う。全体に抜け感というか、見ていて「ダンスしたくなる」「ダンスってイイ」思わせるナンバーが少なかったのが残念。照明すげー、と思いましたが、同じくスポットのなかでひとりずつ何かするのはやめたらどうでしょうか、とも思いました(なぜか多用されていた)。

昨年も書いたような気がするけど、このスタジオのコンテチームには「上手な人」「スーパー上手な人」しかいない印象。踊れる人って本当にたくさんいるんですね…。
いつもの先生にも訊いてみたところ、やはりactually などと同様に文の意味を和らげるためのフレーズであって、「はっきり言って」というよりニュアンスとしてはむしろ「実は」だそう。

「"to be honest"と言うからといって、いつも真実を言うとは限らない」のは同意、でもその程度をパーセンテージで表わすのはどうかな、イメージでとらえたほうがいいと思う、とのこと。「たぶん」てどのくらい確かなの?…って数字で出せるものなのか。%表現については私もそう思います。

マンツーマンの指導、というのは語学に限らず理想的な学習法のひとつではないかと思うが(ただし相性が悪い場合は悲惨):

1)真にインタラクティブ(双方向)である
2)教師は学生のニーズや目標、学力に合わせた対応ができる
3)学生の動機づけ(motivate)がしやすい

教師がこういった通信教材やEランにはないマンツーマン指導の利点を意識してうまく生かせているかどうか、というと残念ながら(私が通っているところでは)そうでもない。すごくもったいない、と思う。

思うに私がはりついている先生は↑がなにげにうまくできているから、レッスンが活性化する。インタラクティブといっても先生が設問を出し、学生が答えるという構図だけでなく、こちらの先生は(テキストの課題をやるだけでなく)話をふくらませたり、私が質問するように仕向けたり、なんかいろいろ工夫しているように思います。日本も含めていろんな文化や言語学に詳しいから話が面白いし。「学生から質問する」、パッシブでないというのはポイント。Passive learnerでなく active learnerに育てるというのは凄いことなのだ。先生もレッスンを楽しんでいる、ように感じられるのもいいこと。

違う先生についてみるとわかるけれども…受けとる情報量が違う。感動的に教え方が上手だなと思う。
都内36℃?うちだけ熊谷市内だから39℃はあっても不思議でない。でなけりゃなぜ普通にお湯をわかすだけで台所の火災報知機が毎度ピーと鳴るのだ?

今週初の洋舞(モダンジャズ)レッスン。レッスン友から役立つフィードバックをもらいました。プリエを深くね。やはり上半身の力に任せてやっちゃって、下半身(床)とつながってない。体幹を強く。足元ぱたぱたしないようになりたい。しっかり重みを伴って動きたいです。

若手のジャズっ子たちはすごく丁寧に、きれいにやろうとしていて、その真面目さはいつも感心する。けど。うまく言えないのだが、描いてる線の質というかニュアンスが違うのでは(あまりそう思われにくいかもですが、この先生の振りも彼が狙うところを再現するのが難しい部類かもしれない)。線の太さは同じでも、先生エンピツ、ジャズっ子ボールペン、みたいな。筆圧が強過ぎるような。きれいにやろうやろうとすることにこだわり過ぎるより、もっと線をつなげる、勢いというかフローをとらえていったほうがいいような気が私はします。

うそかまことか

2011年8月17日 EL
昼自主練。んーなんかわかってきたかも。

英会話はいつもと違う先生。"To be honest, it isn’t my favorite."という文があり、「これは間接的/直接的表現のどちらか?」という質問。はじめに「はっきり言って(正直なところ)」って言ってるんだから直接的表現、と答えたら違うんだそうだ。

なぜか。私はてっきり"to be honest"=「文字通り、本当のことを言う」と理解していたのだが、実はこの場合のhonest度というのは50~60%くらいであって、このフレーズの機能というのは「本当かどうかを示す」というよりも、後続する文の「前置き」として意味を和らげることにあるのだとか(一種の婉曲表現)。なので件の文の意味は「実を言うと、それあんまり好きじゃない(大キライというわけでもない)」。

びっくり。知らんかった。さらに意味するところの本当らしさ/本気の度合い(honest度)をそれぞれ訊いてみました:
To be honest (60%)
To be perfectly honest (70%; パーフェクトじゃないじゃん…)
To be frank (100% ; 本当に真実を言うとき)

ネイティブスピーカー一人(彼の名誉のために。ちゃんと言語学とか学んだ人)が言うことが英語のすべて、ではないにしても、こういう言葉のナマモノ性(辞書に書いてないこと)を知ることが、まさしく私にとっては英語を母語として使う人から対面で教わる面白さ。わくわくする。

で、この新しい先生、そつなくちゃきちゃき進めて悪くはないんだけど、どういう人なのかよくわからなかった。また受けてみるかもしれない。いつもの先生はレッスン後に内容が印象として鮮やかに残る。ツボを心得てるというか。こういう人はまれで(上から的な言い方であれですが)自分が何をどうやっているかわかってるんだと思う。コンテンツのことでなく、「教える」という不定形の行為について。これができるようになるのはなかなか難しいような(経験とか素質とか)気がする。自分がやった即興の内容をあとで思い出せるかどうか、と似ているような。
日曜は実家で集まりがあったがほとんどご馳走にあずかれず。寝てればよくなる、と畳寝してもよくならず珍しく発熱。その日は実家に泊まる。月曜朝に戻ったものの、熱は上がったりぃー、下がったりぃー、また夜になって上がったりぃーでレッスンに行けず。無念…。

今日も発熱中だったが朝いちハロワの日だったので行く。駅から家まで歩けないからバスに乗る。あつさも失業もつらいよ、とか思っていたらハロワの職員さんがとても温かい言葉づかいで説明してくれたので心で泣く。

夜はブトーの稽古番。これは休むわけにいかないので気をもんでいたが、帰って午後じゅうだらりんとしてたら熱下がる。自分が出力60%くらいなので省エネ気味、でも比較的人数が多く、「人がいるときにやってみよう」と思ってたワークをやってみて、みなさんカンが良くて助かる。WSネタを考えるのがちょっと大変だけど、この夏の「プチ先生」ごっこ、けっこう楽しい。

「節電アクション」に賛同したわけではなく、単に経済的な理由と意地で「ノー・エアコン」を続けていた私ですが、折れた。今年の夏は無理っ。去年も暑かったけどもっと元気も食欲もあったぞ。

let go

2011年8月13日 ダンスもの
BMへ。肩の感じがいつもと違ってて、事故にあった人みたいにきゅっと持ち上がり詰まっていたそう。この時間はとても大切なんだけど身体をゆるめると、いま塞き止めているものがみんな出てきそうで今日はこまった。泣きそうになる。ひとりで固めることなく、すべて任せてしまえればいいのに、と思う。
昼稽古。施設の人が蚊取り線香を貸してくれ至れり尽くせリー。今日は初めてVを撮ってみて、それはよかったけれども。むむむ…な状態。

ブトーのワークで今日のリーダーから「子どもになれ」との指示。固まる。「子どもを演じるのでなく、子どもになってください」だと。人がやるのを見ると「(いわゆる子どもらしく)天真爛漫に動け」てことらしい。私の記憶の引き出しにはそのような子ども時代の思い出はない。子どもも嫌い。自分が子どもに「なる」としたら暗い子どもになるしかない。とかトロしてしまったら今度は若造のリーダーが固まっていた。もっと世の中を知るように。

(いわゆる)子どもになれない自分に今さらながら驚いた。覚えている限りいつも何かを心配したり用心したり構えていたので、屈託のない子どもって本当にわからないんだ。すねた子どもになるのがせいぜい。なんか久々にずきっときたな。すねた子どもを笑ってくれた人がいたのが救い。

その後の即興は集中した。自分をなだめるため、流すため。

不毛

2011年8月11日
何かを達成しても、あとで虚しくなる、ということが大学3年生の頃くらいからある。努力して何か成し遂げることはできるが、努力と愛されることは別。私が「愛する」「愛される」ことを身をもって知る人になれない限り、これはずっと続くのだろうか。

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